Friday, December 28, 2007

Anarchy - My Words






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今年もたくさん日本語ラップを聴いてきたけども、その中でもThug Familyは突き抜けていた。「これは事実」、「真実をライムする」としつこく念を押しつづけるのだけども、その先のリリックが「裏切り者を暗殺」とか「ナイフを隠して街角に立つ」とか「敵を見つけて銃弾を撃ち込む」という内容。スキットでも「アイツはThug Familyを裏切ったから頭を一発で撃ちぬかれた」などと不吉な発言が飛び出しているので、こんなのが"真実"なら犯罪者だぞ!!と独りで突っ込んでみたら、曲中で「俺達は犯罪者」と名乗りをあげていた。リアルすぎてまるでファンタジー。Thug Familyには決して近寄らないことを08年への抱負とした。

RYUZOのアルバム"Document"はトラックもラップもリリックも07年を象徴するかのような内容で、つまりは見事な「不良ラップ」だった。「07年っぽさ」という観点で見れば、意図的にトレンドを外したSEEDAの"街風"や、リリックに説得力が無いZEEBRAの"World of Music"よりクオリティが一段上。にもかかわらず自分にどうにもハマらないのは前にも書いた「ヒップホップに対する距離感」のせいだろう。ヒップホップへのどっぷりの「愛」と「救いを求める姿勢」がどうにも鼻につく内容で、それを取っ払って裏返してしまうと醜悪な「ナルシズム」というか「自己憐憫」が姿を現して、聴き手に「哀れみ」を植え付けにきているかのように見えてしまう。

ところで「ヒップホップに対する距離感」という話では、いま一番特別な位置にいるのは、その「距離」を「逆境」と言い換えて、"仮想敵"として闘っているANARCHYだと思う。

ガキの頃から「ブリンブリンに着飾るM.O.B.の財布の薄さに気付」き、「貧乏だらけ しょうもないやつだらけ」の団地の一角で本物のスーパースターになるために「冷たいアスファルトはいつくば」ってラップする。「寒くて寒くて眠れな」く、「不安で不安でまた寝付けない」日々も夢が実現することを信じてラップする。

「音楽で飯を食う」ということ自体が馬鹿馬鹿しく見えてしまうこの時代に、「夢」という言葉を多用するANARCHYのラップには北の僻地で逆境に耐え忍んだBOSS THE MCや、新宿の路上で閉塞的な環境に耐え忍んだMSCと同じ「重み」を持つ。彼はヒップホップを強烈に愛し、スーパースターになることを熱望する。だけども、彼が恋焦がれるヒップホップとそのスターダムは果てしなく遠いところにあり、「逆境」の壁は途方も無くぶ厚い。しかし、その壁が厚ければ厚いほど、距離が遠ければ遠いほど、比例して彼の「夢」という言葉の重みが増していくのだ。

本作でもANARCHYは全ての曲で「逆境」と闘っている。アルバムの曲だけで彼のバックグラウンドをわかった気になっている私も私だが、彼の「闘う理由」を知った気になっているだけでも、作中のどれもが同じような内容である意味がわかり、リリックの響きもガラリと変わってくる。「ヒップホップスター」になるという果てしなく遠い夢への「闘いの音楽」――"My Words"の魅力が存分に伝わってくる。

だからANARCHYの隣で、漢が「Thug My Life!!」とか「争う! 時にどつきあう!」などと似たようなラップをしていると、そのあまりの得体の知れなさと、敵の見えなさに鼻水が止まらなくなってしまうのだ。ある意味、この曲にもSEEDAの"Mic Story"と同じで、いま誰の手にコインが渡っているのか如実にわかってしまう物悲しさがある。

Sunday, December 02, 2007

微熱メモ vol.5 : Who killed underground hip hop? - TTCの大脱走

先鋭的なヒップホップの歴史とはこれすなわちTTCの歴史である。
以下のメモは、目下の考察事項である「アンダーグラウンドヒップホップの衰退」を解く手がかりとなるはずの2002年から2004年にかけて「先鋭的」とされたヒップホップや時代を象徴したヒップホップの一覧。並べられた作品を見ているだけでも何かがわかった気になれる、気がする。

□ 2002


Clipse "Grindin'"
Nas "God's Son"
Cee-Lo "and His Imperfection"
Common "Electric Circus"
N*E*R*D "In Search Of..." [生音盤]

Steve Lenky Marsden "Diwali"

VA "Urban Renewal Program" (Chocolate Industries)

El-P "Fantastic Damage"
RJD2 "Dead Ringer"
Buck 65 "Square"
Anticon "We Ain't Fessin"
Eyedea "The Many Faces of Oliver Hart"
Sage Francis "Personal Journals"
Noah23 "Quicksand"
TTC "Ceci N'est Pas Un Disque"
Dälek "From Filthy Tongue of Gods and Griots"
VA "Documenta III, III.I" (Agenda)


・Diwaliほかプログレッシヴなダンスホールレゲエによって、Neptunes/Timbalandだけだった商業ヒップホップの動きが皆揃っておかしくなりだす。
・"Apache" を豪快に使った"Made You Look"やJames Brownの"The Boss", "Funky Drummer"を用いた"Get Down"などを収録し、ストリートに回帰した"God's Son"でNasは長年の低評価を跳ね返すことに成功。
・Anticon "We Ain't Fessin"の一曲目は、TortoiseのJohn Herndonプロデュース。前年のHood "Cold House"からポストロック勢との邂逅が続く。
・Plague Languageをはじめとするカナディアンナードラップが隆盛。
・アヴァンヒップホップがクールだったというムードは、エレクトロニカのレーベルからアンダーグラウンドヒップホップがリリースされることが多かったということからも伺い知れる(Vertical FormからSixtooのアルバムが出ていたことも記憶に留めておきたい)。Peacefrogのサブレーベルからリリースされた"Documenta"シリーズはその象徴で、Def JuxやMushのみならず、Galapagos 4 やPeanuts & Cornまでが網羅されている。
・TTCの"Ceci N'est Pas Un Disque"にはDose OneやDJ Vadimが参加。この頃は割と普通のアンダーグラウンドヒップホップだった。


□ 2003


Lil Jon & The Eastside Boyz "Get Low"
50 Cent "In Da Club"
T.I. "Trap Muzik"
David Banner "Mississippi"
Outkast "Speakerboxxx / The Love Below"
Jay-Z "The Black Album"

Dizzee Rascal "Boy in Da Corner"

VA "Lexoleum" (Lex)

Bleubird "Sloppy Doctor"
Busdriver & Radioinactive with Daedelus "The Weather"
9th Wonder "God's Stepson"
L'Atelier "Buffet des Anciens Eleves"


・"Get Low"の大ヒット。「馬鹿でクール」なヒップホップが台頭しはじめる。
・それに耐えられない人のためにT.I.やDavid Bannerといったまともにラップできる人たちが似たようなスタイルで秀作をリリース。それらを総称して「クランク」という言葉が定着する。
・イギリスからDizzee Rascalという怪物が現れる。
・一方、Jay-Zの引退をかけて作り上げた"The Black Album"が大ヒット。01年の"The Blueprint", "Stillmatic"にはじまるJay-Z, Nas両名の「シリアス」なムード作りによって、リスナーがアンダーグラウンドからメジャーへ着実に流出していったが、最終的には9th Wonderが"The Black Album"に辿り着くことによってアンダーグラウンドの持つ「ストリート性」は完全にメジャーにバトンが渡ることとなる。
・Outkastの"Speakerboxxx / The Love Below"がヒップホップの解釈を更新し、しかもロックなどの他ジャンルにも大きく評価される。
・ナードラップが飽和しはじめ、収拾がつかなくなる。そんな状況の中、アンダーグラウンドシーンの象徴だったサイトHHIが閉鎖する。
・今をときめくInstitubes初のリリースがTeki, Tacteel,Para One, James Delleck, Fuzati, CyanureからなるL'Atelierのアルバム。内容はエレクトロニカ×アンダーグラウンドヒップホップ。


□ 2004


Kanye West "The College Dropout"
Usher "Yeah"
Snoop Dogg "Drop It Like It's Hot"
Federation "The Album"

M.I.A. "Galang"
VA "Rio Baile Funk: Favela Booty Beats"
TTC "Bâtards Sensibles"
Lethal Bizzle Records "Forward Riddim"
VA "Run the Road"
M.I.A. & Diplo "Piracy Funds Terrorism"

Danger Mouse "The Grey Album"
cLOUDDEAD "Ten"
TOCA "Dancing with Skeletons"
Murs & 9th Wonder "3:16"
Noah23 "Jupiter Sajitarius"


・cLOUDDEAD解散。
・Peanuts & CornやNoah23などの作品で脱ナードラップの色合いが濃くなる。
・不調が続いていたDef Juxから出たMurs & 9th Wonder "3:16"は実験的な要素を抜いた正統派の「ストリートアルバム」としてヒット。良作も、評価的にはJay-Zに遠く及ばず。
・アンダーグラウンドヒップホップの売りの一つであるインテリジェンス/非マッチョなメンタリティまでもがKanye Westに持っていかれる。
・Danger Mouseがビートルズのサンプルのみで作り上げた"The Grey Album"が出自とはまったくの関係のないマッシュアップの文脈でNMEから世界中へと火がつき、ヒップホップのリミックス(マッシュアップ)では異例の大喝采を受ける。
・Dizzeeからの流れでイギリスのグライムシーンが注目を浴びる。
・上記リリースリストから見られるような混沌とした時代の寵児としてM.I.A.が"Galang"でセンセーショナルなデビューを飾る。あまりにも得体が知れないその雑食性の高さから、当初はグライムの文脈だとも誤解された。
・そのM.I.A.のネタ元として一番大きいバイレファンキが発見され流行。
・TTCの"Bâtards Sensibles"にはアンダーグラウンドヒップホップ的要素一切無し。代わりにエレクトロやスクリュー、クランク的な要素が取り込まれていた。

Friday, November 30, 2007

Monday, November 12, 2007

Nitro Microphone Underground - Special Force






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このブログで良く知らないこと(政治とか宗教とか戦争とか)についてはとやかく書かないようにしているのだけど、「大連立」ってなんか麻雀の役みたいにキャッチーな単語だからその言葉だけで色々ごまかされていそうで憎くてしょうがない。民主主義の根本は国民一人ひとりの意思が政治に反映できるものだと思っていたけど、政局を進めるためだけにその大切な民意を勝手に統合してしまうこの妙案はまさしくテラ孔明。「天下三部の計」くらいの奇策だ。

そういえば最近読んだ村西とおる氏の美恵子さん亀田親子のコラムに感じ入るところがあった。両方とも「嫉妬の醜さ」がコラムのテーマで、まぁつまり花田の親父は器が小さいが故に嫉妬心で嫁の真意が汲み取れず、日本全国の親父は嫉妬心故に亀田の親父が許せなかったという話。確かに男のジェラシーより醜いものは無いと思った。

現在、日本語ラップにおいて男のジェラシーを一手に引き受けるラッパーと言えば、私の文章にしょっちゅう出てくるジブさんと、あとはKrevaに間違いない。しかし考えてみれば、ツラが良い、頭が良い、懐が深い、面倒見が良い、仲間から信頼を得ている等などの完全無欠のあらゆるモテ要素には私も嫉妬心を掻きたてられてしょうがないと告白しておく(「20代OLの一番好きな音楽No.1」ってどういうことだよ!>Kreva)。しかし、彼らみたいにリスナー獲得の為に貪欲と言えるほどクオリティコントロールに重きを置いているラッパーはなかなか他にいないのに、「なんだかPOPっぽいから」という理由で他のラッパーから強烈なジェラシーを向けられるってのも可哀想な話だ。「金を稼ぐ」だけの目的ならTha Blue Herbを見習うべきかもしれない。どんなにつまらないことを言っていても「POPじゃない」だけでとやかく言われないし。

いまや一つのヒップホップグループで、全員がきちんとキャラ立ちして、「ほぼ」全員がスキルフルなグループは他に無い、というだけでも貴重な存在のNitro Microphone Underground。各々のソロ作や他プロジェクトへ目を向けると、もはや一体なんで一つのグループとして収まっているか不思議なくらい明確に音楽性が異なっているように見えるのだけども、そんな位相のズレを無理やり強引に一つに圧縮して全員が窮屈そうにマイクを廻す"Straight from the Underground"は今聴いても大変面白いので、本作も楽しみに聴いてみたらあまりのつまらなさにゲロを吐きそうになった。作品を把握しようとどれだけ努めても、全く掴めきれないので、以下感想を羅列。

 ・20回以上聴いたにもかかわらず全くといっていいほど印象に残らない。覚えているのは、DaboとSuikenが警察に追われていたことくらい。
 ・そのせいでか、今まで「個性がある」と思っていたMC陣の見分けが一瞬つかなかったりした。Gore-Texかと思ったらDeliだったり、Suikenかと思ったらMacka-Chinだったり、「こんな奴ニトロにいたか?」と思ったらKashiだったり、Big-Zだったりした。
 ・Big-ZがワックMCを猛烈にDISっていてホッコリした。
 ・Daboのラップには貫禄がでてきたけども、Deliは若返っていた。そしてSuikenのラップには下っ端風情が滲み出てきた。
 ・なんていうか、全体的にひたすら地味。前作もタイトでダークな内容で、まだアレは「売れる日本語ラップ」で敢えてああいうことをやることにも意味があったと思うけど、今作はただ「POPじゃなく」するためにやっているようにしかみえない。
 ・契約上アルバム作らなきゃいけないんだろうけど、みんな別に言いたいことは何も無いんだろうなーと思った。なぜなら曲のテーマもリリックの中身も全員が全て似たり寄ったりで、その辺のムードがTBHの2ndや3rdにそっくりだから。
 ・今の風潮からしてリリックに凝りたいんだろうけど、「何か言わなきゃいけない」的ムードは彼らには合っていない。何も言いたいことないのなら立ち返って「言葉遊び」をすればいいのに。
 ・彼らが描写する「トーキョーシティ」って、私の知っている東京のイメージとだいぶ違う。「冷たい」というイメージと「硬質」なイメージは東京っぽいけども、どっか架空の都市なんじゃないかとすら思う。
 ・だからS-Wordが「カプセル・トーキョー」と言ったときにはハッとしたけども、良く聴いたら「闊歩する東京」の空耳だった。
 ・それにしても、これだけずっと聴き続けても、飽きるどころか未だに印象に残らないっていうのは、ある意味スゴイ作品なのかもしれない。

とにかく、アーティストそれぞれの主義主張がせめぎあっていた前作に比べて、この作品に個々の主義主張など全く無いことくらいは理解できた。感想をまとめると、ヒットチャートに上がっても男のジェラシーを向けられないようにただ「POPじゃない」ようにした保守作品、各々が何の主張も無く民主主義に則って「ただ作り上げた」だけのアルバムだということか。一見、薄味にまとまって、作品がコントロールされているように見えるかもしれないけども、それは違う。要するに誰もコントロールできなくなったから、皆揃って平均値を歩みはじめただけ。それならば"Special Force"などという横文字を使わずに「大連立」という作品タイトルにしたほうが力強いし、実態に合っている。

Wednesday, November 07, 2007

Ice Dynasty - Dynasty -23Anthem-






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Zeebraが"World of Music "で英語を多用するのは「日本語ラップを広めるという使命を終えたから」だそうです。なるほど。気がついたらヒップホップなど今まできちんと聴いたことない方でもマイクを持って韻を踏んでPCに録音すれば全国にリスナーが生まれる時代になっていました。COMPASSのインタビューでNorikyoが「RAP書いてレコーディングするだけって、はっきり言って中学生でも出来る」と言い、フリースタイルの重要性を改めて説いていましたが、「日本語ラップを広める」という目的が霧散したいまの時代はラッパー一人ひとりが「存在理由」を改めて問われているときなのかもしれません。きっとこれから先、個人個人の「ラップする目的」が如実に作品に顕れるようになっていくのでしょう。

そういう訳で「日本語ラップを広める」という使命から解き放たれた人たち(特にベテラン勢)が次にどのようなことを表現するのか非常に興味を惹かれているのですが、何も「目的意識を持たねば面白い作品は出来ない」ということを言っているのではありません。例えば、目的も無くぼんやりと日々を漂うボンクラが万年的に抱えるモヤモヤを具体化したようなRip Slymeの"Talkin' Cheap"という作品は、やはり同じようにモヤモヤを抱える多くのボンクラに共感を得て支持されました。このときに彼らが表現手段としてヒップホップを選択した理由を知りはしませんが、この時代にあって妙な使命感に縛られない「目的意識の無さ」が"Talkin' Cheap"の夢のような世界を強固なものにしているのです。

実はIce Dynastyのことをそのグループ名からしてDQNのラッパー集団であると勝手に思い込んでいました。そして実際、彼らの楽曲を聴いてみると、やっぱりDQNらしいネタ感満載のセルアウト上等なトラックの上で、頭の悪そうな典型的なセルフボースティングや金ネタやナンパネタを決して上手くは無いラッピンで決め込んでいたので「それ見たことか」と気色ばんで曲を聴き進めていたのです。しかし、その浮かれきったDQN達のテンションの陰に、ひっそりと繊細な言葉が見え隠れすることに気付いたとき「おや?」とまず思ったのでした。「いつか絶対セレブ」とのたまうOLのような上昇志向の裏で『いつか世界は無くなるのさオマエの生きた証の数々も無い / それ聞いた途端に無くなりもがく / どうせ世界が無くなるのなら生きたいように溌剌とさ / そして迎えてくれよまず明日をな』というようなことを言うのです。

アルバムの終盤まで曲を進めたとき、彼らのヒップホップは極めて純粋な「初期衝動」に突き動かされたもので、妄想的な上昇志向の中身には出口の無いニートでフリーターなDQN達のモヤモヤがたくさん詰まっていたことに気付かされました。吐かれる『始まりはSunset終わりはSunrise / 今日は何軒まわったっけクラブ? Up & Downするテンション / いつも過ぎていく一日はあっけなく…』から始まるラインには、クラブで仲間達と楽しく馬鹿騒ぎした後の空虚な日常が見事に描き出されていました。確かに"Dynasty -23Anthem-"ではDQN達がDQNなトラックでDQNなラップを繰り広げています。しかし、そこで複雑に屈折して、反射する言葉の糸を手繰り寄せたとき、そこには大きなモヤモヤがあって、それは「目的意識のない」"Talkin' Cheap"の能天気なモノとは違い、「中身の無い上昇志向」に縛られた、より閉塞的で、より刹那的で、より灰色がかった哀しいモラトリアムの上に成り立っていることがわかったのです。

『明日は明日の風が吹くだろう / Highになって飛ばす車を / 誰もいないとこに向かおう / Sky The Limit可能性は?』

Sunday, October 21, 2007

Zeebra - World of Music






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アルバムに入っている二木崇氏のレビュー、「ブラストアワードメッタ斬り」での"The Rhyme Animal"評、MAG FOR EARS vol.3での"Tokyo's Finest"評、当ブログの"The New Beginning"評を一言でまとめると、「Zeebraの作品は常に"カウンター"を意識した作りになっている」と言える。

キングギドラのハードコア路線をリセットしてソフトな「大衆路線」へ移行し("The Rhyme Animal")、それを地盤に「ミスターダイナマイト」というイカつく説教臭いラッパーの偶像を「ヒップホップイメージ」として一般人の脳裏に植え付け("Based on a True Story")、そのヒップホップイメージにポジティブな目標を掲げるべく「ヒップホップドリーム」を提示し("Tokyo's Finest")、その独りよがりで歪な幻影を多くのハードコアラッパーから叩かれ、世間ではPOPミュージックのラップが一般認知を広げる中で「原点回帰」した("The New Beginning")。これほど、周りの環境/時代の流れと自分の作品の関係性を意識して、改善を加え続けているラッパーもなかなかいない。Zeebraは「トライ&エラー」型のラッパーなのだ。

なので、本作"World of Music"でどういう方向に行くか楽しみにしていたら、"The New Beginning"の後としてはかなり「正解」に近い解答を出したのでとても感心したのだった。Zeebraは「シーンの中を"牽引"することに対する意識の薄さ」を払拭するかのように「原点回帰」路線をそのままに下の世代をフックアップし、更にそのまま若手の力を借りることで「現役感」を取り戻そうとしたのだ。そして、その試みが功を奏してかムードとしては「今風」で、いままで「改善し続けて積み上げた」結果が時流とマッチした「現時点で最高の快作」を叩き出した…。

…とは言えるのだけど、Zeebraが「不良ラップ」のムードを纏うのにスゲー違和感がある。というのも、「不良ラップ」って前のコラムのとおり「リアル(素)」を表現しているものだから、Zeebraのヒップホップにおける「姿勢」とあまりにかけ離れてすぎていると思うからだ。

これは、MAG FOR EARS vol.3の繰り返しになってしまうのだけど、ジブさんの大きな罪として一般人に「悪そうな格好と偉そうな態度で、偽善的な説教と聞きたくもない自慢話を繰り広げる」ラッパーのイメージ(ミスターダイナマイトさん)を刷り込んだことが挙げられる。今のラッパーが「カッコいい日本語ラップを広める」という名目で一般人をリスナーとして取り込むときに闘わなければいけない一番の強敵は、リップでもキックでもシーモでもなくて、「ミスターダイナマイトさん」なのだ。

そのラッパーの幻影とも言うべく「ミスターダイナマイトさん」を世間的に抹殺するための有効的な手段の一つとして「ラッパーの"素"を見せる」というアプローチ、すなわち「不良ラップ」の表現があると勝手に思っていた。(だからこそSEEDAの"街風"が一般リスナーに届いたら「ターニングポイント」になると思っていた…)そしたら、ジブさんはムードだけを「今風」に身にまとって、肝心のリリックは今までと殆ど変わらずパーティでクエルボをガンガン飲んで、セクシーガールをはべらしていらっしゃって度肝を抜かれた…。

そもそもZeebraのヒップホップは「リアル(素)の表現」とは程遠い「ロマン/ドリームの提示」である。だからそういう「ヒップホップドリーム」の下地になるヒップホップイメージを殺す必要は全く無いし、「リアル(素)」を見せるのは彼の活動上ではマイナスでしかないのだろう。

しかし、ムードだけが「今風」で、言っていることがミスターダイナマイトさんと同じなのってあんまりだ、と思うのである。

Saturday, October 20, 2007

SEEDA - 街風






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////////////"街風"を聴く前の感想/////////////

"3 Days Jump"や"A Sweet Little Dis"を初めて聴いたとき「なるほど」と思わず膝を叩いた。考えてみれば至極単純な発想だし、やろうと思えば誰でも出来たはずなのだけども、日記帳に見たことを綴る描写や、DISを主眼として特定のラッパーを叩くリリックは日本語ラップになぜか存在しなかったからだ。ヒップホップを聴いていれば自ずと出てくるはずの表現を自分も含めて皆がスルーしていたことに驚いた。

そういった「驚き」は普段日本語ラップを聴いている中でもなかなか無いものだけども、最近ちょっと前にネット上で観た"Mic Story"のPVの中に転がっていた。同じクルーや地元の仲間をフックアップする為の曲というのは今までいくらでもあったけども、既に成功して金も地位も手に入れたベテランラッパーが新進気鋭の若手ラッパーにエールを送るという構図の曲はいままで無かったのだ。

"Mic Story"で、SEEDAは「ヒップホップで成り上がる」ことに対する想いや葛藤を誰にともなく吐露し、Bossは「ラッパーの先輩」としてSEEDAの不安を拭い、励ます。その構図はまるでヤンチャで情熱的だけど未熟な弟(=SEEDA)とその弟の成長を温かく見守る懐の深い兄(=Boss)のようであり、そのままBL(≠トラックメイカー)として成立してしまうんじゃないか?と思えるほどの斬新さ。

日本には、ストリートで携帯電話越しにラップをするようなヤツはいないが、ニコニコ動画を介してアニソンのビート上でラップしたり、DISりあうようなヤツはいる。日本語ラップがこの先どのように成長していくかはとんとわからないけど、"Mic Story"のような構図のBL本が出るようになったら「日本語ラップは一般に認められた」と胸を張って言える、と思う。「なぁSEEDA、ストーリーを続けようぜ(性的な意味で)」

////////////"街風"を聴いた後の感想/////////////

MEN'S STREET誌でSEEDAが「日常の喜怒哀楽をラップしたい」というようなことを言っていたので、とても感心した。

この間の古川氏との対談のあと、「"表現"の寿命はどうすれば長くなるか?」ということを考えていた。「フィクショナル」な方向に行くというのは確かに一つの選択肢ではあるけども、他の選択肢はないのか? ということについて。結構見落としがちなところではあるが、「日常を切り取って表現する」という行為自体はブログでみんな普通にやっていたりする。そういう日記/エッセイ的な表現って「限界」はないよなーとフト思った。SEEDAが言う「日常の喜怒哀楽の表現」って要するにこういう「日記」のことを指しているのだろう。実に頭が良い。

でも、ブログで日記を書いている人は良くわかると思うのだけど、「何も無い一日」の日記を面白く相手に読ませることは大変難しい。今日の一日は昨日の一日と一体何が違う? 人間関係や政治や戦争に対する自分の考えを日記で表現するにしても、その「考え」って他の人の考えより面白いのか? 多くの人に他愛も無い日記を読ませる「スキル」を持つ人は、何でも無いように見える一つの出来事をさも面白い出来事に仕上げる「視点」と読者を喰いつかせる「文章力」を持っている。それが無いと毎日同じようなこと(飯の献立とか)が延々と書かれているつまらない日記になってしまう。

結局「日記的」な表現というのは、漠然としたテーマを独特の視点で分解するスキルが必要なんだと思う。何年も何曲も同じようなことしかラップしていない人はそのテーマの分解ができていないだけだろうし、逆にありがちなテーマでもハッとさせられるようなリリックを書く人はそれが出来ているんだろう。

"街風"において、刺激的な自分の経験を切り売りする「私小説的」表現から他愛も無い日常を切り取る「日記的」表現に移行していっているところがポイントなのはもはや言うまでもない。ここで重要なのは、リスナーが注目し始めた不良ラップの「リアル」な表現から数百メートルも離れたこのリリックがどのように耳に響くか、というところだ。彼の「スキル」がリスナーの興味をどこまで惹きつけることができるか? 「道を散歩する」ようなリリックがハスリングライフの描写を超えてリスナーを掴むことができるか?

Zeebraの"World of Music"は、前作の"The New Beginning"を更に「改善」し、現在の不良ラップの流れとの一瞬の邂逅を見せる。それゆえ「シーンの内側」へも目配せした「今風のムード」を持つ好盤だけども、そのムードを持っているが故に相変わらず古臭いリリックの「使いまわし感」も鼻につく。同日発売のSEEDAの"街風"とZeebraの"World of Music"を聴いてどちらに軍配を挙げるか、リスナー自身の「興味のスタンス」も個々に明確に別れて顕れるところだろう。「不良ラップから抜け出そうとするラッパー」と「不良ラップのムードだけを纏うラッパー」、リスナーが果たしてどちらに流れるか、興味深いことこの上ない。

(まったくの余談だけど、SEEDAが"街風"で「ポジティブさ」を求める姿勢は、Bossが「闇」を求めていた姿勢と丁度真逆なところが非常に面白いと思った。こうやって対比すると、2人とも自分に「無いもの」をヒップホップへ求めているように見えるのだ)

Sunday, October 14, 2007

微熱メモ vol.4

・「地域」という横の広がりと、「時代」という縦の繋がりへアクセスする労力はそもそもが大変なことだったのだけれども(というか"掘る"という言葉自体が最近聞かないけど、今となってはその単語そのものに"労力"を感じるな…)、その不便さ故に地域/時代ごとに独特な音楽が育まれていたのだろう。その労力をIT技術が微小なものにすればするほど、その「独特な音楽」は地域を越えて時間を超えて私達の耳に入りやすくなってきた。これは前のMINTのレビューでも軽く触れたとおり。

・しかし、それらの「独特な音楽」がネット上にまとめられ、多くの人に共有されればされるほど、その音楽の持つ「地域性」や「時代性」はフラットになっていく。そしてその「フラット化」の現象は実は既にもう起こっているのだなぁと最近身をもって感じている。

・そもそも00年代の音楽の「特殊性」というのは、それぞれの作品が持つ「雑食性」に集約される。例えばまだ「旬(?)」とされているグライムであったり、クランク/ハイフィの中でも、時にNYアンダーグラウンド、ミドルスクールやダンスホール、ボルチモアにチカーノラップの匂いを色濃く感じることがある(勿論、逆も然り)。TacteelやBassnectarやCherryboy Functionといった国もバックボーンも違うようなアーティストが同時期に同じような音を鳴らしたり、おそらく個人的な繋がりは殆どないであろう降神や小林大吾や外人21瞑想が似たような海外ナードラップの雰囲気を醸しだすのは前述のITによる「フラット化」がなければ起こりえない事象だろう。(アンダーグラウンドヒップホップにけるITの重要性は"put em on the map"でのfuma75氏との対談コラムを参照のこと)

・そして、その「フラット化」現象を「集約音楽」の作成ツールとして活用できているのがM.I.A.とTTCであり、コマーシャルな方面へ有効活用しているのがKanye WestやSoulja Boyだったりする。

・Soulja Boyの「売れ方」は一つのモデルケースとして非常に面白い。彼は自分の楽曲に「その時に流行した曲のタイトル」をつけて、MP3で流出した。すると必然的にリスナーはSoulja Boyの曲を「間違えて」ダウンロードして聴く羽目になり、その中でSoulja Boyに興味を持ったリスナーが彼のmyspaceに訪れ、彼の動画をYOU TUBEで見るようになっていったのだ。Mr. Colliparkが彼と契約したときには既に彼のmyspaceは1000万ページビューがあったという。

・基本的に海外(というか特にアメリカ)の音楽は発売前の音源流出が多く、違法ダウンロードの宝庫だった背景もあったせいか、最近では特に音楽を「パッケージとして売るもの」という意識が薄れてきている。寧ろ、自分の音楽を積極的に世間に聴いてもらったり、「他人の面白い音楽を共有する」ことの方にプライオリティが傾いてきている。(その意識が結果的に、PrinceやRadiohead、Nine Inch Nailsの「ライブに来てもらうためにタダ同然で音楽をばらまく」という姿勢や、Danger MouseやA-Trak、その他のDJのMIXのように「自分の知名度を上げるために音楽をばらまく」という姿勢に繋がっていたりもする)つまり、いまの「音楽」は「企業の商品」という形式から「アーティスト本来の活動を支えるもの」という形式に変化を遂げつつある。「"音楽"は"芸術(アート)"」だという言葉を嫌う人は私も含めて結構いると思うけど、この「形式」って実はそういうことなんじゃないか?

・そして、こういう風に音楽が「フラット化」されてくると、「受け手側」(特に批評家)の能力が問題になってくると考えている。なぜなら音楽が「地域/時代/ジャンル」を超越して流動的にフラットになってくると、音楽を「体系的に語る」ためにはほぼ全ての音楽を聴かなければならなくなってくるからだ。1人のアーティストだけ追うならまだしも、「音楽の批評」を書くことを生業にしている人はその人の持つ「ライブラリ」や「アクセス能力」が今まで以上に読者に評価される時代になってきている…。

・…と、これまでSTUDIO VOICE 2007年11月号に感じた「うすら寒さ」の理由について書いてみました。というか、仮にも「批評」で金貰っている人間がアーティスト/DJやバイヤーや一素人の知識や洞察に劣っていたらいかんだろう。兎に角、音楽について何かを書く以上は「幅広く、量を聴く必要がある」ということを自分にも改めて言い聞かせたい。

Friday, October 12, 2007

Soulja Boy - Souljaboytellem.com






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曲によってダンスの振り付けが決まっていて、「そのダンスの面白いから♪」というアホみたいな理由だけで曲がガンガン売れていくシーンを持つアメリカっていう国はやっぱり単純で、ある意味では健全なんだと思う。踊るために音楽があるのか? 音楽があるから踊るのか? などと部屋の片隅で悶々と考える根暗な人種はきっと0.001%ほどもいないのだろう。日本に生まれて本当に助かった。

それにしても、そんなアメリカの懐の広さと腰の軽さを映し出した風潮もしばらく経つと、その熱すぎる「ダンス欲求」のみでシーンが動くようになるのだから恐れ入る。奇抜な発想で「みんなが聴いたことがない」ビートを作るためだけに延々と音をこねくり回しつづける南部ヒップホップシーンで、今そのライン上に位置するはずの若手トラックメイカーが「ダンス熱」に突き動かされて、生みの親を殺すような音を半ば無意識的にクリエイトしているのだ。そして「ダンスがカッコいいから♪」というダンサー達の低偏差値な回答によって、ヒップホップどころか音楽ですらないようなものが次々と産み落とされ、流行りのポップミュージックとして瞬間的に消費されている。まるでお笑い芸人界のようにシビアな世界がここにあった。

その弱肉強食の過酷な生存競争の中で、みごとに頭のネジがふっとんで極限までおかしなことになったのがGotty Boi Chrisの"Dip Low"だけど、そこで代表となっているイケメン・ダンサー/トラックメイカー/ラッパーのSoulja Boy君のアルバムが更にあっけらかんとぶっ飛んでいたので、彼のあまりの若さ(17歳)も手伝って、大いに驚き、ぶっ飛んだ。単純すぎてもうアバンギャルドなのかどうかさえ定かでないSoulja Boy君の「あばら屋ビート」は、ミドルスクールやボルチモアのそれと似たプリミティブな凶暴ささえも持ち合わせている。たとえば、高音と低音を極端に「大げさ」にして強迫的に鳴らすアイデアはTodd TerryとKenny Dopeがその昔Kaosの"Court's in Session"で提示していたものだし、ありえないくらいに簡素で単調なループをひたすら反復させ続ける大胆さはRod Leeのそれをも凌ぐ。小難しいことは抜きにして、快楽的な音色だけを抜粋し、全てを大げさにでっち上げた「パンク魂」炸裂のビートだ。

荒削りで、単純で、エネルギッシュ。正にアメリカらしい「パワー」を持つSoulja Boy君がこれから先に数多のミドルスクールのラッパーの如く消えてしまうか? その飽くなき「ダンス欲求」をクリエイティブな方向に上手く繋げることができるか? これから部屋の片隅で悶々と考えてみようと思う。

Sunday, October 07, 2007

Prefuse 73 - Preparations






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ただのサラリーマンが偉そうに音楽について書き散らかすということ自体が確かにいやらしいとは思うし、金にもならないし数十人程度の人にしか読まれていないのにWEB上で6,7年も書き続けているというモチベーションの出所が不明ですこぶる不気味であることは自覚している。ただ、雑誌を読んでもネットを徘徊しても、つまらない、くだらない、共感できない文章だらけだから自分で作品を整理して納得できる文章を書いているだけ。要は、自分が満足できる文章をひねり出して、自画自賛を繰り返すのが好きなんだ。そして誰かが共感してくれている実感があれば言うことない。

2007年11月号のSTUDIO VOICEみたいな「ディスクガイド」で手抜きのようなことをさもわかったかのように書いているものを見ると唾を吐きたくてしょうがなくなる。(「ディスクガイド」って万人へ音楽を紹介するものだろう?)「M.I.A.がどんな"文脈"にも属さない」ように見えるのはきちんと周辺の音楽を聴けてないだけ。そもそもがGuinessでAtmosphereやAnticonと一緒に並び、Dose OneやDJ Vadimが参加していたTTCの"C'eci Nest Pas Un Disque"はれっきとした「アンダーグラウンドヒップホップ」なのだから、これを取り上げるなら「アンダーグラウンドヒップホップ」をもう少し掘り下げるべきだとも思った。

90年代末から00年代初頭にかけての「空虚感」の話も見事にスルーしているところも不満極まりない。「言いたいことは何もないけど、ガッツリ盛り上がろう!!」という浮かれきった日本語ラップバブルの様相も大いに空虚だけど、あの時期にECDやスチャダラパー、リップスライムにキックザカンクルーが醸しだしていたムードは「いつまで経っても終わらない90年代」という謎のモラトリアムに包まれた「空虚+エレガント=退廃的」という独特なものだった。

そして今思い返せば、そういう時代の「微妙」な空気の中だからこそ、皆が「繊細で、からっぽ」なエレクトロニカを好んで聴いていたのではなかったのかとも思うのである。だから、Prefuse 73の"Vocal Studies + Uprock Narratives"がこと日本で「画期的」だと思われたのは、「ヒップホップとエレクトロニカをリンクさせた」ことより、「ヒップホップをズタズタに切り裂いて、靄をかけた」行為そのものを指しているのではないかと思うのだ。確かにビートもラップも明確に「ドープ」であることが是とされたアンダーグラウンドヒップホップが「アーティスティック」な方向へ流れるキッカケにはなったけども、そんなことよりも「ドープ」が注ぎ込まれた器を意図的にひっくり返してからっぽにした行為自体があの虚ろな時代にマッチしていたのだ。

21世紀になっても90年代がいつまでも続くような錯覚に包まれた00年代初頭。それが「ワールドトレードセンターが崩壊して終わった」とはSHINCOの弁らしいけど、それをまた借りしてもっともらしく言えば03年"One Word Extinguisher"以降、ビートが明確に整理されて、よりヒップホップのフォーマットへ近寄っていく様子は「崩れ去った世界を再構築」しているように見えないことも無い。それは「堅実」だからこそ、作品としてわかり易く、退屈になっていることも理解できる。

03年、日本には「下り坂の入り口」の象徴となる作品が2つあった。MSC"Matador"とKiller Bong "Off & On"。本作"Preparations"ではヒップホップへの歩みを止めて、ビートをもう一度「混ぜる」方向へ行った。"Off & On"よりは全然ポジティブだけども、この作品がKiller Bongのビートに近いと感じさせるところは肝だろう。スコットへレンがこれからコップに何を注ごうとしているのか? この作品の意味はまた後付けで数年後に気付くのだろうけど、「ターニングポイント」としては非常に象徴的で色々考えたくなるほど面白い作品であることは間違いない。

Wednesday, September 26, 2007

Kanye West - Graduation






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「Supernaturalはフリースタイルで何にでも変身することができる。だからフリースタイルバトルでは決して敵わないだろう。だけど1人のアーティストとして作品を作るときに彼は自分を表現する術を持たない。アーティストとしては俺のほうが圧倒的に勝っている」と喝破した50 Centも「作品のクオリティを重視する」という意味では、Kanyeと同じサイドのアーティストだ。詰まるところ50 Centの敗因は圧倒的な「人望」の差にあった。

50 Centが他人をこき下ろすことにより注目を集めてのし上がってきた一方、Kanyeはロッカフェラ帝国の力の利を生かし、持ち前のポジティブさとミーハー根性で人脈を築きあげていった。1st、2ndアルバムでもヒップホップ・フィールドから遠く外れるMiri Ben AriやJon Brionを登用する懐の広さ見せていたが、今作の持つ「パワー」はそれこそ彼の偏執的な「作品主義志向」と良い人材は大きな見返りを払ってでも迎い入れる「能力主義志向」が見事にマッチした結果の産物だ。

Young Jeezyのビートを大金で買い取ったり、Daft Punkをサンプリングするだけならまだしも、アルバムの「目玉」を担う"Good Life"はミキシング違いで16バージョン、"Stronger"は75バージョン作られたという「良曲」への執拗なこだわりよう。さらに今作ではシンセやドラムメイキングのためにTimbalandだけでなくToompやEric Hudsonを引っ張りこみ、客演ではT-PainやLil Wayneなど「メインストリームの旬」を押さえ、しかもジャケットに村上隆、PVにEd BangerのSo-Me、バックDJにA-Trakを配置するという「わかってらっしゃる」見事な人選。広告やライブパフォーマンスを含めて全てを「一流の作品」に仕立て上げるため、厳選された豊富な材料で細部の細部の1個のビートまでがこだわりぬかれた贅沢きわまりない一皿がこの"Graduation"なのである。

「一流の作品をつくる」ために、これほどのマンパワーを使える人は世の中に殆どいないだろうけども、「金」はあっても「人望」は皆無に等しい50 Centが今回「超えられない壁」を感じて引退を宣言する気持ちもわからなくはない。

Kanye West - The Good Life

Monday, September 03, 2007

日本語ラップのリリックにおける「進化」と「限界」について

古川耕氏を招き、日本語ラップで言われるところの「リアル」であったり、「ストリート」という言葉の意味と、日本語ラップのリリックの「進化」の過程を今までより少し掘り下げて考えてみました。

日本語ラップの「限界」とは?リスナーは何を求めているのか?ラッパーは何を表現するべきか?非常に長いですが、興味ある方は時間を割いて是非。

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●昔に言われていた「リアル」・「ストリート」というもの

微熱:95年くらいから「リアル」だったり、「ストリート」というような言葉は使われているんですよね。でも、今言われる「リアル」や「ストリート」という言葉の意味合いとは全く違う。当時、雷やキングギドラ、それこそRHYMESTERも言っていたと思うんだけど、彼らが言う「リアル」というのはJ-RAP(偽者)に対する「ハードコアラップ(本物)」のこと、「ストリート」というのは「現場」のことがメインで、実はとても楽観的なものなんですよ。「これから盛り上がっていく本物のラップを目撃できるのはココしかない!」というような「日本語ラップの未来」というものに対して楽観的な意味合いがこもっている言葉なんです。これに対して、いまの「リアル」「ストリート」という言葉はもっと地に足が着いている。これから先もどうにもならないような「生活」だったり、絶望的な「境遇」をこれらの言葉で言い表している。

古川:つまり、90年代の「ストリート」というのは自分たちが生息している場所であり、本物の(リアルな)「日本語ラップ」を体験できる特権的な場所だという使われ方をしていた、と。「つまり現場、ココにある」というラインがあるように、ココでなければ観れないし、こういうものが観たければココに来るしかないよ、という意味で「ストリート=現場」という言葉を使っていたんだよね。それに対して、SCARSやMSCの言う「ストリート」というのはどちらかといえば「脱出したい場所」。彼らも「ココに来い」とは言わないし。あと僕ら受け手側も、この10年の社会の変化でだいぶ日本的な「ストリート像」が変わってきたんじゃないかな。「日本にも貧困地区があるらしい」ということや「若者の凶悪犯罪が行われているらしい」というようなメディアの報道を通じて、それまで絵空事のように現実味がなかった「ストリート」が身近に見えるようになってきた。

微熱:実際の生活も変わってきたから、より密接に感じられるようになってきた。

古川:そう。10年前に「ストリート」という言葉を僕らが聞いても、「いや、そんなの日本に無いでしょ」と思ったり、あったとしてもピンと来なかった。でも、今「ストリート」という言葉を聴くと、なんとなくそのストリートで生活している若者の姿やその荒んだ心象風景を受け手側もイマジネーションできるようになってきた。そういう聴き手側の教育のされ方ってのもあるだろうね。

微熱:私はその聴き手側の受け取り方というのが大きいと思っていて、例えば前に古川さんとお話したときに「MSCが好きか?韻踏が好きか?」という話があって、私は「MSCが好きだ」という話をしたのを覚えているんですけど、今の風潮からそういう「ストリート」の風景に共感しているリスナーやラッパーの絶対数が増えているんじゃないかな、と思うんです。

●THA BLUE HERBについて

微熱:日本語ラップのリリックの変遷でターニングポイントの一つとなるのがTHA BLUE HERBの"STILLING,STILL DREAMING"。このアルバムはアメリカのヒップホップにも近いことが出来ているとても「ヒップホップらしいヒップホップ」な作品ですよね。

古川:この作品が出たのは98年だけど、ちゃんと評価されたのは99年なんですよ。だから僕の中では、99年が日本語ラップのターニングポイントと位置付けている。僕も微熱君の言うとおり、当時アメリカのヒップホップのように感じて、THA BLUE HERBにインタビューしにいったときに、「RAKIMのアルバムみたいだ」という話を彼にした。

微熱:これはなんなんでしょうね。ニトロとか東京のヒップホップとは違う、当時の日本語ラップから見ても非常に新しい感じがしたし。「ヒップホップ」ではあるんですけど、「リアル」という言葉とはまた別の、表現としてラッパーの「素」が出てきた作品だと思うんですけど。

古川:僕がまず聴いていて思ったのは、「持っているボギャブラリーが他のラッパーとは全く違う」ということだよね。

微熱:めちゃめちゃカッコいいフレーズが満載ですからね。

古川:そう。めちゃめちゃカッコいいパンチラインがたくさんある。ユーモアの要素を一切入れなくて、難解ではないんだけども、普段は使わないようなボギャブラリーがふんだんに駆使されている。

微熱:その辺は、小林大吾とかの言葉の選びにも近い感じがするな。センスがある詩的なリリック。

古川:そう。一言でいってしまえば「詩的」ということなんだけど、その豊富なボギャブラリーと言葉のセンス、フレーズを生成する能力を使って彼がやったことは、NYアンダーグラウンドの再現なんだよね。攻撃性であったり、セルフボースティングであったり。実はこのアルバムには自己憐憫みたいなところは隠し味程度にしか入っていない。BOSS THE MCほど「詩的表現」というものについて考えさせるラッパーはそれまでいなかったんじゃないかな。

微熱:あとやはり思うのは、それまでの東京のヒップホップというのは、言葉遊び物とかサッカーMC物とか色々あったんだけども、自分自身にフォーカスを当てたものが無かったですよね。札幌に居る自分たちの立ち位置を理解して、その上で自分に「あるものと無いもの」が何かをわかった上で、語りかけているところがそれまでのラッパーとの「違い」。今の「リアル」という言葉とはまた違うんだけど、BOSS個人の「ヒップホップ観」という意味での"素"が出ている。そういう意味では、ラッパーが自分の「リアル(素)」を出すキッカケとなった作品なんじゃないかな。

古川:なるほどね。意地悪くいうと、「自己演出能力」…自分の見てきたことや経験したことをフィクショナルなまでに演出して聴かせる、言い換えれば自分たちを「ドラマ化」して聴かせる能力に非常に長けていたんだよね。あたかも「東京」と「札幌」という物理的・情報的な距離と格差が、自分たちの表現の源である「かのように」演出する能力が高かった。実際のところとしては、彼らがどこで暮らしてようと関係ないほど個々の能力が高かったということだと思うけど。

微熱:そうですね。その「ドラマ化」ということで、日本語ラップの表現のレベル、ハードルが一段あがった感じですね。

古川:それがそれまでのラッパーには足りなかったところだし、更に言うと、その後雨後の筍のように出てくるフォロワーとの違いでもある。フォロワーの「自己ドラマ化」の完成度はBOSSの足元にも及ばない。例えば、THA BLUE HERBの作品を聴いて、個人的にBOSSとコンタクトを取った人の話を聞いても、作品のリリックと本人のキャラクターがほぼ一致しているように見えるって言うんだよ。だから、自分の生活上の立ち振る舞いも含めて「ドラマ化」していると思うんだよね。フォロワーの子たちは、リリックと素の自分が完全に乖離して、単に「スタイル」になってしまっている。

微熱:あと、自分の確固たる「ヒップホップ観」を持っている人ですよね。それが前面に出ているというのが強いのかなと思う。

古川:僕は去年くらいから「ヒップホップを愛したら救われることもあるけど、逆に呪われて大変なことになるよ」という意味で「ヒップホップの愛と呪い」という言葉を使っているんだけど、BOSSに関してはそういう確固たる「ヒップホップ観」を持っているが故に、その「呪い」にまでも首までドップリ漬かちゃっている感じを受ける。3枚のアルバムを聴いていると特にね。あと補足しておくと、彼の「自己ドラマ化」の能力の高さがミクロ的に発露すると、"未来世紀日本"みたいなストーリングテリングの異常に上手い曲が出来上がるし、マクロ的に発露すると自分たちの境遇やストーリーをオーディエンスに共有させることさえ出来てしまう。

微熱:"北部戦線異状なし"みたいに、自分が何処に居て、仮想敵が何処にいて、どういう風に対立させるか、ということを構成してドラマ化できるということですね。

古川:曲単位でも出来てしまうし、自分達の活動にも照らし合わせて見せることも出来てしまう、ということだね。

微熱:あぁそうですね。インディペンデントな実際の活動の中でもね。

古川:ただし、彼らが「辺境地にいた」ということや「アンダーグラウンドな活動をしていた」頃は、自分達をドラマ化しやすい、ある意味とても恵まれた環境にいたわけだけど、その当時に比べ、プロップスを得て、名前も知られ、お金も手に入って、「ドラマが作りづらい環境になった」現在、彼等の作品の質が昔と変わっていったこととは相関関係にあると思う。

●MSCについて

微熱:リリックにおけるもう一つのターニングポイントはMSC。MSCはTHA BLUE HERBの「自己演出」とは全く異なって、そのままの日常の生活を淡々と綴っていったら、結果的に「新宿」というストリートで暮らすことの細部までを聴き手側に見せることが出来てしまった。そして彼等の登場で、そのまま日常暮らしていることを日本語ラップとして表現することが可能になった、そういう作品が世に出てくるようになったという点で一つのターニングポイントなんですよね。彼等はそれまでのラッパーみたいに単に「自分のこと」を表現しただけではない。例えば、BOSSは「地方でラッパーをやっている自分」の考えや境遇を効果的にリスナーに訴えたけど、それはリスナーの生活とは程遠いものだった。逆にMSCは「都心部にいる多くの若者」の持つ鬱屈やイライラを代弁したんです。だから「リスナーの共感」という意味ではMSCに対するものと、BOSSへのものとは真逆。そしてそのMSCの表現した「若者の生活」はそのまま「リアル」や「ストリート」という単語になって、結果的に現在の「社会のムード」にコミットしているんです。
 あと、THA BLUE HERBと違う点として、MSCの中には様々なラッパーがいて、それぞれが自分のスタイルで新宿という街で暮らすことを多角的に描写しているところも、その世界観を強いものにしているのだと思います。

古川:なるほどね。当時磯部(涼)なんかと話をしていて、彼等の存在そのものが「ジャーナリスティック」だという風に言っていたんだけど、彼等が自分たちの生活をレポートするだけで、一つのショッキングな出来事たりうる。THA BLUE HERBがいくら自分たちの生活に根ざした表現を行ったとしても、彼らの「自己ドラマ化」体質によって、どうしても「フィクショナル」なドラマに聴こえてしまう。だから、THA BLUE HERBが「ドラマ的」な面白さだとしたら、MSCは「ドキュメンタリー的」な面白さを持っている。

微熱:そうですね。そしてそれが今回の話の本題に繋がっていくんですけど…。

古川:「ドキュメンタリー」の寿命ってどうなんだ?ってことですよね。ある対象を追いかけていくわけではなくて、自分たちそのものがドキュメンタリーとして成立してしまってるようなアーティストたちは、そのまま活動を続けて「面白い」作品を作り続けていくことは可能なのだろうか?

微熱:うーん。核心に触れすぎるので、その話をする前にちょっとMSCの「ヒップホップ」っぽさというところについて話したいです。というのも、私はMSCの"MATADOR"にあまり「ヒップホップ」っぽさを感じなかったんですよ。周りの仲間と特にやることもないから「表現」をしてみようと思ったら、たまたまそこに「ヒップホップ」があったという感じ。THA BLUE HERBはそれこそ考え方も手法も何から何まで「ヒップホップ」だけど、MSCに関してはそれを全く感じなかった。でも、去年出た"新宿STREET LIFE"には物凄く「ヒップホップ」っぽさを感じたんですよね。そこに違和感を覚えた。

古川:MSC自体は内部でも「ヒップホップ」への距離感がラッパーごとに異なってるんじゃないかな。例えば、元SIDE RIDEのGO、O2、PRIMALはSOUL SCREAMのファンだったと聞いたことがあるけど、一方漢はそれほど熱心な日本語ラップリスナーではなかったと公言している。だから、MSCのメンバー間でも「ヒップホップ」の捉え方や視点は異なっていると思います。
 それから、不良ラップというのも細かくわけると幾つかの「タイプ」があると思うんだけど、その「タイプ」もメンバー間で異なっていると思います。例えば漢は、非常にモラリスティックな、教育的な側面を持っているんですよ。ライブでも啓蒙的なことを即興でラップしたりするし、曲の中でも「この街変えていく」というようなフレーズがある。だけど、O2は逆にアブストラクトな歌詞を書いて、そういう啓蒙的なリリックは書かない。風景がパッパッパと切り替わるような面白さを持つ断片的な歌詞ですよね。
 で、これも今回のテーマと係わることだと思うんだけど、彼等が「アーティスト」として生き残っていくために、そういう「教育的」な方法にシフトしていく必要があるのだと考えている気もするんですよ。だけどそれは、彼らがデビュー時に持っていたヒリヒリするような感覚を手放す、ということでもあるんですよね。


●SEEDAについて

微熱:ここまでTHA BLUE HERBとMSCの話をしてきましたけど、古川さんってこの2組のアーティストのことを日本語ラップの流れで見たときに「地続き」なのものとして感じますか?それとも「バラバラ」なものとして感じますか?

古川:どういうこと?

微熱:THA BLUE HERBは日本語ラップが成熟していけば、いつかこういう「ヒップホップ」としての完成度の高い作品が出てきたと思う。でも、さっき言ったように典型的な「ヒップホップ」っぽさから離れているようなMSCの表現はTHA BLUE HERBがいなかったとしても、いつか出てきたんじゃないかと思うんですよね。

古川:なるほど。それを聞いたからというわけではないけど、あんまりこの2組に関しては「繋がり」は感じないかな。いや、むしろ断絶しているかも。SCARSなんかはかなり「MSC以降」って感じがするけどね。

微熱:SCARSというか、SEEDAに関しては「この2組の後」って感じが凄いするんですよね。それこそストリートでの生活における「ドキュメンタリー」という側面ではMSCの影響を受けている印象を受けるし、過去の体験を「私小説」みたいにリリックに落とし込む側面ではTHA BLUE HERBの表現が過去にあったからこそ出来ている。でも、「この2組の影響を受けた」と一口に言ってしまえば簡単に聞こえるかもしれないけれど、このレベルの作品を作るのは非常に難しいじゃないかなと思うんですよね。もうリスナーは当然このレベルのものを求めていると思うんですけど。

古川:あぁ、それは面白い指摘ですね。というのも、10月に出るSEEDAのアルバムやリミックス曲にBOSSや漢がフィーチャリングされているんですよ。だから本当に繋がっている。もっと言うとKREVAもフィーチャリングされているから、それこそ日本語ラップの「集大成的」なものになると思う。

微熱:勿論SEEDAはラップはとても上手だし、トラックもキャッチーだし、ヒップホップとして聴き易い作品ではあるんだけど、リリックに関してはTHA BLUE HERBやMSCとはもうワンランク違った「凄さ」があると思っています。リスナーが非常に聴き易い形にリリックが落とし込まれているというか…。それこそ「啓蒙的」なリリックであったり、リスナーに訴えかけるようなラップというのをTHA BLUE HERBやMSCは持っているんだけど、SEEDAはそこまでリスナーに押し付けるようなリリックは書かない。リスナーや仲間と肩組むような感じじゃない一歩ひいた視点に新しさと頭の良さを感じます。

古川:さっきも言いかけましたが、不良ラップって、大別すると3つに分かれると思うんです。1つは「誇示型」…「俺はこれだけ金を持っている。これだけ権力がある。これだけ喧嘩が強い」というように自分を誇示していくもの。次に「自己憐憫型」…自分の置かれている境遇を嘆いて、周りに共感してもらう、ある種の演歌的機能。そして最後が「啓蒙型」…「オマエはこういう境遇に陥るなよ」「こういう所からも這い出すこともできるんだぞ」というような教育的なメッセージを発信する。
 この3タイプは順番も大切で(「1.誇示型」「2.自己憐憫型」「3.啓蒙型」)、例えば1から順のグラデーションでアメリカのサグラップの影響度合いを表すことが出来ると思います。アメリカのラップのスタイルが好きな人ほど「1.誇示型」、例えばMOSADみたいな日本語ラップが好きになる。「2.自己憐憫型」というのもある種、アメリカのギャングスタ・ラップの定型になっている。日本の「リリシストMC」にいまだ影響力が強いNASの"ILLMATIC"なんかも自己憐憫な歌詞が多いわけですよね。
 あと、この3つの順番はアメリカのヒップホップから影響濃度を表す反面、一般の人が共感できる度合いと反比例の関係にもなっている。要は、MOSADとかAKIRA、EQUALを一般の人がいきなり聴いて共感することはできないんじゃないか。音楽の一スタイルとしてカッコイイと思うことはあっても、リリックを吟味したうえで好きになるわけではないないと思うんだよね。そういう意味だと「教育型」が一番感情移入しやすくて、一般の人が「ヒップホップ」という概念抜きで共感できるんじゃないかと思う。MOSADを聴くにはヒップホップの教育をきちんと受けていないと理解できない。アメリカのメインストリームでのヒップホップのスタイルを理解した上で、ようやくMOSADのスタイルのカッコ良さやリリックの内容のフィクション性を理解できる。結構、高度なヒップホップ教育が必要なんですよ。

微熱:その聴き方は、ある意味歪んでますからね。

古川:SEEDAの"花と雨"を聴いて思ったのは、「2.自己憐憫型」の色が非常に強い作品だということだよね。特にアルバム後半は完全に「泣き」の曲でしょ。お姉さんが亡くなった話とかね。日本であまり無かった「自己憐憫型」のギャングスタ・ラップを日本人が受け入れやすい「私小説的」な形に落とし込めたんだろうな。

微熱:あとこの辺の流れを聞いていて思ったのは、「自己肯定」と「自己否定」の面でも別けることが出来るということですね。MOSADやTHA BLUE HERBなんかは凄く「自己肯定色」が強くて、SCARSの中でもSEEDAやBESは特に「自己否定色」が強い。MSCが丁度中間くらいかな?「俺イズム」が横たわっていた日本語ラップの中で、SEEDAやBESの「今の俺の生活はロクでもねぇ」というような自己否定的な表現はやっぱり新しいと思うな。

古川:はじめに話していた「90年代では"ストリート"はサンクチュアリだった」というところから、ついに「"ストリート"は脱出すべき場所である」というアメリカのギャングスタラップのスタンダードに日本語ラップも追いついてしまったのかもね。

●ラッパーの視点に見る「時間の流れ」について

古川:前にBLASTの別冊か何かにSEEDAの"花と雨"のレビューを書いていて、微熱君のSWANKY SWIPEのレビューに対する個人的な返答でもあったんだけど、このときに彼等の「時間の流れ」ってどうなっているんだ?ということについて書いたんだよね。特に僕はMSCとSCARSの対比について書いたんだけど、例えばさっき言ったようにMSC…特に漢は教育的な方向に行っていて、若者に向けたメッセージを発信していて、それが彼らのアーティストとしての生命を延ばしていることにもなっているんだけど、この視点って言い換えると「未来に希望を託している」ということで、彼等は「未来」に意識を持っていることがわかる。それに対して、SCARS周辺の子たちの視点に「未来」に対する言及が殆ど出てこない。SEEDAに関しては近過去から現在までの視点が主だし、BESのリリックも「未来」に言及している印象を全く残さない。今度リリースされるNORIKIYOのアルバムもそうなんだけど、この人たちは「未来」に対する希望が全く無いんじゃないかなと思えてくる。現在の「ストリート」ってそんなに暗いものなのか、というイメージを強く残すんだよね。

微熱:いまの日本語ラップを聴くと、大体皆言っているキーワードが「金」なんですよ。いま日本でラップをやっている子たちは「日本語ラップをやりつづけて、将来どうなるのよ?」という意識を少なからず持っていると思う。一昔前に「日本語ラップバブル」があった結果の現在な訳だから、「限界」が非常に明確になってしまっている。ポップな方面でRIP SLYMEやKREVAもいれば、ハードコアな方面でZEEBRAやOZROSAURUS、NITROがいて、ある程度の「到達点」が見えてしまっているんです。そういった意味でも、日本語ラップをやり続ける「希望」が見えないで、「限界」の方に目が行ってしまっている印象は確かに受ける。実際にSEEDAのリリックでも『マイク握ればBig timerでも普段のバイトは吉野家』っていう揶揄があるし、「ラッパーとしてのカッコよさを求める」ということよりも、「ラッパーとして金を稼がなきゃ意味がない」という意識が強く出ている。正にANARCHYなんてそのラッパーとしての「理想」と「現実」のジレンマにがんじがらめになっているのが”ROB THE WORLD”を聴けばよくわかる。
 それゆえ「ヒップホップ」より大切な「金」の話がリリックに露骨に顕れているし、これはアメリカのヒップホップでも普通に言うことだけど、イリーガルなことをやるよりかは「ヒップホップ」を売った方が良いから日本語ラップをやっているんだ、ということですよね。だから「ただのカッコいいラッパー」と「安定した収入があるサラリーマン」になるんだったら、「サラリーマン」になりたいっていうようなことを彼等は普通に考えていたんじゃないかなと、MSCの"MATADOR"の頃から邪推していました。

古川:なるほどね。僕も似たようなことを感じたことはあるな。BLASTの最終号で磯部やハレイワ君と、いまの若いラッパーの子たちって「セルアウトを嫌う」という感覚がだいぶ薄れてきているんじゃないかって話をしたんだよね。ヒップホップ的な手法を使ってお金を稼ぐことは決して悪いことじゃなくて、寧ろ「喜ばれるべきこと」だという考えが強くなってきている。KREVAをフィーチャーする動きを見せたSEEDAが象徴的だけど、7・8年前だったら「セルアウト」だってもっと風当たりが強かったであろうことをサラリとやってのけてしまう。これこそ「ヒップホップでお金を稼ぐ」ということの重要度が高まっていることの一例ですよね。

微熱:「セルアウト」ってことに関して言うと、SEEDAはRIP SLYMEやSOUL'D OUTやTERIYAKI BOYZに対するディスとかやっていて、「ワックMC」に対する攻撃的な姿勢を持っている。だけどここでKREVAを起用できたり、自分から離れたところにいるラッパーやトラックメイカーをフィーチャーできるというのは、それだけ強い自分の「ヒップホップ観」を持っているということなんですよ。……で話を戻すと、いまの20代から40代のラッパーまで一様に「未来への希望」なんてあまり持っていない気がするんですけどね?

古川:ここ数年、僕はラッパーの視点の中に「時間の概念」がどれだけ入っているか?ということを結構気にしているですよ。さっき言ったようにSEEDAやBESはちょっと病的なくらい「未来」に対する視点に欠けているし、これは一般的にも言えることなんだけど、若い子たちほど「ノスタルジック」なものが好きなんだよね。

微熱:え?そういうもんすか?

古川:いや、だってさ、全然関係ないけど"ハチミツとクローバー"って漫画、あれなんて「ノスタルジー」の典型でしょ。あれは2・3年後の仮想未来の自分を通して「リアルタイム」を懐かしがろう、という構造なんですよ。モノローグで「1年後の自分たちはこういう風に笑ってはいないだろう」っていうナレーションが入ったりね。アニメだと新海誠の"ほしのこえ"とか非常にノスタルジックな雰囲気に包まれていて、若い子たちもその雰囲気を懐かしんでいたりする。だから全般的に若い子たちって「近過去」に行きがちなところがあると思う。実際に10年後の未来の自分を想像することは若い子ほど難しいしね。じゃあ、リアルに10年という時間の流れを、しかも前後に渡って見渡そうと思うキッカケがどんな時かっていったら、「子供が出来たとき」なんだと思うんだよね。

微熱:KOHEI JAPAN…。

古川:そう。KOHEI JAPANの"family"はその名の通り「ファミリーアルバム」って一言で言えるんですけど、その「ファミリー」ってところに含みがある。まず「自分は坂間家の次男坊である」という自分の前の世代に対する視点があって、つぎに「自分は2児の父親である」という自分の下にもう一つ「坂間家」というファミリーがもう一つ出来て、自分の子供達の将来に対する視点がある。このアルバムの中に「現在」「過去」「未来」がミルフィーユ状に重なっていて、とても珍しい「時間の概念」を持つ作品なんですよ。
 坂間家の次男坊としてどのように「過去」を過ごしてきたかという話、自分の子供達に将来どういうことをしていきたいかという「未来」の話、そして「現在」の自分の話も勿論あって、非常に綺麗な形で「時間の流れ」を追えるんです。だからもし「大人のヒップホップ」というものがあるのならば、こういう「時間の流れ」を持った作品という物が一つあるのかもしれないな、と彼のアルバムを聴いていて思ったんですよね。

微熱:確かに「未来に対する希望」をもろダイレクトにうたったヒップホップっていうのはあんまりないですね。

古川:まぁユースカルチャー全般に言えることだけどね。

●リリックの「限界」について

微熱:そろそろ今回の話の核心に入って行きたいと思うんですけど、私が「リリックの限界」というものを感じた作品が2つあって、1つはTHA BLUE HERBの"LIFE STORY"、もう1つがMSCの"新宿STREET LIFE"なんですよ。"新宿STREET LIFE"についてはSWANKY SWIPEのレビューでも書きましたけど、私はこれに「未来に対する希望」を感じたんですよ。何気なく仲間とたむろして、新宿の風景を切り取って、絶望していた心象風景とあわせて作り出した"MATADOR"が意外にも大勢の人たちの共感を得て、結果的に彼等に「ヒップホップで金を稼ぐ」ということの可能性を生んだ。絶望していた「未来」に希望が生まれて、「真面目にヒップホップをやる」意思が顕れたのが"新宿STREET LIFE"なんです。古川さんは「オーガナイズ」という言葉を使っていましたけど、より「ヒップホップ」としての完成度を高めていく方向に行った。だけど、"MATADOR"には「未来」に対して「絶望」していたからこそ出来ていた表現があった。そこが"新宿STREET LIFE"には根こそぎ無くなって、結果的につまんなくなってしまったと思ったんですね。私の言う「リリックの限界」の1つはここにあると思うんです。
 さっき「ドキュメンタリー」ってキーワードがありましたけど、自分の身の周りのことを切り取って表現していくにはやっぱり「限界」がある。SEEDAのリリックもそうだけど、「自分の身を削り取っていく」ような表現じゃないですか。自分の過去の経験や今の恵まれていない境遇を切り取って、それを売っていく作業になっている。だけど「過去の経験」には限りがあるんで最終的には頭打ちになると思うんです。同じテーマを何度も「コピー」していくという方法もあるけど、「コピー」が重なると表現としては面白味が減って劣化していってしまう。

古川:なるほど。じゃあTHA BLUE HERBの"LIFE STORY"は?

微熱:日本語ラップの中で意外と多いのが「書けない」というテーマのリリックなんですよ。直接的に「書けない」とは言わなくても、小難しい単語や言い回しを書き連ねてリスナーを煙に巻く手法もその「括り」に含めているんですけど。THA BLUE HERBの作品で私がそれをはじめに感じたのは2ndの"SELL OUR SOUL"ですね。もっと正確に言うと12"シングルの"3 DAYS JUMP"からなんですけど、ここでリリック書くことに対する「悩み」の過程に入った。BOSSは自分探しの旅に出て、旅行先で"3 DAYS JUMP"を書いている設定なんですけど、その曲の中でのBOSSはただ宿泊先でだらだら大麻を吸って、窓の外を見て、ペンを持って寝転んでいるだけ。"時代は変わる"を聴いた後に、BOSSが旅に出て更なる表現の「深み」に達することを期待していたリスナーは、その中身の無さに相当肩透かしをくらったと思います。
 実際、"LIFE STORY"の中で「今まで書けた物が書けなくなった」というようなことも言っていますし、さっき古川さんが言っていたような境遇の変化による「自己ドラマ化」の限界を彼自身感じてきたんじゃないかな。だからSEEDAの持つ「私小説的」な手法については、MSCとBOSSが直面した2つの「限界」があるんじゃないかな、と思うんです。

古川:なるほどね。「私小説的」な手法を持つ人の「限界」がどこにあるか?という話ね。「不良ラップ」とは離れた所にあるから気付かないかもしれないけど、「私小説的なものの行き詰まり感」を一番あらわしているのがスチャダラパーだと俺は思っているんですよ。俺は昔「MSCがやっていることはスチャがやっていることと同じだ」ということを書いていて、それは要は「若者達の見ている風景を、その時代の空気をたっぷり吸い込んだ形で示している日本語ラップ・アーティストはスチャダラパー以来」という意味だったんだけど、当時の等身大の若者の空気を表すことが出来ていたスチャダラパーが自分の生活を切り売りしていった結果、だんだん口数が少なくなっていったんだよね。

微熱:"ドコンパクトディスク"だ。

古川:"ドコンパクトディスク"もそうだし、こないだ出た"CON10PO"も言葉自体が少なくて、散文的な言葉の繋がりしかしていない。もうそういう「研ぎ澄ます」方向にしか行けないんですよ。

微熱:あと、現在のどんづまりの生活を開き直ってひたすらラップしつづけるECDみたいな「結末」もあると思いますけど。私小説的表現の「行き着く先」という意味では。

古川:私小説的なものの「どんづまりの果て」ですね。

●リスナーの「残酷さ」について

微熱:例えば、RHYMESTERみたいに長続きして売れている人を見ても、「自分の生活を切り売りしている」という感じじゃないですよね。彼等みたいなスタイルはヒップホップ的な上に、長くやっていくことができる。ヒップホップとして長く売れていくためには「リアル」というところと別の部分で勝負していくほうが良いと感じるんですけど。

古川:「作品主義的」な方向のほうが長生き出来るってことね。あと、聴き手の意識の部分も大きい。例えば、僕らがMSCが「新鮮」だと感じて、その「新鮮」さが薄れた後にSCARSを「新鮮」だと感じるということは、リスナーの姿勢として常に「カウンター」的なアーティストを求めているということなんですよ。ただ、当の本人たちは「自分たちがカウンターである」という意識をきっと持っていない。

微熱:リスナーがその時期に旬なものを求めていくこともよくわかるんですけど、THA BLUE HERBの" STLLING,STILL DREAMING "、MSCの"MATADOR"、そしてSEEDAの"花と雨"みたいなレベルのものを常に求めているということは、アーティスト側に立ったらめちゃめちゃ辛い…。

古川:とても「残酷」ですよね。

微熱:しかも、自分を切り売りして良い作品を出しても、「3年経ったら懐メロ」ですからね。ネットワーク技術が発達して、音楽の消費スピードが速くなっているし。身も蓋も無い話だけど、いくら今「新鮮」だというように見えても、そっちに行くラッパーが増えれば増えるほど、それだけ「形骸化」するスピードも早くなるし…。

古川:アメリカのMIX CDなんかに顕著だけど、完全に聴き手がイニシアチブを取っている。アーティストの曲の好きな部分だけを抜き出して、大量に並べて、そこから出てくる「ムード」を楽しむ。編集的な聞き方というかね。その行為は、アーティスト個々への思い入れの量を下げていくことだから、アーティスト側に立てば非常に「残酷」なことなんですよ。

微熱:その上で長い間作品を作り続けて、飯を喰っていく…どれだけ大変な話なんだよ!っていう。

古川:そして、そういう残酷な聴き方をしていた人たちがアーティストになるということがヒップホップでは多いわけじゃないですか。やっぱり「ファン」と「アーティスト」の区切りが曖昧なジャンルだと思うんですよ。だから自分たちも元々は「残酷なリスナー」であった訳だし、というより今なお「残酷なリスナー」であり続けているわけだから…よくアメリカのラッパーが「30代になったらラップを辞める」ということを言うけど、それはそういう「ヒップホップは週刊誌的な聴き捨てられ方をする」という意識を常に持っているからだろうね。
 自分の見てきたものや日常生活を、リリカルに、しかも文学的に普遍化していくことは一部の日本語ラップ・アーティストはもう出来ている。それは本当に凄いことだし、そういう作品が面白いのは間違いないけど、でもシビアに将来を見据えてみると、彼らの体験や日常は限られているわけだから、その表現を続けていくことはとても厳しいと言わざるを得ない。アルバム1枚出して、それは凄くいいとして、「でもこの人たち次はどうなるんだろう?」というアーティストは結構いますよね。

微熱:SWANKY SWIPEとかも次どうなるかわからないもんな…。似たようなアルバムは似たようなアルバムでつまらないし。

古川:そういった意味でも、SEEDAが"花と雨"を出した後に、漢やKREVAやBOSSなんかの色々なゲストを呼んでアルバムを作る方向に行ったことは非常に理解できるし、クレバーな人だな、と思う。彼のブログを読んでいると、「早く裏方に行きたい」という発言もしているしね。そういうメカニズムもわかった上で「長くやるもんじゃねえ」と思っているんだと思う。

微熱:「書けるうちに書いとけ」っていう姿勢ですね。

古川:そう。タイミングみたいなものを良く見極めているというか。

微熱:「リアル」にこだわるってのものもなんなんだろうなー?と思うんですよね。

古川:本質的なところですね。

微熱:「リアル」にこだわる必要もないんじゃないかと思う。多分、SEEDAは「自分の人生以外のことを書く」ということをやろうと思えば高いレベルで出来ると思う。もしそういうことが出来るんであれば、寿命はぐっと延びる。

古川:あとBOSSが"未来世紀日本"みたいな曲だけでアルバム1枚作ったら、とんでもないものが出来る気がしますね。

微熱:若干話し変わるかもしれないですけど、BOSSに「不良性」って感じますか?

古川:あんまり感じないですね。

微熱:MSCくらいのときから「不良性」が重視されるようになってきたと思うんですけど、現在の「不良性」ってOZROSAURUSやTOKONA-Xの「不良性」を原点として作られている気がしているんですよね。TOKONA-Xの「不良性」というのはさっきも言っていたようにいわゆる「ラッパーらしいラッパーを演じていく」部分にあるんですけど、逆にMACCHOの「不良性」は「ストイック」な部分にあると思うんですよ。「ありのままの自分」や「ありのままの生活」、「ありのままの考え」を出していくだけでサマになっている。   そういうMACCHOのスタイルがSCARS周辺の子たちに影響を与えている気がする。

古川:SEEDAは「MACCHOに影響を受けた」と言っているし、あながち間違いじゃないと思いますよ。いま流行っている「不良ラップ」の源泉を辿るとTOKONA-XとMACCHOがいるという整理の仕方は間違っていないと思う。少なくとも、ファンの嗜好の歴史を辿っていくとね。

微熱:だけどTOKONA-Xなんか特にそうですけど、「リアル」なラップをしていたわけじゃないから、その辺の「乖離」が気になっているんですよね。

古川:確かに。

微熱:MACCHOもこれから先コンスタントに良い作品を出していくだろうけど、あまり「リアル」というところに執着しているわけじゃない。特に「リアル」に拘っているわけでもないその2人のプロップスが高いというのは何でなんだろう。

古川:それは…何でなんだろうね。MACCHOが持っている「ストイックさ」が魅力になっていることは凄く良くわかりますけど。ヒップホップを外して「不良性」というものを考えると、例えばVシネマ的な「過剰さ」「チープな装飾性」「ウェット」あたりが特徴だと思うんだけど、いまの日本語ラップで尊ばれている「不良性」にはそういう要素が全然無い。より「ストイック」なスタイリッシュでタイトなものが好まれているよね。

微熱:別に訴えかけているわけでもなくて、ただあるだけでカッコいいという感じ。そういう「ただあるものを切り取っていく」というスタイルがSEEDAやBESのリリックのスタイルにも影響を与えている印象を受けます。

古川:でもそのスタイルの先には「リアル」な表現とのバランスによって、「限界」もあるということなんだよね。

微熱:だからこそ「リアル」というところを外せばいいと思うんですけどね。

古川:「リアル」の持つ拘束力って何なんだろうね…。ある種の免罪符なのかもしれないけど。昔は「セルアウト」だったり、「スキル」だったり色々な拘束力があったんだけどね…。

微熱:あと、現在の日本語ラップの「不良性」って一般人に理解されるのかなぁ?と疑問に思うんですよ。

古川:どういうことかな?

微熱:いわゆる「不良ラップ」って、日常生活で行っている「ハスリング」のことをラップするわけじゃないですか。でもそれって、一般人が聴いたら「本当のことだ」と思わないと思うんですよ。普通の生活していたら、ドラッグ売って警察に捕まる話とか絶対想像できない。
 こういうリリックって、数年前の日本語ラップリスナーでも理解できなかったんですよ。YOU THE ROCK★やZEEBRAが「ハスリング」のことをラップしていたわけじゃないけど、彼らが「ハスリング」のことをラップしていても誰も「本当のこと」だと思わないわけじゃないですか。現にSEEDAのリリックって言っていること自体は4年前とあんまり変わっていないけど、4年経ってようやくリリックの内容が「本当のこと」だと理解された感がある。MSCが出てきてからの日本語ラップの流れをきちんと「教育」されている人しか現在の「リアル」を真に受けられないんじゃないかな?SEEDAの”花と雨”を何の知識も無い普通の人が聴いてどう思うのかスゴイ興味ありますね。

古川:いずれにせよ、自分の生活であったり、実体験を切り売りしているだけであれば、ポケットの中味は限られているから無くなっていってしまう。普遍的な出来事を、別のメタファーやストーリーに落とし込んでいったほうが長生きできる、ということですね。

微熱:さっき話で出てきた「アルバム上のBOSSと実際会ったときのBOSSが同じ印象」ということですねぇ。作品と実態でキャラクターを別けた方がいいってことですよね。

古川:最初に「単にスタイルになっている」と言ったの矛盾するようだけど、すごくスピリチュアルなこと歌っていて、でも会うと「いや~金ほしいんですよ~」とか言っている人のほうが長生きできるかもしれない。それがカッコイイかどうかはさておき。

微熱:「ヒップホップなんてどうでもいいっすよ~」みたいなね。で、出すアルバムはずっと1stみたいなノリでね。

古川:何度も言うけど、BOSSが1枚まるまる「フィクション」なアルバムを作ったら、凄いものが出来そうなんだけどね。

微熱:表現をするときに「自分」を中心に置いたらやっぱり短いと思うなー。Akira(MOSAD)とかの方が全然長いと思うもんな。

古川:全然長いでしょ!あと、最近よく思うのは、色んなラッパーが「初期衝動」って言葉を使うけど、ソコに忠実過ぎると本当にどこにも行けない。逆にROMANCREWとかは割とあっけらかんと「音楽として洗練されたい」という意識を持っているから、「良い作品」を作るためなら「リアル」や「初期衝動」に縛られないという意味で長生きしそう。

微熱:やっぱり「オーガナイズ」と「初期衝動」は真逆のものですね。私は「オーガナイズ」って好きじゃないんですよねー。

古川:でも「陳腐化」することが「オーガナイズ」ではないよ。

微熱:いや、例えば"新宿STREET LIFE"は「陳腐化」はしていなくて、寧ろヒップホップとしての「完成度」は高くなっていると思うんですよ。実際、アレを好きな人はたくさんいたようですし、それを否定することはできない。皆、ラップ上手いですしね。でも好きになれない。まぁ、確かに演っている側が「初期衝動」を意識しているのって気持ち悪いですけど。

古川:「初期衝動至上主義」みたいなのって本当に根強いですからね。

微熱:聴き手側もまさにそういう風潮だから余計に危機感おぼえますよね。

古川:ああ、だからスタイル化もオーガナイズも洗練も、突き詰めれば自分たちの表現に客観性を持って接せられているか?ってことかもしれない。音楽はただ、少人数ベースの創作行為なので、客観性を見失ったがゆえに生まれる過剰さや歪さが魅力となることも否定できないから、またややこしいんだけど。

●まとめ

古川:結論みたいになるけど、俺が小林大吾に非常に惹かれているのは、こういう「リアルの限界」みたいな意識がどこかにあるからだと思う。自分たちの生活のリアリティを普遍化して発信するスタイルとはまったく別で、あくまで「作品主義的」に「良い作品を作る」ことに心血を注いでいる。もちろんそれまでそういった作品がまったくなかったとは言わないけど、少なくとも「詩的」という意味では、単純に完成度が低いものが多かった。小林大吾みたいにボギャブラリーが圧倒的で、言葉を選ぶセンスが馬鹿みたいに高くて、当然彼にしたって個人的な体験や生活感がベースになっているんだけども、それが「リアル」ではなくてメタファーやレトリックに落とし込まれている作品が好きなんです。

微熱:「作品主義的」なものを作っているアーティストといえば、他にRHYMESTERとかいますよね。確かに「リアル」なものを追い求めるというよりかは、「作品」として良いヒップホップを作ろうとしている。で、古川さん的には、やっぱり「リアル」なヒップホップには「限界」を感じますか?これから先も色々なアーティストが出てきて、彼等なりの「リアル」が作品に落とし込まれるだろうから、作品それぞれは面白いものがたくさん出てくると思うんですけど、それらのアーティストの行き着く先がもう大体見えている気がしているですよ。

古川:「ショッキングな現実をうたう」ということに関してはSCARSやMSC、D.O.以上の存在はもうなかなか出てこないんじゃないかな。現実が荒廃するスピードが我々の想像を遙かに超えていた場合、それを克明にレポートされたら驚きはするだろう。ただ、方法論としては変わらないよね。行きつくところまでは行ってしまった感はあるので、今度はその揺り返しとしてポリティカルな問題意識やスキル至上主義的なアティテュードが復権してくると思うし、そうあって欲しいとも思ってる。いずれにしろ、「自己表現」というものに捉われてる人が多いけど、表現するべき「自己」って実はそんなにパターンは無いんじゃないかな。

微熱:長く続けるつもりなら「自己表現」というものに捉われるんじゃなくて、もっと視野を広げたほうがいいってことですよね。例えば、SEEDAが言うように「裏方にまわる」という方向もあるだろうし、作品をつくって次に何をやるか?という自分の本来の目的を見失わない方がいい。音楽なんてエンターテイメントである以上消費されるものだし、いくら1つの作品が大切に聴かれたところで、次の作品に繋がらなかったらおしまいだから。

古川:聴き手側の意識の話ってあまりしないからあえて言うけど、聴き手側としては「残酷」な聴き方をしているということにはもっと自覚を持ったほうがいい、これは自分についても当然言えることだけどさ。アーティストの「人生」を面白がって求めて、しかもそれを聴き捨てていくというのは、非常に快楽的だけど、「残酷」だと意識はあってもいいんじゃないかと思う。

微熱:ただリスナーがそういうものを求めるのは、とても理解できるんですけどねー。しかも、そういうところって変えようと思っても変えられないじゃないですか。

古川:そうですね。だから、アーティスト側はそういうリスナーを相手にどうふるまっていくか?というところをもっと真剣に考えていったほうがいい、ということです。

(END)

Sunday, August 19, 2007

MINT - After School Makin' Love






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「"人のものを盗むのがヒップホップだ"という人もいれば、"自分で創造するのがヒップホップだ"という人もいる。ヒップホップとは何か?という議論には何の意味も無い」とSage Francisは言いました。つまり、物まねも、パクリも、創造も、ダサいことも、イキったことも、ポップも、ロックも、演歌も、鼻歌も、人の解釈によってなんでもヒップホップということです。「コレがヒップホップだ」なんて言葉は、きっとそれを発言した本人にしか通じないでしょう。残念ながらその主張には意味がありません。

「年々音楽の価値は下がっている」と一口で言ってしまえば、多くの人に違和感を与えるかもしれません。しかし現在、一曲はただの数MBのファイルにすぎず、地球の裏側の国の音楽を数秒でデスクトップに保存でき、好きなように編集・加工してまた世界に発信できてしまうのです。驚くほどの手軽さで。「"KALA"は使い捨てで、海賊版的で、移民的。」と可愛い可愛いM.I.Aは言いました。一つの曲を大切に聴きつづける姿勢を否定することは出来ません。だけども、ゴミ箱を漁るように曲を掘り起こして、どんどんどんどん曲を聴き捨てて、つまらなくなったら好きなように再加工すれば良いというアグレッシブで若者的な考え方に惹かれる自分がいることも確かなのです。たしかに発信者側にたてば「ずっと大事に作品に接してもらい」という想いを持つのも仕方が無いことと思うのですが、年にたくさんの曲を聴くコアなファンほどその要求は厳しいものと感じることでしょう。

最近、よく「"リアル"とは何か?」を考えます。5,6年前に私はblastの対談で「TWIGYの"余韻"はアメリカナイズされた"リアル"ヒップホップのアンチテーゼだ」というようなことを書きました。同じ対談で磯部涼氏が「TWIGYの"余韻"は南部ヒップホップから影響を受けている」ということを主張しました。見てわかるとおり両者の意見としては真逆なのですが、そのときは意見が特にぶつかることもなく、うやむやになって終わりました。キングギドラが売れに売れたり、過剰なセルフボースト物が横行していた当時の背景を踏まえて、いま振り返ると「TWIGYの"余韻"の手法は"南部ヒップホップ"、雰囲気は"自然体(リアル)"」というのがその対談の結論だったのではないかと思うのです。「ギャングスタラップを真剣に聴いているが、それをそのまま真似することはしない。ギャングスタたちが銃について歌うのと同じくらいの気持ちで、僕達はテレビゲームについて歌う。」とTeki Latexは言いました。もし言っていることがその人の妄想であっても、「ギャングスタと銃の距離感」をその曲の中で表現できているのであれば、それは「リアル」といえるものなのではないでしょうか。

さて、MINTの"After School Makin' Love"です。「南部ヒップホップ、ギャングスタラップのビートとラップの"間"を精緻に模倣している」というレビューは星の屑ほどありそうですが、むしろ南部ヒップホップを模倣したからこそMINTの「ヒップホップ観」が分かり易く、きっちりと顕れているところが重要なのです。

つまり、「MINTのヒップホップ」とはバカバカしさとエロチズムを孕んだ「快楽性」に集約され、そのためならば一部の人に否定されるであろう「アメリカナイズ」も、刹那的な音楽として「使い捨て」られることも厭わない度量を持っていること、「使い捨て」られた楽曲を再加工(スクリュー)して作品として再提示するフットワークを持っていること、質の高い「アメリカナイズ」のトラックとティーンエイジャーの娘の話で徹頭撤尾貫き通された確固たる「世界観」と変質的な「作品主義志向」を持っていることを確認できるのです。

ちらと聴いただけでこういったことをツラツラと確認できる。きっと"After School Makin' Love"は2007年の日本語ラップで最高の「完成度」を持ったアルバムと言えることでしょう。

また、設定とアートワークは高等学校時代にフォーカスを当てているのですが、リリックは極めて妄想的で、ティーンエイジャーの娘のことのみに執着しているため、全くモラトリアムに誘われないことも記しておきます。しかし変な妄想であれど、このMINTとティーンエイジャーの距離感こそがまさに日本語ラップで表現すべき「リアル」であると私は信じているわけなのです。

Sunday, July 22, 2007

Tacteel - Je Ne Vous Oublierai Pas & TTC - 3615 TTC





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エレクトロニカのレア盤"Butter For The Fat"からエレクトロディスコEP"La St Etienne"に、TTCの楽曲群からも選抜し、「ベスト盤」と銘打ってパッケージング化したTacteelの意向は良くわからないけども、めちゃめちゃスノッブで音楽の「中味」より新しい「器」の部分にしか興味が無いようなTacteelの意外にも一貫して構築された世界観と、そのメロディーセンスがCherryboy FunctionやDE DE MOUSEに極似であるというフランスと日本の音楽世界の奇妙な相関関係にビックリした。

ゆるゆるのエレクトロニカに聴こえる"Selective Approach"や"GUsh"が、同じエレクトロ音楽としてもかなり遠い位置にあるように見える"Feel It, Feel It"やTTCの"Ebisu Rendez Vous"と並べても全く違和感ないどころか、それらの共通項ばかりが強調されるのだ。5年前に"Butter For The Fat"を聴き、そこから勝手に連想した日本のヒップホップビーツに近い所にある音楽(Riow Arai、DJ Klock、Numb、Force of Nature...)をTacteelの来日時に渡して感想を求めたら、「こういうのは好きじゃない」と一蹴されたことを思い出す。この発言を頭の中で反芻しながらアルバムを聴くと、「Tacteelは同族嫌悪をする人だから、きっとCherryboy Functionのことも嫌いだろう」という思いともう一つ、Tacteelの世界にある「ヒップホップ」とはこのジャケ写に感じる「うさんくさいセレブ臭」のようなのものであり、きちんと「リスペクト」され、型通りまるまんまの形で消化されているものじゃないことを痛感する。Above the LawのトリビュートMixCDなどを作っていても私は騙されない。

一方、毎回カラーを変えてきて、しかもどこの国とのヒップホップとも似ているようでいて、似ているものが一切ないTTCの作品は、「天才的な変態」もしくは「変態的な天才」であるMr. Flashが作った楽曲群を抜いてしまえば、実にわかりやすい。"Ceci N'est Pas Un Disque"ではエレクトロニカに、The OpusやMF Doom的なアンダーグラウンドミドルビート。"Batards Sensibles"ではエレクトロに、米メインストリームビート。"3615 TTC"ではハイフィやボルチモア要素まで組み込んだギャングスタビート。99年作の"Game Over 99"のゲーム音楽・効果音ベースのヒップホップに、毎回彼等が「旬」と感じる音が加えられて、ゲームコントローラ的な気楽なお遊び感覚であさっての方向に捻じ曲がっているだけだ。

彼らと同じように「最新の音楽に興味がある」と答え、ヒップホップに色々な音楽要素を取り入れているトラックメイカーは色んな国にたくさんいるけども、こんなにバラエティが多彩なのにこれほど一貫した独特のオタク臭を放つアーティストもいない。TacteelやPara Oneのように出身ジャンルも異なる4、5人ものトラックメイカーが関わっているにも係らず、毎回一つのテーマカラーに綺麗に収まってしまう不思議にあわせて、今までのアルバムを並べると全てイントロ無しの12曲編成である不思議に気付き、その妙に変質的な潔癖さにムズムズしたのは私だけではないはず。

しかし、"Je Ne Vous Oublierai Pas"上ではTacteelの世界観で統一されている同じ曲が、TTCのアルバムの中にあると見事に捻じ曲がって聴こえるのは一体何故だ? 実はどんなトラックメイカーもリスナーも、この「TTC」という共同体に取り込まれてしまうと、音楽感性が8等身のオトナから皆同じ顔をしたSDガンダムのキャラみたいになってしまうのかもしれない。"Batards Sensibles"のジャケ写のように。

Saturday, July 14, 2007

'07 albums still holding up

□ 気にしておいて損は無い上半期10枚



El-P
"I'll Sleep When You're Dead"

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TTC
"3615 TTC"

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Teki Latex
"Party De Plaisir"

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Tacteel
"Je Ne Vous Oublierai Pas"

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Cherryboy Function
"Something Electronic"

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Dizzee Rascal
"Maths + English"

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Young Dot
"This Is the Beggining"

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Turf Talk
"West Coast Vaccine"

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Devin the Dude
"Waitin' to Inhale"

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イルリメ
"イルリメ・ア・ゴーゴー"

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MP2
"XXX-File"

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Wednesday, July 04, 2007

Hadouken! - That Boy That Girl






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3年前にLil Jonが「次のアルバムはクランク・ロックだぜ!」と言っていたときは、このおっさんはなにを言ってるんだ、と誰もが思ったことだろうが、今や見渡せばUSにはShop BoyzがいてブラジルからはBonde Do Role、日本にもイルリメ、曲単位でエッセンスとしてロックを入れているものもカウントすればDizzee RascalにTeki Latexと世界中のあらゆる方角からのかつてないロック攻め。どうしてこんなことになってるのかはよくわからないが、恐るべき先見の明である。

最終的にはアート的なところを落としどころとしてヒップホップを色々といじくっていたアンティコンや、そこから派生したナードラップが自身のルーツを自然に振舞うためにロックを取り入れたのに対し、なぜか06年以降にロックを取り入れたヒップホップは気軽な目新しさと快活なキャッチーさばかりを追い求める風潮に。これが流行るのはとても不可解だけども、この風潮にあってヒップホップマップの端の端の裏あたりにロックバンドの体裁を取りつつポツンと位置するHadouken!がこの流れに沿うのも極めて自然だと言える。

求められている空気感をピンポイントで読み取り、ロック×グライムという単純明快だが、ちょっと配合をミスると大失敗をやらかしそうな白人的文化搾取調合に果敢に挑戦。ヴォーカリストの旧名Dr. Venomのガラージ/グライムシーンにおけるトラックメイカーのキャリアを生かし、JMEのフロウをパクり、D'Explicitの音をパクり、奇跡の配合を完璧にこなした結果、なぜかニュー・レイヴだとかに括られ大成功。

しかし、そんな安い職人芸で作られたこの作品には、当然のように鬼気迫る生々しいグライムらしさはない。いまや商業的に成功して流通している「グライム」とは、このHadouken!であり、Dizzeeであり、Lady Sovereignであるけども、こういう「グライム」がラーメンの胡椒程度にしか使われていないカラフルな音楽の影で、バッドマンと呼ばれたいがためだけに人を刺す発砲する頭の悪いキッズで溢れるストリートへの置手紙"Playtime Is Over"を残し引退してしまうWileyの姿がチラリと脳裏を横切る。

Monday, June 11, 2007

RUMI - Hell Me WHY??







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何年か前に陣野俊史とかいうライター(最近みねーな)が「日本語ラップはそこらの不良ラッパーが作ったものより、Tha Blue Herbや降神のようなインテリチックな反骨精神を持ったアーティストが作ったものの方が優れている」などと小難しくのたまっていたけども、最近の日本語ラップは「そこらの不良ラッパー」が作ったものにこそリリックのセンスを感じるものが多く(ぶっちゃけすぎなのも多いけど、それはそれで楽しい)、更に「クルー」ではなく「ソロ」でアルバム一枚聴かせることが出来るほどのスキルを持った不良ラッパーが一杯いるので(これは一昔前では考えられないことだと思う)、日本語の「ラップ・アルバム」を聴くのがまた楽しくなってきた。

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単純にラップスキルだけで見れば、邦ラッパーがトップレベルの米ラッパーに敵うことは決して無いように、女性MCがスキルフルな男性MCに敵うことは決して無い、ということを洋・邦問わず最近の女性MCブームや前述のソロラッパーの充実っぷりの中でも再認識するのだけども、そのことを理解している一線級の女性MCが「ラップ・アルバム」のフィールドでは戦わず、音楽知識の引き出しを片っ端から空けて、「王道」を意図的に外した「プロダクションの妙」を聴かせる作品をつくりにいくのは至極真っ当な話だろう。

しかし、RUMIの"Hell Me WHY??"を聴くと、プロダクションの「幅」を意図的に広げているには違いないけども、スノッブなファンを喜ばせる為に無理やりに曲のバリエーションを増やしているというよりも、"Hell Me Tight"から「地つづき」の、彼女の音楽背景を引き伸ばしたつくりになっていて、非常に自分の趣味に忠実な「地に足の着いた」作品に見えたので、プロダクション云々の話とはまた違った点で好感が持てた。

アブストラクトに、ドラムンベースに、エレクトロニカに、ダブステップの使用は"Hell Me Tight"の嗜好と何ら変わらず、「プロダクションの妙」や「新しい音」を作って聴かせているというよりは、おそらくRUMIが大好きな「hot wax系」の音を拡充した形となっている。どんよりした前作の欝っぽいムードから一転、音もラップもはっちゃけまくりの躁状態にふれている感じだけども、意外とピンポイントに前作のファンをそのまま惹きつけているに違いない、と思えるのは案外この「音楽性」がベースにあるからかもしれない。(そういえば、昔hot waxにRUMIの"蛹"が置いてあったな…。)

リリックも、他の国でおこっている戦争を憂いたり、未婚女性の鬱病的生活を描いた"Hell Me Tight"のオバハン臭い視点を10歳くらい若返らせた内容で、「もうこの世はおしまい~だッ。」と突然なげやりに叫んで資産家を罵ってみたり、医者との合コンバトルに必死になったり、所持金が小2以下でテンパったりしている娘のサマが恥らい無く描かれ、この辺も同世代として非常に共感できる。

一見前作からガラリと印象を変えてきたように見えて、実は前作のベースそのままに「素」に近くなった本作では、リスナーとRUMIの距離感が縮まった分、「プロダクションの幅」でリスナーを増やしているというよりは、前作からのリスナーをより惹きつけることの方に成功していると言えるのではないか。

Sunday, May 27, 2007

Tha Blue Herb - Life Story







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「俺が"ヒップホップ"を定義する」とでも宣言しているような先行シングルを聴いて、「ひょっとしてBOSSはヒップホップを自分の物にしようとしているのではないか? だとしたら、そんなことは絶対に許せない!!」という猛った気分でいたのだけども、アルバムを聴いてみるとその内容のあまりの物悲しさに言葉を失った。

"I FOUND THAT I LOST"の「何度探しても なくしたものは はっきりしない ないわけはない でもない(略)なくなったんだよ なくしたんだ (略) 俺は言葉をなくす」という言葉の重さがまさにアルバム全体を覆っている。本当にこの曲ひとつでアルバムのイメージがガラリと変わってしまうので、そんなリスクをかぶってまでその「自覚」を告白する必要あったのか?とまで思ってしまう。(少なくとも、"Stilling, Still Dreaming"で「金で買えないものならとっくに俺の手の内にある」といっていた人とはまるで別人なので、ガッカリする人もたくさんいるだろう。)

"I FOUND THAT I LOST"の喪失感の「重さ」は、他の楽曲を経て、"Life Story"の中で倍増していく。リスナーの期待の重圧。新世代に取って代わられるかもしれない重圧。「何かを表現しなくてはいけない」重圧。そして実際に錆びついてしまっている「言葉」と「テーマ」の鈍重さ。

未だにヒップホップを「レース(勝ち負けの世界)」として捉えて自分のモチベーションを上げているスタンスも悲しすぎる。「勝ちか負けか」に拘るのは勝手だけども、いまやヒップホップを「レース」と考えているラッパーがBOSS以外に一体どれだけいる? 「ヒップホップを自分のものにしようとしている」と疑われるほどヒップホップへの「愛」を持っているBOSSが、愛してやまないヒップホップを「レース」と考えなければならないほど追い込まれているのかと思うとマジで目頭が熱くなる。

「ヒップホップは"闇"だ」と言い切ったBOSSの楽曲が「他者への愛」にシフトしているところは、「家庭を持ったから」だとか「齢を取ったから」だとか「うたうテーマがなくなったから」だとか色々理由は付けられるだろうけども、この喪失感の「重さ」からの逃げ道として見れば、簡単にDISることも出来ない。

Saturday, May 05, 2007

微熱メモ vol.3

・蛇足だけども、SEEDAの自己卑下にもとづく自己陶酔チックな倒錯したナルシズムは聴き手の好みがわかれるところだと思う。私はこういう内省的なナルシズムはヲタ臭くてあまり好きじゃない。

・SCARSの言う「ストリート」が新鮮な理由って、今までのラッパーは自分を「タフ」に見せたり、「リアル」に見せたり、自分にとって「プラス」になるイメージとして「ストリート」という言葉を使っていたのに対して、ペシミストが集ったSCARSは非常に「ネガティブ」なイメージとして「ストリート」という単語を使っているからだということに気が付いた。「ストリートを否定」するリリックってのはテーマとしても新鮮だから今後このテーマがどのように展開していくか、ってところも気になる。

・Tha Blue Herb"この夜だけは" 。日本語ラップの「アンダーグラウンド」もぼちぼち成熟していて、地方格差も小さくなりつつあって、ラップに対する一般認知も広がっている。そして彼はラッパーには珍しく「金」を持っている。いまのBoss the MCの表現の動機って何なんだろう。シングルを聴いた感じだと、「アンダーグラウンド」を「定義する」ことに心血を注いでいる感じだけど、彼の描く「アンダーグラウンド」がよくわからん。あと、彼の言う「次のステージ」も(「海外進出」がそのうちの一つなのはわかるけど、実現への具体策がわからない)。3rdアルバムではこの辺がどのように明確化されるか非常に楽しみ。

既に早まる死期(四季)(手記)経由にて知ったLady Sovereignの萌え情報(http://ameblo.jp/junjunpa/entry-10030824676.html)。M.I.Aのアルバムもじきに出るし、M.I.A側の萌え情報があれば是非教えてください。

・「カリカコント+MEETS」の2回目が6月開催との情報。1回目のコントは全てレベルが高かったのだけど、特に血みどろの給食エプロンを身にまとって「春のパン祭り」をテーマに大人の小学生が踊り狂う異空間コント(自分で書いていても意味わからんが、本当にそんなコントだった)が凄まじかったので、コレに匹敵するコントを今回も期待。

Thursday, May 03, 2007

SEEDA - 花と雨






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「ワックだ」と言われたり、「これは無駄だ」と言われるような要素を全て削ぎ落とした引き算の解のようなB.L.のビートは、一見ドラマチックに見えるけど他のビートメイカーと比較しても面白味がなく、90年代のアメリカのビートの端正で綺麗な部分だけを焼き直ししたかのようだ。成程、SEEDAのラップはブッダやオジロ、ジブラなどの日本語ラップの「良い所」を出自と併せて綺麗に消化しているけども、しかしその素晴らしいフロウだけでは作品の「特徴」には成りえない。

この「花と雨」は「クラシック」に相違ないけども、その理由は「ビートが優れているから」だとか「ラップが凄いから」というよりも、極めて「文学的」なリリックにあると考えている。いままで「文学的」と言われた作品はたくさんあったけども、この「花と雨」こそが真の意味で日本語ラップで初めての「文学的」な作品と言えるのではないか。

今までの日本語ラップにおいて、リスナーは「作品」をそのラッパーの「一部分」として趣味や考え方、生活を聴き解くことしか出来なかった。いままでのラッパーの作品には、セルフボースト物やメイクマネー物、クルーとの連帯感をうたった物や社会批判、地元の話など色々あったが、そのラッパーの「生い立ち」や「成長の過程」や「ダメな側面」(全てそろえて「パーソナリティ」)が落とし込まれた作品は無かった。例えば、「リリシスト」と言われたBOSS THE MCは自分の力を誇示し他を蹴散らす力強いリリックと夢を描く美しいリリックを練り上げ、「リアル」と言われたMSCは新宿での「現時点の生活」の生々しさをより精緻に伝えるため、身の回りのことを細かい筆致で描きあげた。しかし、自分の「成長の過程」や「ダメな側面」等の「パーソナル」な部分にはスポットを当てたラッパーはいなかった。「リアルな俺」や「カッコいい俺」を描くラッパーはいたのだけども、「リアル」に「カッコ悪い俺」を描いたラッパーは今までいなかったのだ。

SEEDAは「花と雨」で貪欲に自分自身を作品に投影する。SEEDAは「生い立ち」と「自己の成長」を丹念に描き、それを踏まえた上で「環境に翻弄される俺」(ダメな俺)を描く。そして、リスナーは「花と雨」を咀嚼することで、「SEEDA」というラッパーの人生と人間性を知る。これは過去のラッパーの作品ように「一部分」的に解釈させるような物ではなく、「花と雨」ひとつの作品を通してあらゆる側面から素の「SEEDA」が描かれる彼の「成長録」だ。

つまり、「花と雨」は一貫して「ダメな俺」が描かれた初の日本語ラップ作品であり、「ダメな俺」の人生と生活を全て作品に吐き出すという行為こそ「文学」とよぶに相応しいものだろう。そうしてみると、リスナーに散々感情移入させた挙句、終盤に「泣き」の曲を持ってくるところも実に「うーむ」と唸らせてくれるアジな展開なのである。

Saturday, April 21, 2007

Twigy - Akasatana & You the Rock★ - Big Vip Hop





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しつこくBLASTからネタを拝借させていただきます。

「UNDERPIN」の記事で磯部涼氏が斬っていたZEEBRAの"The New Beginning"の「原点回帰」は今のタイミングでは当然の志向だと思う。"Tokyo's Finest"を出して叩きに叩かれまくったその次が「原点回帰」だというプロセスには彼の自己防御本能を感じずにはいられないが、"The Rhyme Animal"から向こう全ての作品で「シーンの外」へ与える影響を考えていつづけていたことを踏まえれば、単純な「自己防御作品」という意味合いだけではなく、POPミュージックの中で溢れかえり一般的に認知されしまった「ラップ音楽」へのカウンターの意味合いもあったには違いない。

しかし、もし「シーンの中」を牽引するという考えがあったのであれば、"The New Beginning"を原点回帰作品とするのではなく、Tokona-XやMACCHOがやっていたような音楽をつくるべきだったと確かに思う。BLASTの「THE FUTURE 10 OF JAPANESE HIPHOP」でとりあげられているような方向性にZEEBRAが先鞭をきっておけば、「シーンの中」の方向性も明確になっただろう。(それが良いことか知らんが)

ZEEBRAより下の世代は「シーンの外」に目を向けず「シーンの中」に作品を発信しつづけるきらいがある反面、ZEEBRAの世代は「シーンの中(下の世代)」に目を向けなさ過ぎる、と思ったのも「ゴージャス」は「ゴージャス」なのだけども、Twigyの"Akasatana"とYou the Rock★の"Big Vip Hop"も「シーンの流れ」とは距離がある内容だったからだ。

ベスト盤もほぼ同時期に出したTwigyとYou the Rock★は今回も示し合わせたかのようにほぼ同時期に「外国人プロデューサ」を起用して作品をドロップしたのだが、両者を並べてみると真逆のコントラストを放っているところが興味深い。

Prefuse 73の相変わらず隙間の無い排他的なビートをきめ細かく縫うTwigyのラップは、そのスキルの高さ故かビートと一体化してしまって印象を残さないが、しかしTwigyが合いの手を加えることによって、非常に特徴的なビートの上でゲスト陣を際立たせることに成功している。Prefuse 73との仕事に着目するよりは、多彩なゲスト全ての粒がキチンと立っているところに着目すべき作品。このビートに埋没してゲストを光らせるというラッパーとして一段上のTwigyの仕事を「陰」とするならば、You the Rock★は完全な「陽」、米メインストリームのポップなトラックの上で8曲の間ぶっつづけで独り気炎をはく。「言いたいことや不満はたくさんある!!」とばかりに怒鳴り散らすYou the Rock★は見事に中年病にかかっているのだけども、茶目っ気を感じずにいられないのは己の欲望に忠実すぎるリリックゆえか。「楽して金をもうけてえ!!」という気炎と「イカした女に挿れてえ!!」という気炎の間で「ふざけている場合じゃないんだ!!みんな真面目にやれよ!!」と説教をかまし、格差社会にFUCKサインを送る。その内容には何故か一切共感できないのだけども、テッカテカのコミカルビートの上で己の欲望を高らかにシャウトするその勇姿は前作"No Sell Out '05"より100万倍輝いて見えた。

しかし、ゲストを「ゴージャス」にしているTwigyと、自分の姿を「コミカル」にしてしまっているYou the Rock★。「不良性」の面でもひねくれ具合に磨きがかかったTwigyと、不良というか単にキチガイじみているだけのYou the Rock★は、やはりボタンを掛けちがえている。あと少し意図的にボタンをずらせば「シーンの流れ」にもはまると思うのだが。

Sunday, April 08, 2007

余作2 Dr. Dre presents... The Aftermath

余作とは : 音楽好きな人ならば必ず一枚は持っている「音楽として良くも悪くも無いし、音楽史的にも全く重要でない」アルバムのことである。言葉の使い方としては「このアーティストのこの作品は"余作"だろ」という感じ。アーティストのキャリアには全く必要ない作品を指す。
「アンダーレイテッド」どころか、この先も別段と評価もされずに歴史に埋もれ、押入れの段ボール箱の片隅に眠り続けるであろう余分な作品、きっとそのアーティストも記憶と記録から抹消したがっている作品をフィーチャーしていく企画。「音楽として良くも悪くも無いし、音楽史的にも全く重要でない」けど、思い入れだけは少しある作品へレビューを贈り、その存在を認めていく。






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今でこそ最高の(サウンド・クリエーターとしてだけでなく本当の意味での)プロデューサーとしての名声を完全に確立したDr. Dreだが、Death Row離脱後に設立したThe Aftermath初のリリースとなるこの"Dr. Dre presents... The Aftermath"がリリースされた当時は、「Dre終わったか?」という声が囁かれたりもした。

Snoopを筆頭に多くの新人をスターに育て上げたDREだけに、The Aftermath発足に際しても同じ事をしようとしていて、Death Row組(RBX)や旧友(King T)のような知った顔もいるが、基本的に新人で占められている。まあ、失敗作と言われてるだけあって、新人の中には一人として際立った才能は見当たらず、アルバムのベスト楽曲が、NasやB-Real、KRS Oneを招いたポッセ・カット"East Coast/West Coast Killas"という時点でレーベルの顔見せコンピとしては大失敗といって良いだろう。結局、Dr. Dre、そしてThe Aftemathが浮上するにはEminemの登場を待たねばならないわけだが・・・・。

「Dre絡みのアルバム・ランキング」などというアンケートがあればこのアルバムは確実に最下位だろうし、Dre本人ですら素で忘れてそうなアルバムではあるが、それでも個人的には非常に好きで今でもたまに引っ張り出しては楽しんでいる。Dr. Dre監修のアルバムにしては珍しく「B級感」がそこはかとなく漂っている辺りも捨てがたいし、シングルすら切れずに消えていった名もないアーティスト達のその後を想像しながら聞くのも嫌いじゃない。Dr. Dreのメジャー感バリバリのゴージャスなトラック上で頑張る名も無い新人達。正に余作に相応しい光景だ。

[fuma75]

Wednesday, March 21, 2007

El-P - I'll Sleep When You're Dead






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間違いなく5年に1つ出るか出ないかレベルの傑作中の傑作(月刊ビートマグロ基準★10個認定)なので、Defnitive Juxを信じて根気よく追い続けていた人たちは今頃揃って桜の木の下で狂喜乱舞していることだろう。

残念ながら今月で休刊となってしまったBLASTのインタビューを読んでみると、「(Mr.Lifなどのクルーの作品を含めた)今までのプロジェクトは俺の実験に過ぎない。本番(自分のソロ作)で実験なんかできるか。(大意)」だとか、「Party Fun Action Committeeはギャグだ。あんなものを本気で批判しているやつはアホだ。(大意)」というツレやリスナーを屁とも思っていない傍若無人な素敵発言が飛び出していて度肝を抜かれたのだけど、本作を聴いてみると成程この発言はマジなのだととても納得し、同時にEl-Pの底知れぬひとでなしっぷりに惚れてしまった。

原点となるCompany Flow "Funcrusher"に、彼が言うとおり、今まで紆余曲折あった彼の全てのキャリア(ロック・ジャズ・エレクトロニカ・ギャグプロジェクトで培った経験)を、考えられる最大限の「創造力」を注ぎ込んだ結果がこの"I'll Sleep When You're Dead"であり、確固たるヒップホップ土台(世界観)と、途方もない音楽経験値の高さがなければ作りえない超快作。"Funcrusher"をひっぱって、叩いて、踏みつぶして、放り投げて、色んな装飾を施して……。"Funcrusher"がWindows95ならば"I'll Sleep When You're Dead"はWindowsVistaみたいなものか。(我ながらダサい例えだ……)

もともと一流だった作品を一流の職人が何年もかけてリメイクすることでしか出し得ないこの味と仕掛けには、USメインストリームにおける瞬発力のあるクリエイティビティや、ボルティモアやグライム、バイレに顕れたマジックとは全く別の次元の「創造力」がある。今までのアングラ物の「創造性」が全て一面的なものに見えてしまうくらいの危うい力強さ。

しかし、こんな作品を作れてしまうのは、やっぱりEl-Pがそうとう執念深い自己中人間だからなのだろうなぁと、別の感動も強く呼び起こされてしまうのである。

Sunday, February 04, 2007

Swanky Swipe - Bunks Marmalade






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Swanky Swipeの"Bunks Marmalade"が想像以上に良くてビックリしていたら、年を越していた。

Concrete Greenの良さの一つは、グライムのMIX CDのように雑多な曲を玉石混合で大味にぶちこむことによってストリート発信感(ハンドメイド感)が増し、あまりカッコ良くないような曲でも「ひょっとして実は物凄いカッコいいんじゃねぇか?」というような淡い期待や探究心をかきたてる作りになっていたところにある。

しかし、そのハードルがあがった状態の探究心を元にして、SDPやSeedaの新作やScarsを聴くと、やはりパッケージ化された楽曲群と、その枠を飛び出なさ(規格外の面白さが無い状態)に幾分ガッカリした。Concrete Greenは良い曲も、良くない曲も、面白い曲も、つまらない曲も、ばらんばらんに詰めに詰め込んで全体的に聴き手のテンションが高くなるように作られているせいか、単一的に良作がならんだだけでは、そのケミストリーに匹敵する興奮は得られない。そんなわけで、Concrete Greenの手法は凄いなぁと改めて感心していたのだけども、Swanky Swipeの楽曲群は、Concrete Greenで聴くよりも単一にパッケージングされたもののほうが断然レベルが高くてビックリしたのだった。

将来がまったく見えず、ふとしたことで足元を掬われるような生活に対する不安や鬱屈と憤りを等身大で描いたことで、「日本でリアルなラップすること」がどういうことなのかを提示した03年のMSC "Matador"は革新的だった。そして、そこでの「ヒップホップ」は単なる「仲間を繋ぎとめるためのメソッド」としてしか表現されていないため、今後の生活を支えるものがなく、仲間と一緒に沈んでいくかもしれない危うさを孕んでいて、そこにヒリついた真剣な説得力があり、何よりもそのアンバランスな感覚が斜め下がりの時代の流れとマッチしていた。そういう面において「ヒップホップ」を「生活の中心(軸)」とそえて、仲間と一緒にあがっていくための将来に繋ぐ希望と格上げした"新宿Street Life"は、その分「ヒップホップ」作品としてのクオリティは上がったかもしれないが、MSCの歪ではあるけども未来への希望が詰め込まれていて、また仲間との連帯感も他のクルーとのソレと近くなっている感じがして、"Matador"の「良さ」が根こそぎ無くなっていて、好きになれなかった。

やはり作品の中で「ヒップホップ」をどのように考えて表現するかが、キーになると思っている。

Scarsというよりも、Seedaの作品に(B-BOY然としたラップにも)顕著だけど、ヒップホップに対する愛情がにじみ出ている分、えげつなさに欠ける。どうしようもない時や、どうにもならない未来を見るとき、「だけど…」といって顔を出してくる「ヒップホップ」を嫌悪する。「ヒップホップ」で過去を懐かしんだり、将来への希望を持ったり、友情や愛を表現する手法を否定はしないけども、いい年齢して定職にもつかないオッサンの「どん底の生活」や「先の見えない生活」の描写に用いると寒々しいものになるから。私は、日本語ラップで表現される「リアル」に「ヒップホップ」の要素が混ざると、表現が格段に落ちるものと思っている。(Rumiの"Hell Me Tight"も、同様の理由で一つのアルバムの世界観がチグハグになり、説得力が落ちていたから好きになれないのに気付いた)

"Bunks Marmalade"の素晴らしさは、勿論ところかまわず「ゲロ」を吐きつづけるBESのラップにあるのだけども、それに加えて「ヒップホップにまつわるキレイごと」には目にも入らないような切迫感があるところにある。そこに現在の生活の描写やどうしようもない思考が入りこむと、そのリリックには更に強靭さが増して、自分の生活への不安までもひしひしと増長させられる。現状の生活に泥団子になって喘ぐようなラップ。目に入る将来など勿論、「ヒップホップ」など無いに等しいようなこの作品が"Matador"から3年経った現在にドロップされて、MSCとは全く違った角度から放られたこの奇跡的な事実に、驚かないわけがなかろう。