Sunday, May 27, 2007

Tha Blue Herb - Life Story







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「俺が"ヒップホップ"を定義する」とでも宣言しているような先行シングルを聴いて、「ひょっとしてBOSSはヒップホップを自分の物にしようとしているのではないか? だとしたら、そんなことは絶対に許せない!!」という猛った気分でいたのだけども、アルバムを聴いてみるとその内容のあまりの物悲しさに言葉を失った。

"I FOUND THAT I LOST"の「何度探しても なくしたものは はっきりしない ないわけはない でもない(略)なくなったんだよ なくしたんだ (略) 俺は言葉をなくす」という言葉の重さがまさにアルバム全体を覆っている。本当にこの曲ひとつでアルバムのイメージがガラリと変わってしまうので、そんなリスクをかぶってまでその「自覚」を告白する必要あったのか?とまで思ってしまう。(少なくとも、"Stilling, Still Dreaming"で「金で買えないものならとっくに俺の手の内にある」といっていた人とはまるで別人なので、ガッカリする人もたくさんいるだろう。)

"I FOUND THAT I LOST"の喪失感の「重さ」は、他の楽曲を経て、"Life Story"の中で倍増していく。リスナーの期待の重圧。新世代に取って代わられるかもしれない重圧。「何かを表現しなくてはいけない」重圧。そして実際に錆びついてしまっている「言葉」と「テーマ」の鈍重さ。

未だにヒップホップを「レース(勝ち負けの世界)」として捉えて自分のモチベーションを上げているスタンスも悲しすぎる。「勝ちか負けか」に拘るのは勝手だけども、いまやヒップホップを「レース」と考えているラッパーがBOSS以外に一体どれだけいる? 「ヒップホップを自分のものにしようとしている」と疑われるほどヒップホップへの「愛」を持っているBOSSが、愛してやまないヒップホップを「レース」と考えなければならないほど追い込まれているのかと思うとマジで目頭が熱くなる。

「ヒップホップは"闇"だ」と言い切ったBOSSの楽曲が「他者への愛」にシフトしているところは、「家庭を持ったから」だとか「齢を取ったから」だとか「うたうテーマがなくなったから」だとか色々理由は付けられるだろうけども、この喪失感の「重さ」からの逃げ道として見れば、簡単にDISることも出来ない。

Saturday, May 05, 2007

微熱メモ vol.3

・蛇足だけども、SEEDAの自己卑下にもとづく自己陶酔チックな倒錯したナルシズムは聴き手の好みがわかれるところだと思う。私はこういう内省的なナルシズムはヲタ臭くてあまり好きじゃない。

・SCARSの言う「ストリート」が新鮮な理由って、今までのラッパーは自分を「タフ」に見せたり、「リアル」に見せたり、自分にとって「プラス」になるイメージとして「ストリート」という言葉を使っていたのに対して、ペシミストが集ったSCARSは非常に「ネガティブ」なイメージとして「ストリート」という単語を使っているからだということに気が付いた。「ストリートを否定」するリリックってのはテーマとしても新鮮だから今後このテーマがどのように展開していくか、ってところも気になる。

・Tha Blue Herb"この夜だけは" 。日本語ラップの「アンダーグラウンド」もぼちぼち成熟していて、地方格差も小さくなりつつあって、ラップに対する一般認知も広がっている。そして彼はラッパーには珍しく「金」を持っている。いまのBoss the MCの表現の動機って何なんだろう。シングルを聴いた感じだと、「アンダーグラウンド」を「定義する」ことに心血を注いでいる感じだけど、彼の描く「アンダーグラウンド」がよくわからん。あと、彼の言う「次のステージ」も(「海外進出」がそのうちの一つなのはわかるけど、実現への具体策がわからない)。3rdアルバムではこの辺がどのように明確化されるか非常に楽しみ。

既に早まる死期(四季)(手記)経由にて知ったLady Sovereignの萌え情報(http://ameblo.jp/junjunpa/entry-10030824676.html)。M.I.Aのアルバムもじきに出るし、M.I.A側の萌え情報があれば是非教えてください。

・「カリカコント+MEETS」の2回目が6月開催との情報。1回目のコントは全てレベルが高かったのだけど、特に血みどろの給食エプロンを身にまとって「春のパン祭り」をテーマに大人の小学生が踊り狂う異空間コント(自分で書いていても意味わからんが、本当にそんなコントだった)が凄まじかったので、コレに匹敵するコントを今回も期待。

Thursday, May 03, 2007

SEEDA - 花と雨






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「ワックだ」と言われたり、「これは無駄だ」と言われるような要素を全て削ぎ落とした引き算の解のようなB.L.のビートは、一見ドラマチックに見えるけど他のビートメイカーと比較しても面白味がなく、90年代のアメリカのビートの端正で綺麗な部分だけを焼き直ししたかのようだ。成程、SEEDAのラップはブッダやオジロ、ジブラなどの日本語ラップの「良い所」を出自と併せて綺麗に消化しているけども、しかしその素晴らしいフロウだけでは作品の「特徴」には成りえない。

この「花と雨」は「クラシック」に相違ないけども、その理由は「ビートが優れているから」だとか「ラップが凄いから」というよりも、極めて「文学的」なリリックにあると考えている。いままで「文学的」と言われた作品はたくさんあったけども、この「花と雨」こそが真の意味で日本語ラップで初めての「文学的」な作品と言えるのではないか。

今までの日本語ラップにおいて、リスナーは「作品」をそのラッパーの「一部分」として趣味や考え方、生活を聴き解くことしか出来なかった。いままでのラッパーの作品には、セルフボースト物やメイクマネー物、クルーとの連帯感をうたった物や社会批判、地元の話など色々あったが、そのラッパーの「生い立ち」や「成長の過程」や「ダメな側面」(全てそろえて「パーソナリティ」)が落とし込まれた作品は無かった。例えば、「リリシスト」と言われたBOSS THE MCは自分の力を誇示し他を蹴散らす力強いリリックと夢を描く美しいリリックを練り上げ、「リアル」と言われたMSCは新宿での「現時点の生活」の生々しさをより精緻に伝えるため、身の回りのことを細かい筆致で描きあげた。しかし、自分の「成長の過程」や「ダメな側面」等の「パーソナル」な部分にはスポットを当てたラッパーはいなかった。「リアルな俺」や「カッコいい俺」を描くラッパーはいたのだけども、「リアル」に「カッコ悪い俺」を描いたラッパーは今までいなかったのだ。

SEEDAは「花と雨」で貪欲に自分自身を作品に投影する。SEEDAは「生い立ち」と「自己の成長」を丹念に描き、それを踏まえた上で「環境に翻弄される俺」(ダメな俺)を描く。そして、リスナーは「花と雨」を咀嚼することで、「SEEDA」というラッパーの人生と人間性を知る。これは過去のラッパーの作品ように「一部分」的に解釈させるような物ではなく、「花と雨」ひとつの作品を通してあらゆる側面から素の「SEEDA」が描かれる彼の「成長録」だ。

つまり、「花と雨」は一貫して「ダメな俺」が描かれた初の日本語ラップ作品であり、「ダメな俺」の人生と生活を全て作品に吐き出すという行為こそ「文学」とよぶに相応しいものだろう。そうしてみると、リスナーに散々感情移入させた挙句、終盤に「泣き」の曲を持ってくるところも実に「うーむ」と唸らせてくれるアジな展開なのである。