MINT - After School Makin' Love
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「"人のものを盗むのがヒップホップだ"という人もいれば、"自分で創造するのがヒップホップだ"という人もいる。ヒップホップとは何か?という議論には何の意味も無い」とSage Francisは言いました。つまり、物まねも、パクリも、創造も、ダサいことも、イキったことも、ポップも、ロックも、演歌も、鼻歌も、人の解釈によってなんでもヒップホップということです。「コレがヒップホップだ」なんて言葉は、きっとそれを発言した本人にしか通じないでしょう。残念ながらその主張には意味がありません。
「年々音楽の価値は下がっている」と一口で言ってしまえば、多くの人に違和感を与えるかもしれません。しかし現在、一曲はただの数MBのファイルにすぎず、地球の裏側の国の音楽を数秒でデスクトップに保存でき、好きなように編集・加工してまた世界に発信できてしまうのです。驚くほどの手軽さで。「"KALA"は使い捨てで、海賊版的で、移民的。」と可愛い可愛いM.I.Aは言いました。一つの曲を大切に聴きつづける姿勢を否定することは出来ません。だけども、ゴミ箱を漁るように曲を掘り起こして、どんどんどんどん曲を聴き捨てて、つまらなくなったら好きなように再加工すれば良いというアグレッシブで若者的な考え方に惹かれる自分がいることも確かなのです。たしかに発信者側にたてば「ずっと大事に作品に接してもらい」という想いを持つのも仕方が無いことと思うのですが、年にたくさんの曲を聴くコアなファンほどその要求は厳しいものと感じることでしょう。
最近、よく「"リアル"とは何か?」を考えます。5,6年前に私はblastの対談で「TWIGYの"余韻"はアメリカナイズされた"リアル"ヒップホップのアンチテーゼだ」というようなことを書きました。同じ対談で磯部涼氏が「TWIGYの"余韻"は南部ヒップホップから影響を受けている」ということを主張しました。見てわかるとおり両者の意見としては真逆なのですが、そのときは意見が特にぶつかることもなく、うやむやになって終わりました。キングギドラが売れに売れたり、過剰なセルフボースト物が横行していた当時の背景を踏まえて、いま振り返ると「TWIGYの"余韻"の手法は"南部ヒップホップ"、雰囲気は"自然体(リアル)"」というのがその対談の結論だったのではないかと思うのです。「ギャングスタラップを真剣に聴いているが、それをそのまま真似することはしない。ギャングスタたちが銃について歌うのと同じくらいの気持ちで、僕達はテレビゲームについて歌う。」とTeki Latexは言いました。もし言っていることがその人の妄想であっても、「ギャングスタと銃の距離感」をその曲の中で表現できているのであれば、それは「リアル」といえるものなのではないでしょうか。
さて、MINTの"After School Makin' Love"です。「南部ヒップホップ、ギャングスタラップのビートとラップの"間"を精緻に模倣している」というレビューは星の屑ほどありそうですが、むしろ南部ヒップホップを模倣したからこそMINTの「ヒップホップ観」が分かり易く、きっちりと顕れているところが重要なのです。
つまり、「MINTのヒップホップ」とはバカバカしさとエロチズムを孕んだ「快楽性」に集約され、そのためならば一部の人に否定されるであろう「アメリカナイズ」も、刹那的な音楽として「使い捨て」られることも厭わない度量を持っていること、「使い捨て」られた楽曲を再加工(スクリュー)して作品として再提示するフットワークを持っていること、質の高い「アメリカナイズ」のトラックとティーンエイジャーの娘の話で徹頭撤尾貫き通された確固たる「世界観」と変質的な「作品主義志向」を持っていることを確認できるのです。
ちらと聴いただけでこういったことをツラツラと確認できる。きっと"After School Makin' Love"は2007年の日本語ラップで最高の「完成度」を持ったアルバムと言えることでしょう。
また、設定とアートワークは高等学校時代にフォーカスを当てているのですが、リリックは極めて妄想的で、ティーンエイジャーの娘のことのみに執着しているため、全くモラトリアムに誘われないことも記しておきます。しかし変な妄想であれど、このMINTとティーンエイジャーの距離感こそがまさに日本語ラップで表現すべき「リアル」であると私は信じているわけなのです。
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