Friday, May 06, 2011

RAU DEF - ESCALATE



半年以上前の話になるけども、RAU DEFの『ESCALATE』を聴いたときの得体の知れない気持ち悪さはいまもよく覚えている。あの作品を聴いたときの感想は「何を表現したいのかサッパリわからない」というもので、軽妙なラップの聴き心地の良さとワードの聴き取り易さに反して、うたっている内容に意味を見出すことが出来ず、いったい彼は何を目標に何を表現したくてラップしているのかわからなかった。RAU DEFのラップは、手元に転がっているペンでそこらにある紙にテキトーに落書きをしているような印象で、それでもラップが落書きを描くために使われるくらい身近な道具になっているというところは興味深く受け取ることができたのだった。

しかしいま、2011年3月11日の東日本大震災を経て、この作品を聴くとまた違った側面に気づく。それは、RAU DEFのラップには明らかにフラストレーションが込められているのだけども、そのフラストレーションの矛先が定まっていないところで、怒りや焦燥や諦念がただボンヤリと混乱して露出している部分だ。

理解しようとしないコミュニティ、東京中心のシーン、格差社会をつくりだしたバビロン、価値観を縛りつけようとするモラル、あるいはポップチャートのJ-RAPにいたるまで、日本語ラップの仮想敵はその時代その環境にあわせて幾度も作り上げられて、ラッパーとリスナーのフラストレーションの捌け口になっていた。しかし、そういった仮想敵すらも見出すことができなくなってしまった状態が『ESCALATE』の持つ「得体の知れない気持ち悪さ」の大元なのかもしれない。RAU DEFのフラストレーションはスキルの無いワックラッパーだけに向けて発せられるが、私たちには顔の見えないワックラッパーだけが彼にとって一番目に見えている敵なのだ。

同じように、去年のS.L.A.C.KやQN(SimiLab)のアルバムが持つ日常感はその"敵のいない状態"の延長線にあるし、AKLOやKLOOZたちのようにヒップホップをゲーム(遊び)と捉え、時代のモード(流行)に乗っかって上昇することを目論むアーティストが受け入れられつつあるのも、"日本のヒップホップが敵を見失っている"ことの裏返しだろう。仮想敵となるものが見出せないからこそ何気ない日常をうたうことがリアルに響くし、競争相手となるラッパー以外の敵を作り出すことが出来ないからこそセルフボーストをテーマにラップゲームでスキルを競い合う。そうやって切り取っていくと、S.L.A.C.Kのように"敵のいない日常"にも、AKLOのように"(敵がいないが故の)ラップゲーム"にもフラストレーションをぶつけられずに混乱している居心地の悪さがこの『ESCALATE』にはある。

つまり、「敵を見出すことのできない状態にどうやって折り合いをつけているか?」という点こそが2010年の日本のヒップホップを整理するうえで見落としてはならない一番重要な切り口なのだ。………ただ、その"ルーズさ"が特徴だったS.L.A.C.Kが"But This is Way"でこれまでにないシリアスなラップを放ったように、その"敵のいないまったりとした日常"も2011年3月11日を境に大きく変わってしまったのだけども。