Sunday, October 21, 2007

Zeebra - World of Music






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アルバムに入っている二木崇氏のレビュー、「ブラストアワードメッタ斬り」での"The Rhyme Animal"評、MAG FOR EARS vol.3での"Tokyo's Finest"評、当ブログの"The New Beginning"評を一言でまとめると、「Zeebraの作品は常に"カウンター"を意識した作りになっている」と言える。

キングギドラのハードコア路線をリセットしてソフトな「大衆路線」へ移行し("The Rhyme Animal")、それを地盤に「ミスターダイナマイト」というイカつく説教臭いラッパーの偶像を「ヒップホップイメージ」として一般人の脳裏に植え付け("Based on a True Story")、そのヒップホップイメージにポジティブな目標を掲げるべく「ヒップホップドリーム」を提示し("Tokyo's Finest")、その独りよがりで歪な幻影を多くのハードコアラッパーから叩かれ、世間ではPOPミュージックのラップが一般認知を広げる中で「原点回帰」した("The New Beginning")。これほど、周りの環境/時代の流れと自分の作品の関係性を意識して、改善を加え続けているラッパーもなかなかいない。Zeebraは「トライ&エラー」型のラッパーなのだ。

なので、本作"World of Music"でどういう方向に行くか楽しみにしていたら、"The New Beginning"の後としてはかなり「正解」に近い解答を出したのでとても感心したのだった。Zeebraは「シーンの中を"牽引"することに対する意識の薄さ」を払拭するかのように「原点回帰」路線をそのままに下の世代をフックアップし、更にそのまま若手の力を借りることで「現役感」を取り戻そうとしたのだ。そして、その試みが功を奏してかムードとしては「今風」で、いままで「改善し続けて積み上げた」結果が時流とマッチした「現時点で最高の快作」を叩き出した…。

…とは言えるのだけど、Zeebraが「不良ラップ」のムードを纏うのにスゲー違和感がある。というのも、「不良ラップ」って前のコラムのとおり「リアル(素)」を表現しているものだから、Zeebraのヒップホップにおける「姿勢」とあまりにかけ離れてすぎていると思うからだ。

これは、MAG FOR EARS vol.3の繰り返しになってしまうのだけど、ジブさんの大きな罪として一般人に「悪そうな格好と偉そうな態度で、偽善的な説教と聞きたくもない自慢話を繰り広げる」ラッパーのイメージ(ミスターダイナマイトさん)を刷り込んだことが挙げられる。今のラッパーが「カッコいい日本語ラップを広める」という名目で一般人をリスナーとして取り込むときに闘わなければいけない一番の強敵は、リップでもキックでもシーモでもなくて、「ミスターダイナマイトさん」なのだ。

そのラッパーの幻影とも言うべく「ミスターダイナマイトさん」を世間的に抹殺するための有効的な手段の一つとして「ラッパーの"素"を見せる」というアプローチ、すなわち「不良ラップ」の表現があると勝手に思っていた。(だからこそSEEDAの"街風"が一般リスナーに届いたら「ターニングポイント」になると思っていた…)そしたら、ジブさんはムードだけを「今風」に身にまとって、肝心のリリックは今までと殆ど変わらずパーティでクエルボをガンガン飲んで、セクシーガールをはべらしていらっしゃって度肝を抜かれた…。

そもそもZeebraのヒップホップは「リアル(素)の表現」とは程遠い「ロマン/ドリームの提示」である。だからそういう「ヒップホップドリーム」の下地になるヒップホップイメージを殺す必要は全く無いし、「リアル(素)」を見せるのは彼の活動上ではマイナスでしかないのだろう。

しかし、ムードだけが「今風」で、言っていることがミスターダイナマイトさんと同じなのってあんまりだ、と思うのである。

Saturday, October 20, 2007

SEEDA - 街風






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////////////"街風"を聴く前の感想/////////////

"3 Days Jump"や"A Sweet Little Dis"を初めて聴いたとき「なるほど」と思わず膝を叩いた。考えてみれば至極単純な発想だし、やろうと思えば誰でも出来たはずなのだけども、日記帳に見たことを綴る描写や、DISを主眼として特定のラッパーを叩くリリックは日本語ラップになぜか存在しなかったからだ。ヒップホップを聴いていれば自ずと出てくるはずの表現を自分も含めて皆がスルーしていたことに驚いた。

そういった「驚き」は普段日本語ラップを聴いている中でもなかなか無いものだけども、最近ちょっと前にネット上で観た"Mic Story"のPVの中に転がっていた。同じクルーや地元の仲間をフックアップする為の曲というのは今までいくらでもあったけども、既に成功して金も地位も手に入れたベテランラッパーが新進気鋭の若手ラッパーにエールを送るという構図の曲はいままで無かったのだ。

"Mic Story"で、SEEDAは「ヒップホップで成り上がる」ことに対する想いや葛藤を誰にともなく吐露し、Bossは「ラッパーの先輩」としてSEEDAの不安を拭い、励ます。その構図はまるでヤンチャで情熱的だけど未熟な弟(=SEEDA)とその弟の成長を温かく見守る懐の深い兄(=Boss)のようであり、そのままBL(≠トラックメイカー)として成立してしまうんじゃないか?と思えるほどの斬新さ。

日本には、ストリートで携帯電話越しにラップをするようなヤツはいないが、ニコニコ動画を介してアニソンのビート上でラップしたり、DISりあうようなヤツはいる。日本語ラップがこの先どのように成長していくかはとんとわからないけど、"Mic Story"のような構図のBL本が出るようになったら「日本語ラップは一般に認められた」と胸を張って言える、と思う。「なぁSEEDA、ストーリーを続けようぜ(性的な意味で)」

////////////"街風"を聴いた後の感想/////////////

MEN'S STREET誌でSEEDAが「日常の喜怒哀楽をラップしたい」というようなことを言っていたので、とても感心した。

この間の古川氏との対談のあと、「"表現"の寿命はどうすれば長くなるか?」ということを考えていた。「フィクショナル」な方向に行くというのは確かに一つの選択肢ではあるけども、他の選択肢はないのか? ということについて。結構見落としがちなところではあるが、「日常を切り取って表現する」という行為自体はブログでみんな普通にやっていたりする。そういう日記/エッセイ的な表現って「限界」はないよなーとフト思った。SEEDAが言う「日常の喜怒哀楽の表現」って要するにこういう「日記」のことを指しているのだろう。実に頭が良い。

でも、ブログで日記を書いている人は良くわかると思うのだけど、「何も無い一日」の日記を面白く相手に読ませることは大変難しい。今日の一日は昨日の一日と一体何が違う? 人間関係や政治や戦争に対する自分の考えを日記で表現するにしても、その「考え」って他の人の考えより面白いのか? 多くの人に他愛も無い日記を読ませる「スキル」を持つ人は、何でも無いように見える一つの出来事をさも面白い出来事に仕上げる「視点」と読者を喰いつかせる「文章力」を持っている。それが無いと毎日同じようなこと(飯の献立とか)が延々と書かれているつまらない日記になってしまう。

結局「日記的」な表現というのは、漠然としたテーマを独特の視点で分解するスキルが必要なんだと思う。何年も何曲も同じようなことしかラップしていない人はそのテーマの分解ができていないだけだろうし、逆にありがちなテーマでもハッとさせられるようなリリックを書く人はそれが出来ているんだろう。

"街風"において、刺激的な自分の経験を切り売りする「私小説的」表現から他愛も無い日常を切り取る「日記的」表現に移行していっているところがポイントなのはもはや言うまでもない。ここで重要なのは、リスナーが注目し始めた不良ラップの「リアル」な表現から数百メートルも離れたこのリリックがどのように耳に響くか、というところだ。彼の「スキル」がリスナーの興味をどこまで惹きつけることができるか? 「道を散歩する」ようなリリックがハスリングライフの描写を超えてリスナーを掴むことができるか?

Zeebraの"World of Music"は、前作の"The New Beginning"を更に「改善」し、現在の不良ラップの流れとの一瞬の邂逅を見せる。それゆえ「シーンの内側」へも目配せした「今風のムード」を持つ好盤だけども、そのムードを持っているが故に相変わらず古臭いリリックの「使いまわし感」も鼻につく。同日発売のSEEDAの"街風"とZeebraの"World of Music"を聴いてどちらに軍配を挙げるか、リスナー自身の「興味のスタンス」も個々に明確に別れて顕れるところだろう。「不良ラップから抜け出そうとするラッパー」と「不良ラップのムードだけを纏うラッパー」、リスナーが果たしてどちらに流れるか、興味深いことこの上ない。

(まったくの余談だけど、SEEDAが"街風"で「ポジティブさ」を求める姿勢は、Bossが「闇」を求めていた姿勢と丁度真逆なところが非常に面白いと思った。こうやって対比すると、2人とも自分に「無いもの」をヒップホップへ求めているように見えるのだ)

Sunday, October 14, 2007

微熱メモ vol.4

・「地域」という横の広がりと、「時代」という縦の繋がりへアクセスする労力はそもそもが大変なことだったのだけれども(というか"掘る"という言葉自体が最近聞かないけど、今となってはその単語そのものに"労力"を感じるな…)、その不便さ故に地域/時代ごとに独特な音楽が育まれていたのだろう。その労力をIT技術が微小なものにすればするほど、その「独特な音楽」は地域を越えて時間を超えて私達の耳に入りやすくなってきた。これは前のMINTのレビューでも軽く触れたとおり。

・しかし、それらの「独特な音楽」がネット上にまとめられ、多くの人に共有されればされるほど、その音楽の持つ「地域性」や「時代性」はフラットになっていく。そしてその「フラット化」の現象は実は既にもう起こっているのだなぁと最近身をもって感じている。

・そもそも00年代の音楽の「特殊性」というのは、それぞれの作品が持つ「雑食性」に集約される。例えばまだ「旬(?)」とされているグライムであったり、クランク/ハイフィの中でも、時にNYアンダーグラウンド、ミドルスクールやダンスホール、ボルチモアにチカーノラップの匂いを色濃く感じることがある(勿論、逆も然り)。TacteelやBassnectarやCherryboy Functionといった国もバックボーンも違うようなアーティストが同時期に同じような音を鳴らしたり、おそらく個人的な繋がりは殆どないであろう降神や小林大吾や外人21瞑想が似たような海外ナードラップの雰囲気を醸しだすのは前述のITによる「フラット化」がなければ起こりえない事象だろう。(アンダーグラウンドヒップホップにけるITの重要性は"put em on the map"でのfuma75氏との対談コラムを参照のこと)

・そして、その「フラット化」現象を「集約音楽」の作成ツールとして活用できているのがM.I.A.とTTCであり、コマーシャルな方面へ有効活用しているのがKanye WestやSoulja Boyだったりする。

・Soulja Boyの「売れ方」は一つのモデルケースとして非常に面白い。彼は自分の楽曲に「その時に流行した曲のタイトル」をつけて、MP3で流出した。すると必然的にリスナーはSoulja Boyの曲を「間違えて」ダウンロードして聴く羽目になり、その中でSoulja Boyに興味を持ったリスナーが彼のmyspaceに訪れ、彼の動画をYOU TUBEで見るようになっていったのだ。Mr. Colliparkが彼と契約したときには既に彼のmyspaceは1000万ページビューがあったという。

・基本的に海外(というか特にアメリカ)の音楽は発売前の音源流出が多く、違法ダウンロードの宝庫だった背景もあったせいか、最近では特に音楽を「パッケージとして売るもの」という意識が薄れてきている。寧ろ、自分の音楽を積極的に世間に聴いてもらったり、「他人の面白い音楽を共有する」ことの方にプライオリティが傾いてきている。(その意識が結果的に、PrinceやRadiohead、Nine Inch Nailsの「ライブに来てもらうためにタダ同然で音楽をばらまく」という姿勢や、Danger MouseやA-Trak、その他のDJのMIXのように「自分の知名度を上げるために音楽をばらまく」という姿勢に繋がっていたりもする)つまり、いまの「音楽」は「企業の商品」という形式から「アーティスト本来の活動を支えるもの」という形式に変化を遂げつつある。「"音楽"は"芸術(アート)"」だという言葉を嫌う人は私も含めて結構いると思うけど、この「形式」って実はそういうことなんじゃないか?

・そして、こういう風に音楽が「フラット化」されてくると、「受け手側」(特に批評家)の能力が問題になってくると考えている。なぜなら音楽が「地域/時代/ジャンル」を超越して流動的にフラットになってくると、音楽を「体系的に語る」ためにはほぼ全ての音楽を聴かなければならなくなってくるからだ。1人のアーティストだけ追うならまだしも、「音楽の批評」を書くことを生業にしている人はその人の持つ「ライブラリ」や「アクセス能力」が今まで以上に読者に評価される時代になってきている…。

・…と、これまでSTUDIO VOICE 2007年11月号に感じた「うすら寒さ」の理由について書いてみました。というか、仮にも「批評」で金貰っている人間がアーティスト/DJやバイヤーや一素人の知識や洞察に劣っていたらいかんだろう。兎に角、音楽について何かを書く以上は「幅広く、量を聴く必要がある」ということを自分にも改めて言い聞かせたい。

Friday, October 12, 2007

Soulja Boy - Souljaboytellem.com






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曲によってダンスの振り付けが決まっていて、「そのダンスの面白いから♪」というアホみたいな理由だけで曲がガンガン売れていくシーンを持つアメリカっていう国はやっぱり単純で、ある意味では健全なんだと思う。踊るために音楽があるのか? 音楽があるから踊るのか? などと部屋の片隅で悶々と考える根暗な人種はきっと0.001%ほどもいないのだろう。日本に生まれて本当に助かった。

それにしても、そんなアメリカの懐の広さと腰の軽さを映し出した風潮もしばらく経つと、その熱すぎる「ダンス欲求」のみでシーンが動くようになるのだから恐れ入る。奇抜な発想で「みんなが聴いたことがない」ビートを作るためだけに延々と音をこねくり回しつづける南部ヒップホップシーンで、今そのライン上に位置するはずの若手トラックメイカーが「ダンス熱」に突き動かされて、生みの親を殺すような音を半ば無意識的にクリエイトしているのだ。そして「ダンスがカッコいいから♪」というダンサー達の低偏差値な回答によって、ヒップホップどころか音楽ですらないようなものが次々と産み落とされ、流行りのポップミュージックとして瞬間的に消費されている。まるでお笑い芸人界のようにシビアな世界がここにあった。

その弱肉強食の過酷な生存競争の中で、みごとに頭のネジがふっとんで極限までおかしなことになったのがGotty Boi Chrisの"Dip Low"だけど、そこで代表となっているイケメン・ダンサー/トラックメイカー/ラッパーのSoulja Boy君のアルバムが更にあっけらかんとぶっ飛んでいたので、彼のあまりの若さ(17歳)も手伝って、大いに驚き、ぶっ飛んだ。単純すぎてもうアバンギャルドなのかどうかさえ定かでないSoulja Boy君の「あばら屋ビート」は、ミドルスクールやボルチモアのそれと似たプリミティブな凶暴ささえも持ち合わせている。たとえば、高音と低音を極端に「大げさ」にして強迫的に鳴らすアイデアはTodd TerryとKenny Dopeがその昔Kaosの"Court's in Session"で提示していたものだし、ありえないくらいに簡素で単調なループをひたすら反復させ続ける大胆さはRod Leeのそれをも凌ぐ。小難しいことは抜きにして、快楽的な音色だけを抜粋し、全てを大げさにでっち上げた「パンク魂」炸裂のビートだ。

荒削りで、単純で、エネルギッシュ。正にアメリカらしい「パワー」を持つSoulja Boy君がこれから先に数多のミドルスクールのラッパーの如く消えてしまうか? その飽くなき「ダンス欲求」をクリエイティブな方向に上手く繋げることができるか? これから部屋の片隅で悶々と考えてみようと思う。

Sunday, October 07, 2007

Prefuse 73 - Preparations






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ただのサラリーマンが偉そうに音楽について書き散らかすということ自体が確かにいやらしいとは思うし、金にもならないし数十人程度の人にしか読まれていないのにWEB上で6,7年も書き続けているというモチベーションの出所が不明ですこぶる不気味であることは自覚している。ただ、雑誌を読んでもネットを徘徊しても、つまらない、くだらない、共感できない文章だらけだから自分で作品を整理して納得できる文章を書いているだけ。要は、自分が満足できる文章をひねり出して、自画自賛を繰り返すのが好きなんだ。そして誰かが共感してくれている実感があれば言うことない。

2007年11月号のSTUDIO VOICEみたいな「ディスクガイド」で手抜きのようなことをさもわかったかのように書いているものを見ると唾を吐きたくてしょうがなくなる。(「ディスクガイド」って万人へ音楽を紹介するものだろう?)「M.I.A.がどんな"文脈"にも属さない」ように見えるのはきちんと周辺の音楽を聴けてないだけ。そもそもがGuinessでAtmosphereやAnticonと一緒に並び、Dose OneやDJ Vadimが参加していたTTCの"C'eci Nest Pas Un Disque"はれっきとした「アンダーグラウンドヒップホップ」なのだから、これを取り上げるなら「アンダーグラウンドヒップホップ」をもう少し掘り下げるべきだとも思った。

90年代末から00年代初頭にかけての「空虚感」の話も見事にスルーしているところも不満極まりない。「言いたいことは何もないけど、ガッツリ盛り上がろう!!」という浮かれきった日本語ラップバブルの様相も大いに空虚だけど、あの時期にECDやスチャダラパー、リップスライムにキックザカンクルーが醸しだしていたムードは「いつまで経っても終わらない90年代」という謎のモラトリアムに包まれた「空虚+エレガント=退廃的」という独特なものだった。

そして今思い返せば、そういう時代の「微妙」な空気の中だからこそ、皆が「繊細で、からっぽ」なエレクトロニカを好んで聴いていたのではなかったのかとも思うのである。だから、Prefuse 73の"Vocal Studies + Uprock Narratives"がこと日本で「画期的」だと思われたのは、「ヒップホップとエレクトロニカをリンクさせた」ことより、「ヒップホップをズタズタに切り裂いて、靄をかけた」行為そのものを指しているのではないかと思うのだ。確かにビートもラップも明確に「ドープ」であることが是とされたアンダーグラウンドヒップホップが「アーティスティック」な方向へ流れるキッカケにはなったけども、そんなことよりも「ドープ」が注ぎ込まれた器を意図的にひっくり返してからっぽにした行為自体があの虚ろな時代にマッチしていたのだ。

21世紀になっても90年代がいつまでも続くような錯覚に包まれた00年代初頭。それが「ワールドトレードセンターが崩壊して終わった」とはSHINCOの弁らしいけど、それをまた借りしてもっともらしく言えば03年"One Word Extinguisher"以降、ビートが明確に整理されて、よりヒップホップのフォーマットへ近寄っていく様子は「崩れ去った世界を再構築」しているように見えないことも無い。それは「堅実」だからこそ、作品としてわかり易く、退屈になっていることも理解できる。

03年、日本には「下り坂の入り口」の象徴となる作品が2つあった。MSC"Matador"とKiller Bong "Off & On"。本作"Preparations"ではヒップホップへの歩みを止めて、ビートをもう一度「混ぜる」方向へ行った。"Off & On"よりは全然ポジティブだけども、この作品がKiller Bongのビートに近いと感じさせるところは肝だろう。スコットへレンがこれからコップに何を注ごうとしているのか? この作品の意味はまた後付けで数年後に気付くのだろうけど、「ターニングポイント」としては非常に象徴的で色々考えたくなるほど面白い作品であることは間違いない。