Friday, July 11, 2008

ラップの「上手さ」とは何か? (そして、そこから見るSEEDA ”HEAVEN”と「勝ち負け」のシーンについての一考察)

古川氏と磯部氏を招いた日本語ラップ鼎談。鼎談時から約半年たって、ようやく公開。例によって非常に長いですが、まとまったお時間のある方は是非どうぞ。



微熱:磯部さんに聞きたかったんですけど、NORIKIYOはどの辺が好きなんですか?

磯部:NORIKIYOは一番初めに聞いたときはフロウに幅が無さ過ぎて面白くないなって思ったんだけど、詞を読んだら「この人、ビッコなんだ!」って気付いて。俺は障害者萌えだから、まずそこにグッと来て、しかも「雨で古傷が痛む」とかそれを文学的表現に昇華しているところに感動したんだよね。そこからのめり込んだ感じかな。今でもラップはちょっと退屈だなって思う瞬間もあるけどね。

微熱:トラックも結構退屈ですよね。

磯部:っていうか、TKCも全く同じなんだよね。ラップが一辺倒で、トラックがローファイ過ぎるっていう。その点、NORIKIYOはかかえているブルースが大きいから聴きがいがある。詞がやっぱ面白いかなー。
 だってさ、バックパック一杯にネタを詰め込んで、終電の小田急線に乗ってそれを売りに行くっていう歌詞があるじゃん?あれ、東京と相武台前の位置関係、ひいてはシーンとSDPの位置関係をすごくよく言い表していると思うんだよ。それは、距離もあるし、終電だから後戻り出来ないって感じとか。SDPの存在を一番初めにうまく説明したのが”EXIT”なんじゃないかな。

古川:SDPは”CONCRETE GREEN”以降のギャングスタ・ラップの中心にいるように見えるけど、NORIKIYOのアルバムが出て、TKCのアルバムが出て、これから出るBRON-Kのアルバムを聴くとよくわかると思うんだけど、実は全然一言で括れるようなグループじゃないんだよね。グループの中でさえ捻じ曲がっているところがある。

磯部:TKCはスチャダラを一番尊敬しているっていうくらいだもんね。
 でもさ、SEEDAもインタビューしたら「ある意味、あの時代(90年代半ば)いちばんリアルだったのはスチャ」って言っていたよ。

微熱:スチャダラの影響力はでかいな。

磯部:だから、スチャがあの時代にああいうことを歌っていたのはやっぱり正しくてさ。SEEDAが「スチャはあの時代の子供の平均的な感覚を歌っていた。今の子は軽いノリでプッシャーとかやっちゃう。だから、自分がそれを歌うのはある意味でスチャの意思を告ぐようなものだ」って言っていたのも印象的だった。

微熱:説得力ありますね、それは。

磯部:今までのスチャのフォロワーって文系であることをアイデンティティとしていたけれども、SEEDAはそうじゃなくて、言わば「スチャ的な表現」をフォローしていて、しかも、その立ち位置が90年代とは全然変わってしまっていることもちゃんと知っているんだよね。

微熱:自分の生活に根付いている部分、それ自体が変わっているってことですね。

磯部:だからSEEDAがいつも言うのが「嘘の無いラップをしたい」ってことで。今まではドラッグのことをうたうのはイキガリだったんだけど、SEEDAの場合はちょっと恥がある感じでしょ。「プッシャーなんてやっちゃってスミマセン」っていうような恥じらいがあるのが凄く自然だと思うんだよ。

微熱:でも、”HEAVEN”ってドラッグディールみたいな話は減りましたよね?

磯部:予想したよりあったけどね。もっと減るかな?と思っていたんだけど。

古川:1曲の半分ドラッグディールのストーリーとかもあるからね。

磯部:でもそれよりビックリしたのは「ラップの上手さ」だな。今日の話のテーマとも絡むと思うんだけど。
 SEEDAのラップ上手さってさ、「最近の娘って、足なげーなー!」っていうような「身体能力として全然違う!」って感じがしたんだよね。例えば、MUMMY-Dのラップが上手いっていう「上手い」という感じと、スタートラインからのレベルの差がある。努力して上手くなったっていうのと違って、生まれながらの素質が違うっていうか。

古川:でも、SEEDAは結構キャリアがあるじゃないですか。

磯部:うん。だからどこからか変わったんだよね。『GREEN』とかではそう思わなかったから。しかも、”HEAVEN”では以前の早口ラップが、格段に上手くなって戻ってきた。

古川:”花と雨”以前のラップスタイルが好きだっていう人は、今回のアルバムはかなり好きみたいだよね。

磯部:でも、以前の早口ラップは詰め込むだけでフロウがなかったじゃん。”HEAVEN”では”花と雨”のフロウを残したまま早くしている。4曲目の”Homeboy Dopeboy”なんて凄くビックリしたな。

微熱:”GREEN”の頃とか日本語の箇所でも何をラップしているのか聴いていて全然わからなかったけど、”HEAVEN”はラップは早いけど何を言っているのかすごく良くわかる。

古川:アメリカでもエモいラップが流行っているけど、”HEAVEN”はそういうエモいとこもあるよね。

磯部:でも、あんなに上手い人いないでしょ。俺はどちらかっていうとSLUGとか向こうのアンダーグラウンドにいるエモいラッパーを思い浮かべた。

古川:そうそう。だからアメリカのメジャーにいるエモいラッパーともちょっと違うと思ったんだよね。

磯部:ラップが上手いっていう部分で見ると、世界レベルでも相当上だと思うんだけどなー。

古川:磯部がここでSEEDAを指して言う「上手さ」ってどういう「上手さ」なの?

磯部:「上手さ」ってことに関しては、オレも凄く考えたんだけどさ、例えばギターの早弾きって個人的な趣味では全く感動しないんだよね。むしろギターの下手さに感動するようなリスナー歴をおくってきたから。メタルよりはグランジのほうが好きなような人間だったからね。ダイナソーJrとかソニックユースとかの味のある下手さが好きだった。でも、ラップに関して言うと、圧倒的に上手い人って本当に感動するんだよね。これってなんなんだろう?ってのは思うよ。この辺が核心のような気もするんだけど…。
 「韻」ということに関してはどうなんだろうね?例えば、走馬党、韻踏って継がれてきたような押韻フェチのようなものって若い子たちの中にまだあるのかな。

古川:まだあるみたいだけどね。「韻を踏むべきだ」という考えと、「韻なんか踏まなくていい」っていう考えが今一番ぶつかっている場所はMCバトルじゃないかな。レポートとかでも今年はGOCCHIが優勝してこれからエモいラップが主流になっていくっていうような書かれ方をしていたから。ただ、逆にそれ以外の場所では単なる棲み分けが進んでいるようにも見えるけど。

磯部:BESはどうだったの?

微熱:BESもフロウでおしていたみたいですけどね。

磯部:でも、BESってラップは上手いけど勝てないって状態がいままで続いていたのに、今回これだけ勝ちあがれたのってなんでなのかな?

微熱:私自身は観にいっていないからちゃんとしたこと言えないけど、レポートとか読む分にはフリースタイルの中にメッセージ性とかパンチライン的なヒネりもかなりあったみたいですね。

古川:客のジャッジという面でも韻を踏めば踏むほど盛り上がるっていうようなことだけではなくなったということは聞いたけどね。

磯部:それこそエモいラップをフリースタイルでやりはじめたのって、般若と漢な訳じゃない。02年のMCバトルの決勝戦から今までのフリースタイルにはなかったエモいオープンマイクが一時期流行りだしたんだよね。降神とかさ。

古川:それが一周まわって韻に戻ったんだよ。で、また一周まわってきた。
  韻ってことに関して言うと、MCバトルの上ではライミングが一番客観的な評価基準になりやすい。極端に言えば、ヒップホップに詳しくなくてもゲーム的に評価できる。だからMCバトルが広がっていったときに一番「韻」がラッパーの特殊技能として認知されていったと思うんだよ。

磯部:面白いのが、あまり韻を踏まないラッパーって「アメリカのラッパーもそうだから」っていうような言い方をするんだよね。アメリカのラップはライミングよりフロウを重視するし、お前らがやっている押韻は単なる駄洒落にしか聞こえないっていう理論を持っている人が割りと多いなぁと思った。
 それが面白いなと思うのは、日本にいながらにして「良いラップ」という基準がアメリカにあって、それに拠っていくべきだっていう言い草に聞こえるところ。だから日本語で押韻するのって、裏返せばすごく日本独自の表現なんだなぁって感じがするね。

微熱:確かに「韻をふまなきゃ全然ダメ」みたいな否定って日本でのみ根強いかんじはするな。アメリカのラッパーで韻を踏まない人っているけど、韻踏まないからってそこまで否定されることはないですからね。

古川:アメリカのヒップホップを聴いてこなかった人たちってのが今の日本語ラップリスナーの中にけっこうな層でいるじゃないですか。「JAY-Zの新譜は聴かないけど、アイスバーンの新譜はすごく聴く」みたいな。そういう子たちにしてみれば、フロウの妙味っていうより韻のほうがアクセスしやすいってことなんじゃないですかね。

磯部:その押韻派の最先端って前は韻踏だったけど、今は誰かいるの?

古川:アイスバーンの評価のされ方を見ていると、特にフリースタイルにおいての彼らのブランドはスゴイんだなぁと思うけどね。

磯部:そこが「押韻の砦」だ。

古川:そんな感じはあるんじゃないですか。だからMCバトルでGOCCHIが勝ったことによって何かしらトレンドに変化があるんじゃないかと思うんだけど。
 前にもBLASTか何かで書いたけど、基本的にMCバトルってデカくなればなるほど矛盾も大きくなっていく、色んな価値観を一つにまとめようとするゲームなんだよ。それが臨界点に来るとまたバラける。だからもうあと1、2年くらいでもう一回バラけると思うよ。

微熱:でも、今回の鼎談にあたって色んな大会のMCバトルをビデオで観てきたんですけど、1つの大会の中にも色んなラッパーがいて、彼らの韻やフロウやエモい部分がオーディエンスからその時々によって色んな評価をされていた。だから1つの大会の中だけでそういう新陳代謝的なバランスを取るサイクルは出来ていそうな感じでしたけどね。臨界点でバラけてしまうというよりは。
私がSEEDAの”HEAVEN”を聴いていて意外だなと思ったところって韻をガッツリ踏んでいるところだったんですよ。”花と雨”や”街風”ってあんまり韻の印象が無かった。だからリスナーを飽きさせないっていう面でそういう韻やフロウのサイクルみたいなのって実は”HEAVEN”の中に意図されていたりするのかなぁと。

磯部:インタビューでSEEDAは意外に「韻は大事だ」というようなことを言っていたね。俺がSEEDAに会う前に決め付けていた「新人類」っていうかそれまでの日本語ラップの基準に則っていないっていうイメージよりかはすごくオーセンティックな感じな人だった。アメリカの伝統と日本の伝統の両方を踏まえてやっている人だった。スチャダラのくだりにしてもそうだけどね。

微熱:話変わりますけど、昔からいるラッパーのラップを今聴いてどう思います?

磯部:昔からいるラッパーのラップで「上手い/下手」の基準って、時代に喰らい付いていこうとしているかどうかだと思うんだよね。例えば、SEEDAの”街風”だと、KREVAはすごく上手いと思ったんだけど、BOSSは全く上手いと思わなかった。BOSSは本当にリラックスしてラップしているじゃん。アレはもう完全に出来上がっているラッパーの姿勢だったけど、KREVAは闘争心丸出しだったでしょ。

微熱:スキル比べみたいなね。

磯部:そうそう。だからKREVAはラップも更新しているし、上手いなぁと思ったね。
 ZEEBRAは上手いんだけど、体が追いついていないって感じがしたな。

古川:また「上手い」っていう言葉の曖昧さにからめとられそうになっているけど、例えばライブでZEEBRAのラップを観るとまだ圧倒的だと思うんだよ。だけど、ことさら上手いラッパーとしてZEEBRAを語れるかっていったら多分そんなことも無くなっていくだろうし…。

磯部:じゃあそのラップの「上手さ」って何に言い換えられるんだろう。ギターの上手さって「ギターの神様」みたいにわりかし限界や頂点が決められているよね。それとはラップの上手さって違うと思うんだけど。

古川:違うと思うよ。今、ヒップホップの中でギターの早弾き的な「上手さ」に近づいているのはスクラッチでしょ。非常に肉体性と不可分じゃないですか。指をどれだけ速く、細かく動かせるか?みたいな。肉体を鍛えていくメソッドってそんなに幅があるわけじゃないから一本道の基準になりやすい。だからスクラッチの「上手さ」ってどういうことかっていったら「速くて、細かくて、正確で」で価値観としては皆が共通しやすいし、事実、ある種の世界共通言語にさえなってるわけでしょう? ユニバーサルなコミュニケーションが成り立ってる……けど、ラップの「上手さ」ってどっちかっていうと文章の「上手さ」に近いと思う。文法的に間違っていても、豊かな情感が伝われば「これは上手い文章だね」って通用しちゃうのと同じで、ラップも単に「早くて、細かくて、正確で」では測れないものでしょ。

磯部:その話を聞いていて思ったのは、ヘヴィメタルにおける早弾きの「上手さ」って「速くて、細かくて、正確で」っていう上手さと、ヘヴィメタルのルーツのブルースに起点を持つ「味わい」っていう2方向の上手さがあるってこと。スクラッチも割とそれに近いと思うんだ。やっぱスクラッチってジャズじゃん、皆引き合いに出すのは。だから「速くて、細かくて、正確で」っていう「上昇のベクトル」から降りてしまう人もいる。そうしてみると、日本語ラップって上昇のベクトル―「上手さ比べ」みたいな志向がまだまだ強いし、「味わい」のあるラップというよりSEEDAみたいな「上手い」ラップが支持されている気がする。アメリカだと違うと思うけどね。アメリカは「上手さ比べ」っていうよりかはラップの個性だったり、味わいの面が評価されているからね。
 SEEDAの”HEAVEN”が出たことでそういう「上手さ比べ」が更に加速するような気がしたな。だから、日本語ラップって「個性」が横のベクトルだとしたら、「上手さ」という縦のベクトルがまだまだ突き詰められていないのかもって感じがした。

微熱:今回の話でラップスキルについては私も色々考えてはみたんですけど、ラップスキルって韻だったり、フロウだったり、パンチラインだったり色々な要素にわけることは出来るんですけど、「作品」としてみたときにやっぱりラップスキルだけのものではないからそこで優劣を付けづらいんですよね。作品としてのラップと内容の良し悪しは整理しなければならないと思うんですよ。私なんかはSEEDAの”HEAVEN”はラップスキルという面ではなくて、リリックの内容のほうを重視して聴いていたので、磯部さんの話で「SEEDAのラップの上手さに感動した」という意見は新鮮だったんですけど、主にどういう点が「上手い」と思ったんですか?

磯部:”HEAVEN”はSEEDAが「ラップの上手さ」を誇示したアルバムだと思うんだよね。例えば、早口ラップが戻ってきたというところや、英語のラップの分量が増えてきたところもある。日本語でリリックも書けるし、英語でリリックも書けるし、早くもラップ出来るし、遅くもラップ出来る。ラップのバリエーションが増えた上に、今まで以上に文学的なリリックも書いている。色んなタイプのラップと色んなタイプのリリックを書いてみせたことで、この人は自分が一番上手いんだということを言いたいんじゃないかなと感じた。”花と雨”のほうが逆に老成しているっていうか、とりあえずリリックを聴かせたいんだと思ったけど。

古川:ラップの音楽的な上手さが何によって拡張したり、狭まったりするかというと、ビートの種類だと思うんですよ。ビートの種類が幅広ければ広いほど、色んなラップのアプローチが出来る人は出来るし、出来ない人はそこで実力不足が露呈する。”HEVEAN”の”自由の詩”ってすごく変則的なエモいビートなんだけど、そこでSEEDAはすごい面白いのせ方をしているんだけど、A-DOGは普通のビートへののせ方をしていて…

磯部:オレ、SCARSの中でA-DOGが一番好き。

古川:「上手い」というより「味のある」ラップでしょ?K-DUB SHINEから脈々と受け継がれるような「味で勝負だ!」っていうようなラップ。
 バンドの話をすると、バンドの良し悪しを決定するのはドラムなんだよ。ドラムが上手ければ上手いほどバンドとして出来る曲の幅も広がるし、色んなアレンジも可能になるんだけど、ドラムが下手だと何も出来なくなる。その関係がラッパーとビートの関係に近いなと思っていて、”街風”ってあれだけプロデューサーを揃えたにもかかわらず、ビートの幅があんまり無くて基本的にはストレートなヒップホップ。それに比べると”HEAVEN”はBLとI-DEAの2人だけ……だからこそなのかもしれないけど、めちゃくちゃ色々なビートがあるじゃないですか。ビートが無い曲もあるし、ブルージーな曲もあるしね。だから「ラップのスキルを見せつけたいんだろうな」っていう話は納得する。

磯部:あと、”HEAVEN” におけるSEEDAのラップの特徴にコード感があると思うんだね。
チョイスされているトラックにもコード感があるけど、SEEDAもそれに呼応するようなラップをしている。R&Bっぽい曲も多いし。これもラップの上手さの一つだよね。ラッパーとしてコードがわかるかどうかってコンプレックスの一つだから。”イツナロウバ”以降のKREVAの上手さの理由の一つでもあるしね。アンダーグラウンドからKREVAに対する返答のようにも聴こえたな。

古川:すごく前にZEEBRAにインタビューしに行ったときにZEEBRAがラップの「コード感」の話をしていた。こないだ士郎さんとのラジオ(ウィークエンドシャッフル)で話していたことでもあるんだけど、トラックとキーがちゃんと合っているかっていうのがラップでは重要で、きちんとコードがあるんだよね。

磯部:西洋的な音階と一致するとは必ずしも限らないけどね。西洋的な音階では不協和音でも気持ちいいこともあるし。

古川:そうそう。大事なのはそのコードがその人の中で一定しているかどうかなんだと。例えば、TWIGYは瞬間だけを取ってみるとバックトラックとTWIGYの声はズレている。だけど、TWIGYのコードは一定しているからそれが全体を通して聴くと不協和音でもまとまって聴ける。上手いラッパーはビートへの入りの和音とビートから抜ける和音の位置が一定しているということなんだよね。その間にいくら和音が変わっていたとしても。だからその人なりのコード感が安定している人を上手いラッパーの一要素として聴いているはずだとZEEBRAが言っていたね。
 だから例えばカラオケ屋でラップすると意外と恥ずかしいことが多いじゃないですか。それはバックトラックのキーと自分のコードがまったく合っていないからであって、リズム云々以前に声の音程がまず合っていないからなんだよ。

磯部:要するにビートも鳴っていて、その曲も知っていて、歌詞も目の前に出ている訳だから楽譜はしっかりあるのに、それどおりにラップしてもコード感が無いと上手くは聴こえないってことね。

微熱:いまの話ってトラックが多彩で、ラップにもコードがあればラップだけでみると作品としてすごく楽しめるということですよね。私がラップ単体で面白かったなと思ったアルバムは達磨様の”HOW TO RIDE”なんですよ。韻の踏み方もそうだけど、フロウもスゴく多彩で安定していて、トラックとラップのコード感から生まれるラップの面白さというものを体現しているアルバムじゃないかと思いましたね。

磯部:簡単に言うとラップの上手さって「音楽的な上手さ」と「文学的な上手さ」に別けられると思っていて、「文学的な上手さ」ってさっき言った押韻だったり、パンチライン的な上手さで、「音楽的な上手さ」ってそれとはちょっと違う気がするんだよね。オレはどちらかというと音楽的な上手さに惹かれる。だから、走馬党はほとんどシックリ来なかったけど、韻踏はOHYAやAKIRAみたいな押韻も面白いんだけど、音楽的にも面白いひとがいるというところが好きで。ひょっとするとRHYMESTERがグッとこないのはそういうところかもしれないし、RHYMESTERの中でも士郎さんよりMUMMY-Dの方が面白いと思うのもそこかもしれない。

古川:しかし君はあの人と一緒に仕事しててよくそういうこと言えるねぇ…

磯部:どっちが悪いってことでもないけどね。

古川:オレが「ラップ上手い問題」について考えるときに一番はじめに思い浮かべるのはKOHEI JAPANなんですよ。

磯部:オレはちなみに良いと思ったことは一度も無い。

古川:オレは結構好きだし、あのラップは「上手い」といって差し支えないと思うんだけど、いま技巧的なラップとして若い子達にプロップスを受けているかというとそういう訳でもない。でも、ある人たちからすれば彼のラップは上手いと言われたりもするしね。

微熱:古川さんと磯部さんの意見の違いみたいに、単純にラップのスタイルだけでそういう真逆の反応が出てくる理由が気になりますね。

磯部:この話をしていくと「どっちが良いか?」って話になって良くないことかもしれないけど、例えばアメリカのオールドスクールのラップを聴いていると音楽的な面白さがラップの基にあるのかなって感じがして。トラックの上でどれだけグルーヴし続けられるかっていう。それこそバンバータのライブのブートとか聴いていると、そういうところでラップしているMCはその場のグルーヴを如何に引っ張り続けられるかというところで勝負していて、オレがラップを聴いていていいなぁと一番初めに思ったのはそういう音楽的なところだった。単純に英語が分からなかったからかもしれないけれど。とにかく、そういうスタートだったから、日本語ラップで重視されている押韻という価値観はいまだにいまいちよく分からないね。

古川:さっき言ったKOHEI JAPANの「純ラップ的な良さ」っていうのは勿論リリックだけではなくて…リリックに偏重したものは僕もやっぱりニガテだったりするし。これはオレの傾向なんだけど、フリーキーなラップがニガテなんですよ。TWIGYは天才だということは良くわかるんだけど、どちらかというと自分の好みではない。寧ろ単純な譜割でシンコペートしているようなグルーブがあるラップがオレの中での基準として高い位置にある。だから結構スタンダードなラッパーが好きだし、そういうラップがしっかり出来る人が「上手い」人なんじゃないかと思う価値観がある。日本人で言うと茂千代とか。安定感があってムリしてラップしているように聴こえないようなものが好きなんですよね。

磯部:ここで、敢えて日本から話題をずらしてみたいと思うんですけど、アメリカで南部のヒップホップが流行りだしたときに東海岸の人たちが言ったのは「あれはラップが上手くない」ってことじゃないですか。「歌詞が幼稚だ」ってこととか、「フロウが良くない」ってこととか。でも、ヒップホップとして「勝った」のは南部の方だし、東海岸の人たちが「上手くない」といおうが皆普通に聴いている。それってなんなんだろうね。オレはSOULJA BOYとかめちゃくちゃ好きなんだけど、あれはいわゆるニューヨーク・ハードコア・ラップが築いてきたラップの上手さの基準からは一切外れたものだよね。でも、ヒップホップだったり、ブラックミュージックの面白さからは全然外れていないと思う。歌詞もフロウも稚拙だけど、グルーブはあるし、すごく面白いラップだと思うんだよね。

微熱:それこそSOULJA BOYなんてNAS的な視点で見たら話にならないですからね。

磯部:そう。だから、ラップの上手さを重視する人の言う「ラップの上手さ」っていうのはヒップホップっていう枠組みの中では物凄く狭い範囲の話なのかなっていう。ヒップホップというピラミッドの中にあるもっと小さいピラミッドの中の話なのかなと思う。

微熱:物凄く主観的な価値基準ってことですよね。別の視点で見ると上手くも下手にも見えるっていう。

磯部:「ラップの上手さ」って、SCRIBBLE JAMのヴィデオとか観てると、技術的にはもうこれ以上上手くなりようがない限界まで達してしまっているのかも、とも思うしね。

古川:そして、「上手い」ってそんなに良いことなの?っていう疑問が生まれる。

磯部:そう。それこそギターの早弾きを聴いているような感じ。Busdriverとかさ。
 そう考えるとギターと同じでブルースみたいに「味のある」方向に逸れて行かざるを得ない感じがする。やっぱり「上手さ」ってある程度の限界がある。限界までの競争は面白いけど、皮肉っぽくいえばその先にあるのは「味」っていう横並列の世界――”世界にひとつだけの花” みたいな「みんな綺麗だね」っていうような話なんじゃないの。

古川:もともと音楽であって、スポーツじゃないから単純に「上手い/下手」を問うている訳じゃない。そもそも音楽に「上手い/下手」を持ち込んでいる時点でダブルバインドになっている。本来、エンターテイメント、もっと大きく言えば芸術にとって、「上手い/下手」は「手段」の話に過ぎない。スポーツだったら「上手い/下手」っていうのは優劣を競う「目的」になる。スクラッチが完全に開き直ったのは、「これは音楽以外の何かである」ということがこれ以上ないくらい分かりやすい方向に進んでいって──DMCとかの大会のことね──、未だにずっとやり続けているし、片やそこから逸れた人は音源制作に走ったりする。いまだにスクラッチ・ヒエラルキーの頂点にいるD-STYLESにしたって、Qバートと昔からずっとやっていたのに、Qバートはまだバトル(あるいは曲芸?)の方にいるけど、D-STYLESはもう完全にバトルからは降りちゃった。

磯部:唯一、Qバートは上手さを極めすぎて頭がおかしくなった。

古川:そうそう。音楽か何なのかわからないっていうところまで行って、ギリギリ成立している。でも、じゃあ技術的に上手い映画や文章に皆が感動して、売れるかって言ったら決してそんなことは無い。だから、「ラップの上手さ」っていう話はヒップホップの中でも凄く小さいものだとは思うんだけど。

磯部:「ラップの上手さ」という基準を作って、競争することによって「シーン」を作りたいってことだよね。スポーツだってオリンピックが何故あんな競争をするかって言ったら要するに世界平和のためでしょ?

古川:理念だけで言うとね。

磯部:それがうまく行っているかどうかはわかんないけど、世界中の人と1個の基準を作って盛り上がりましょうっていうことをやっている訳でしょ。だからラップもそうだと思うんだよね。ロックはもう全くそれが成り立たなくなっている。味っていう方向に行くと、それぞれがそれぞれの好きなことをやるっていうことになるんだけど、ヒップホップはただのおべんちゃらかも知れないけど一応「シーン」というものがあって、皆が共同体ですよという意識はある。だからそれを成り立たせるための「上手さ」なのかなという気はする。

古川:さっきも話していたMCバトルっていうのは「1個の価値観に収束させましょう」という装置なんだよね。ただ、それはさっきも言ったとおり根本的にムリがある。色々な価値観がある中で、擬似的に一回その価値観を収束させて比べっこしようぜっていうもので、それが皆の共通認識としてある内は成立するけど、それが段々マジになってくると…。
 B-BOY PARKのMCバトルが失敗したのは、バトルの場があそこしかなかったから、あの場所のステータスが高すぎたためなんですよ。要は本来ムリがあることをしているのに、「これは単なる遊びですよ」っていう感じでやっているならともかく、1位になったらディールが取れたり、負けると本当に悔しくなるっていうのがどんどんシリアスな状況を作っていってしまった。その為に、本来多様な価値観を観て遊べる品評会みたいな空気が失われてしまった。

磯部:そこで飽和状態になって終わっちゃうのかと思っていたら、意外に皆は競争好き。

古川:拡散と集合は必ず定期的に行われるものなんですよ。

磯部:でも、拡散した状態で好きモノが集まっているっていうような状態でもないじゃん。やっぱりULTIMATE MC BATTLEの中でもそれなりの基準――シーンがあってアレに優勝したものが一番優れているっていう感覚はあるわけじゃない。

微熱:いま、他のジャンルの話とかも出ていたんで思ったんですけど、やっぱりヒップホップって「勝ち負け」の音楽なんですよ。「勝ち上がって成り上がっていくものだ」っていう。だから皆、やっている側も観ている側もMCバトルみたいなものは好きだし、それが無くなることは無いと思うんですよね。シーンによって「上手い/下手」の価値観がリスナーに刷り込まれていくっていう話もありましたけど、ヒップホップって勝ち負けの音楽である以上はそういう「刷り込み」は無くならない。そういう風に考えると、今のアメリカだって、東海岸や西海岸や南部でいろいろ価値観も変わってきていますけど、そういう「勝ち負け」の基準って言うのは根強く残っていると思うんですよ。

磯部:アメリカって「ラップの上手さ比べ」は崩壊したと思うけど、「セールスの勝ち負け」の勝負は残っている。だから、セールスを上げていくために何を武器にするかっていう比べあいになっている。

古川:カニエと50 CENTのセールス勝負みたいにね。

磯部:実はヒップホップの中に根強く残っているのは「勝ち負け」であって、「ラップの上手さ」では無いのかもしれないね。

微熱:SOULJA BOYだってあれはあれで勝ち組ですからね。

磯部:MYSPACEを使って、メディア戦略の方向で勝ったわけだね。

微熱:これまでの話から全然外れてしまうんですけど、私はTKCの”百姓一揆”が好きなんですよ。NORIKIYOの”EXIT”ははじめラップとトラックが単調でなんでこれが売れているのか全然わからなかったんですけど、さっきの磯部さんの話にもあるようにリリックの良さに気付いて、今のストリートヒップホップに近い感じが受けているんだろうなってようやく理解できた。逆にTKCを聴いていて私が独特だなって思ったのは、「彼がヒップホップをやっている」ということ自体に関してなんですよ。ヒップホップってさっきも話したとおり「勝ち負け」の音楽じゃないですか。だけどTKCって別にそんなに勝ち負けを重視しているわけでもない。でもSDPというストリートヒップホップに近い、常に勝ち負けを意識するようなところに身をおいていて、勿論「勝ち上がりたい」っていう意識も持っている。そこら辺の自分の環境と自分の意識とのギャップや矛盾が作品に良い形で落とし込まれている感じがして、すごく面白いなって思ったんですよ。

古川: TKCは勝ち負けの彼岸にいるわけではないと思うんですよ。寧ろ勝ち負けに対する意識は彼の内部にたっぷりとあって、その中であえて負けている方を選んでいるというのが、彼の凄く捻くれたヒップホップ的立ち位置になってる。ある意味、ヒップホップの価値観の犠牲者というかね。

磯部:要するにベスト・セラーのタイトルじゃないけど「負け犬の遠吠え」だよ。「負けるが勝ち」ということを彼は作品の中で訴えているわけでしょ。

古川:そうそう。だからそういった意味でいうと、彼は従来のヒップホップの系譜や日本語ラップの系譜に位置していて、そこに僕はすごく親しみを覚えるけどね。

磯部:だから今度オレが書く日本語ラップ本の要になると思うけど、最近よく考えるのは日本語ラップって「新自由主義の権化」っていうか今の世の中の良くも悪くも象徴だと思うのね。
 本当に「勝ち負け」のベクトルで動いていてさ、SEEDAが”HEAVEN”で「オレは勝つんじゃなくてドロップアウトするんだ」っていうことを言っているじゃん?あれもそういうところからくる発想でしょ。「スローライフ」っていう言葉がリリックにも入っていたけど、スローライフって新自由主義の中の一つの選択肢にすぎないしね。

古川:勝ち負けを意識していないわけでは無いからね。勝ち負けを意識した上でやることだから。

磯部:スローライフって元々はイタリアで始まったスローフード運動からきているんだけど、案外新自由主義と結びつきやすい考え方で。

古川:そうそう。だから別に眠たい話じゃないんだよね。

微熱:格差社会って言葉もありますけど、社会全体にそういう「勝ち負け」がしっかり出てしまうような枠組みが作られてしまっていて、その中で勝ち負けの音楽をやるっていうことに対して、TKCの曲の中でもありますけど「あせりを感じつつも自分のペースを守りたい」っていう感覚は同世代としてもすごく共感できるんですよ。

古川:「オラが畑に手を出したら殺すぞな」とか言っているしね。

微熱:しかも鬱になりながら言っているわけじゃないですか。

磯部:だからすごく皆とらわれているよね。彼らが新自由主義者かどうかはともかくとして、そういう枠組みの中でやっているんだなって思う。

古川:でもそれが「今ヒップホップを聴いているな」っていう感覚にもならない?「勝ち負け」という意識が背景に出ている音楽を聴いていると「あぁヒップホップっぽいな」って思うことがある。

磯部:そういう風に思うし、やっぱヒップホップってずっとそういうものなんだよ。”HIP HOP GENERATION”っていう本が今出ているけど、あそこに書かれているような「反アメリカとしてのヒップホップ」だったり「新しい思想としてのヒップホップ」みたいなお題目にオレは結構ひいちゃうタイプで。ヒップホップって汚い部分だとか矛盾があるからこそ面白いものだと思うんだよね。

微熱:あぁそれはすごく共感できるな。

磯部:大体が、アメリカ自体矛盾の国なわけで、最悪な国ではあるけど、今でも世界で一番リベラルな国だと思うしね。オバマとヒラリーが選挙戦で戦うとかそういう国は他に無いから。そういう良い面もありつつ、最悪な面もある。そういう両面を体現しているのがヒップホップで、それは昔からずっとそうだったと思うんだよね。
 日本のヒップホップもきっと同じで、日本という国の最高な部分と最悪な部分を同時に抱えて体現している。オレがダースレイダーの意見に対して最初から今に至るまで賛同できないのは、彼は「ヒップホップこそ未来である」というような言い方をするでしょ。そういう風には全く思えないというか、本当に日本を良い国にしようと思うのなら「ヒップホップなんて聴かない方がいい」とまでオレは思うんだよね。

微熱:今、日本語ラップってすごく面白いと思うんですよ。ラップスキル的な話とは別なんですけど、リリックを今までに無いくらい重視して聴くようになっている。その上で面白いと思うのは、今の日本の社会の流れと日本語ラップの流れがマッチしているからなんですよね。だから彼らが言っていることはよく判るし、実際に身近に感じることもできる。それは今までに無かった日本語ラップの面白さの一つだと思いますね。

磯部:オレが一回ヒップホップから離れた理由として、MSCに対してアンダーグラウンドやインディペンデントな精神を託していたのに、彼らは「成り上がりたい」とか「金を儲けたい」というようなことを実は言うということに気付いたからなんだよ。でもあれから5年くらい経って、実はそういうダメさも含めてヒップホップなんだなと思うようになった。
 D.OのBOOT STREETだとか、SEEDAのディールのやり方とか見ていても思うけど、要はみんな金儲けしたいわけじゃない?金儲けするならインディーでやったほうが金が儲かるからインディーでやっているわけで、やっぱりそのタフさは肯定するべきなんだよ。オレはどちらかといえば左翼だから左翼の綺麗ごとから言えばそんなことは否定しなければいけないんだけど、こんな時代を生きている若者の力強さはどう考えても面白い。

古川:ICE DYNASTYを聴いていると、その若者のタフさみたいなものは感じるね。「金を稼ぐ」っていうことに対して全くけれんみが無い。今の時代のネガティブな空気を思いっきり吸い込んでいるけど、ポジティブな面もあるというか。
 今、話を聞いていて思ったのは、自分の話になっちゃんうだけど小林大吾のこと。彼のアルバムを人に渡す時、「ラップに聴こえるかもしれないけど、ラップじゃないんですよ」っていう説明をしてたんだけど、聴いた人に「普通にラップに聴こえたよ」と言われることが多くて。いま思うとそりゃそうなんだけど、じゃあなんで最初に俺が彼をヒップホップではないと思ったか。今の話を聞いていて、小林大吾は日本社会の中にある「勝ち負け」という価値観からは全く離れているから、「ヒップホップ」のカテゴリの中に入るものではないように聴こえたんじゃないかなぁとは思った。
 オレがヒップホップを聴く中で何を求めているかというと、良いことも悪いことも含めて「今、起こっていること」や「今、感じてしまうこと」を何らかの形で示しているものなんだよ。

微熱:私は2ndの”詩人の刻印”より1stの”1/8000000”の方が好きなんですよ。もっと言えば、”1/8000000”よりも前の曲の方が好き。それは何故かってことを考えていたんですけど、彼のリリックって基本的に身の周りに色々なモノを置いて、リスナーがぱっと聴いて想起できる「空間を構築していく」んですよ、ずっと前から。例えば、ネット上にアップされていたすごく前のmp3の曲(http://www.asahi-net.or.jp/~cq2k-ktn/mp3/daigo.mp3)もそう。リスナーの身の周りに狂った時計を配置して、「箱を探すための空間」を構築している。”1/8000000”の頃まではその空間がすごく寂しくて閑散とした冷たいものだったんだけど、”詩人の刻印”になるとその空間が騒々しく賑やかな温かいものに変わっていた。それまで物体が主に置かれていたのに、色んなキャラクターが配置されて描写される世界が広くなった。これは多分、彼の実生活の変化が影響していると勝手に思っているんですけど、つまりそれだけ「楽しい生活」に根ざした曲になってきたと思っているんです。
 だから、古川さんが言うような「小林大吾の曲がヒップホップに聴こえてしまう人がいる」という話で、前作よりかは”詩人の刻印”のほうに多くなるのはわかる気がするんです。実際すごく音楽的になっていますけど、それ以上にリリックとして身近で、リアルで、実生活に根付いた表現に近くなった気がするんですよね。

磯部:結局、「ヒップホップが聴きたい」というのと、「ラップが聴きたい」というのは全然違うものなのかもね。

微熱:それは最近、常々思いますね。

磯部:ヒップホップって週刊誌を読んでいるのに近いところがあるもんね。音楽的に面白くないと思っても、やっぱりハイフィとか買っちゃうもんねぇ。

微熱:日本語ラップも、リリックをこんなに注意して聴くようになったのは最近ですからね。どんなにラップがへたくそでもリリックを聴くためにラップを聴きますから。

磯部:歌謡曲には別に音楽的な面白さはそんなになかったと思うんだけど、ちゃんとその時代、その時代の空気が反映されていたというか、俗的な面白さがあったじゃない。でも、最近のJ-POPは俗性を排除して、悪い意味での「癒し」みたいなものを、ただの逃避の場として提供しているというか、そこには俗的な面白ささえない。一方で、アンダーグラウンドな音楽は音楽的には面白いけど、やっぱり浮世離れはしているよね。
そういう意味で、「音楽的な面白さ」と「俗的な面白さ」が両立している音楽はなかなかないなと思っていたんだけど、意外に日本語ラップがそれだったんだなということに最近、ようやく気付いて。それが、オレが日本語ラップについてもう一回書き始めた理由でもあるかも。

微熱:いつも思うのが、本当に「勝ち上がりたい」と思うなら、ラップ以外の仕事ほうがぜったい確実。それでもやっていること自体に矛盾があってそこがすごく好きなんですけど。

磯部:AMEBREAKがサイバーエージェントと組むとか本当にわかりやすすぎる図式だからね。新自由主義の象徴でしょ?

古川:君もそこで仕事してるじゃない!

磯部:スポンサーですから。
 でも、藤田社長が日本語ラップ好きとか本当にわかりやすいよなぁ。

古川:こじつけっぽくなるけど…。今の若い子達って言語的な空間にいることが非常に多くなってきていると思うのね。例えば、今ってブログをやっている子がすごく多いじゃないですか。
 で、すごいバカが書く文章ってこれまで読む機会があったかっていうと無かったと思うんですよ。バカは文章を書かないことになっていたでしょ。

磯部:極度のバカは書くけどね。

古川:(笑)そうそう。極度のバカくらいしか書かなかったわけ。でも最近はライトなバカも文章を書くようになっていて、そういう文章に触れる機会が増えたなぁと思っていて。
 よく冷静になって考えると、深夜のクラブチッタとかに100人以上も少なくとも1曲分以上の歌詞を書いている人間が集まっているのって実はとってもおかしなことだと思うんですよ。

磯部:でもラップに関して言うと、だからって何か弊害があるってものでもないと思うけどな。表舞台に出てくる人は上手い人でしかないわけでさ。例えば『恋空』なんてその弊害の極地じゃん。バカが書くっていうか、読み手もバカだしさ。皆バカだからバカが重なってあんなものが一番売れちゃうからね。あれはもう末期症状だと思う。ラップはそれと比べれば芸術の域がまだ保たれていると思うよ。

古川:いや。別にバカが文章を書くことに関しては、悪いとは言ってなくて。むしろいいことだと思ってるけどね。ただ単純に数年前と比べたら若者達が文字にさらされる機会なり空間なりが圧倒的に増えたと思っていて、ひょっとしたらそういう現象もラップの何かとシンクロしているのかなぁと思ったりするんだよね。

微熱:ハスリングしているような文字から遠い連中があんなに文学的な詞を書くこと自体がまず驚きですよね。

古川:それは前に磯部も言っていたし、オレも書いたことあるけど、「絶対この人、漢字とか知らなかったはず!」というような人がすごくグッとくる詞を書いたりするよね。

磯部:それはあれですよ、「無知の涙」ですよ。こんな機会が無かったら文学に触れることなんて無かった人たちが書いているわけだから。

古川:磯部はトコナに関してそういうこと書いていたよね。オレはRINO聴いたときにそう思った。

微熱:SEEDAにしろ、NORIKIYOにしろ、本当に感動するようなフレーズがバンバン出てくるじゃないですか。アレなんなんだろうなぁと思って。『恋空』みたいなケータイ小説のような文章が氾濫して、バカな文章に接する機会が増えてきている中で、あれだけ練られたリリックが書けて、しかもリスナーもしっかり付いていくシステムがよく生まれたなぁって感心しますよね。

古川:『SSWS』というSLAM形式のイベントにずっと係わってきたんだけど、あの場でフリースタイルをやるラッパーが多くてね。5分間フリースタイルをやるわけだけど、バトルでもない、相手もいない、そんな中でフリースタイルをやるというのははっきり言って地獄なんですよ。やっている側も、観ている側も。もう「言うことがない」というようなことを延々フリースタイルしている子が結構な数いて、それは観ているのもツライんだけど、その場で思ってもない面白い言葉がポロっと出てくることが往々にしてあったんですよ。そういう「何か言わなければいけない」というような逆境、もしくは「形式」によって生まれる面白い表現が生まれることがある。「韻を踏まなければいけない」だとか、「面白いことを言わなければいけない」だとか、勝手に色んなプレッシャーを作り出した場でこそ、出来る「面白い表現」というものがあるんだよね。

磯部:『しゃべり場』と逆だね。

古川:アレはしゃべりたいことがあるけど、形が追いついていない。
だからオレはバトルじゃないフリースタイルも好きだしね。あと知り合いの笑い話だけど、彼女と遊びでフリースタイルバトルしていたら思ってもいないヒドイことを言ってしまって彼女を泣かせちゃったというのがあるけど…。

微熱:ははは

古川:だから、「形式」が先導している状態も別に嫌いじゃない。余談だけどね。

磯部:さっきの話に戻すと、『恋空』は社会学的に分析すると確かに面白いんだよ。面白いんだけど、面白さの中で一番勝っている要素は「ヒドさ」じゃない。日本語ラップも世の中の「ヒドさ」は体現しているんだけど、それ以上に音楽的にも文学的にも面白いし、やっぱり普通に「良い」んだよ。だから、この世の中の「ヒドさ」をはからずも体現しているとは言っても『恋空』と日本語ラップは全然違う。

微熱:ヒップホップで勝ち上がってセールスを伸ばしていくために必要なものって「自分の話題作り」だと思うんですよ。で、今までの日本語ラップって実際に注目されるものは大体何かしらの「ドラマ」がある。例えば、”証言”だったり、”人間発電所”におけるBUDDHAの帰国だったり、BIG JOEの投獄だったり。ああいう話って予期せずに出来たものもありますけど、自分から行動して「ドラマ」を身につけていくもので、ある意味でそういう逆境に身を置く「行動力」みたいなものが日本語ラップの表現に深みを与えているのかなって思いました。

古川:「私小説」って日本特有のジャンルと言われるけど、BIG JOEも”証言”も極めて「私小説」的な構造だよね。

磯部:さっき読んでいた坪内祐三の『本日記』で、孫引きになっちゃうから出展は良く判らないんだけど、明治時代の論文で「若い評論家はその作品の持つ芸術性の有無ではなくて、その裏にある政治性で作品を評価するからダメだ」ということが書かれていて、坪内祐三が「いつの時代も同じですね」って書いているんだけど、それを更に物凄く反転して解釈すると、「ラップの場合はその裏にある政治性を読み取らなければ意味がない。だからこそ表現として若くて楽しい」という風に捉えることも出来るかもね。
 いまはまだ芸術性だけでラップを評価できないわけじゃない?どういう文脈で、どういう立ち位置で、どういう人間が発表した作品なのかというものが物凄く大きいわけでさ。それは「表現」としては映画とか文学に比べて未熟だとは思うんだけど、でもそこが面白い。

古川:言い方を変えると、それこそ「シーン」だよね。作品単体では成立しえない、「シーン」という情報網があって成り立つものでしょ。「彼の身にこういうことが起きたらしい」という情報や「彼はこんなに悪い人らしい」という情報が張り巡らされている場所そのものが「シーン」なわけ。そうすると、そのシーンの中にいて作品単体を評価すること自体が逆に不自然じゃないの? やっぱりシーンに多少なりとも触れてる人なら、BIG JOEやMSCのバックボーンの情報は入ってきちゃうものだし、そこを排除して評論するのは不自然でしょ。「シーンに入る」ということはそういう「情報網にアクセスする」ということと同義だと思うな。
 勿論、そういう情報を踏まえて評価するということと、情報を切り離して評価するということは冷静に切り分けてやっていかなければいけないけどね。

磯部:日本語ラップがバブル化してメジャーからアルバムが出ていた時期って、みんな定期的にアルバム出さなければいけないから、1年に1回とか作品が出ていたけど、その前年に出した作品とどう変わっているか?っていったらあんまり変わっていない。その作品を出した理由って契約上の理由でしかないわけだから、どんどん芸術的な方向に偏っていく。「次はどういう表現をするか?」「次はどういう手段で行くか?」というようになっていって、何かに怒っているから出すとか、他のヤツに焦らされたから出すとか、政治的な理由が無くなっていく。RHYMESTERもそうだし、ECDだってそうだしね。RHYMESTERもECDもヒップホップゲームからは降りているから、純粋に音楽的な理由で作品をつくっている。でもそうすると、今話していたようなヒップホップ的な面白さからはズレてきている。やっぱSEEDAとか般若とかそういうストレスフルなところで活躍している人のほうがヒップホップとしては面白かったりするしね。だからヒップホップっていう音楽はそういう政治的な面を面白がるという部分も絶対にあるでしょ。

微熱:THA BLUE HERBの”STILLING STILL DREAMING”って結果的にすごく評価されたわけじゃないですか。それは前の対談でも古川さんが言っていたとおり「北海道という場所にいてドラマが作りやすかった」というところがあると思うんですけど、その後の2NDアルバムを出す前に「海外に旅をしに行く」という行動自体こそがそういう「ドラマ」を身に付けに行く行動だった訳ですよ。彼はヒップホップアーティストとして何かしらの話題やドラマを身につけなければいけないと無意識に思っていて、ああいう行動に出たんじゃないかなと思っているんです。

古川:THA BULE HERBはあまりに圧倒的になりすぎて、肩をならべる仮想敵がいなくなってしまったためにマッチポンプをずっと繰り返していたわけだよね。自らに負荷を与えてそれでドラマを抽出しようとしていたんだけど、でもそれもだいぶ飽和しちゃったっていう印象はある。逆に他人のドラマに利用される立場になったきたよね。「SEEDAは”MIC STORY”でBOSSを完全に殺しに行った」って磯部も言っていたけど。

微熱:本当にそうだと思いますよ。だから”LIFE STORY”の中でも自分で言っていますけど、自分で仮想敵を作ることくらいでしかモチベーションを上げれないという状況はあれはあれで可哀想だと思いますね。
 それに日本語ラップってこれまでBOSSのような「自己肯定」でゴリ押しするスタイルが主流だったけど、SEEDAのような「自己否定」的なスタイルが出てきたせいで単純なセルフボーストはすごく古臭くなった感じがするからなぁ。

磯部:SEEDAの”HEAVEN”を聴いて思ったけど、SEEDAのラップの基となっているのはBOSSとZEEBRAなんだよね。

古川:ほほう。というと?

磯部:BOSSのラップの面白さと、ZEEBRAのラップの面白さが共存しているんだよ。
BOSS THE MCのラップの面白さってわかりやすいから、野田(努)さんみたいなヒップホップ外の人たちが評価したのもすごくわかるんだけど、腑に落ちなかったのは彼らがZEEBRAのラップ――ヒップホップがアメリカからの輸入文化で日本語ラップはそれのモノマネだっていうところを全部自分で背負っているZEEBRAのラップ――を嫌うからなんだよ。SEEDAはそのZEEBRAのラップすらも受けとめていて、BOSSの要素だけではなく、ZEEBRAの要素まで持ち合わせているからオレはSEEDAが好きなんだと思ったね。
 BOSS THE MCやSHING02は両手離しで好きとはいえなかったけど、SEEDAは今までのラッパーの中で一番好きかもって思ったもんね。

古川:日本社会が抱えている「滑稽さ」まで体現しているということね。アメリカという国にどうしようもなく支配されてしまっているのに、そうされていないフリをしている。あるいは、それが意識にのぼることさえなくなっているという。

磯部:西洋のサブカルチャーが好きな人って「日本ってやっぱダメだよね」っていう結論に落ち着く人が多いんだけど、そんなこと言っていてもしょうがないでしょ。でも、その対極としてオタク的な人は「日本の良さ」みたいなことを言い過ぎるじゃん。東浩紀が「おまえら洋楽聴きすぎ」とか言うのってコンプレックスでしかない。そういうのどっちもイヤなんだけど、SEEDAはその両者から否定されてしまうものを両面持っている。

微熱:さっき話していた「韻至上主義」じゃないけど、「日本語でラップしないと意味が無いだろ」というような思想と、「そうはいってもアメリカからの輸入文化なんだから影響受けないわけないだろ」というような思想の両方をうまく内在できているのがSEEDAだ、ということですよね。

古川:日本語ラップにスリルが発生する一つの要素として、「アメリカとの距離をどのようにはかるか?」という部分がずっとあると思っている。やっぱりこれは日本でヒップホップをやる上で絶対に意識をしなければいけないところなんだよね。

磯部:00年代に入って、政治的に世界をリードしてきたのはブッシュだけど、音楽的にはヒップホップだよね。かつてのメッセージ性は拝金主義の権化みたいな形に変貌を遂げたけど、音楽的には文句のつけようがない。音楽が好きな人なら本気でも皮肉でも「面白い」としか言えない。SEEDAはそういった全てを受けとめていると思うけどな。

古川:日本でももう「ヒップホップをやる」っていうことを自然なこととして受け止めているよね。『リンカーン』で中川家のお兄ちゃんがラップしたときのあの会場の反応って、ラップには「上手い/下手」という基準があるという全津で「ラップの上手さ」の話をしていた。10年前から比べると、日本語ラップが格段にスタンダードなものになっている。

磯部:RUN-DMCの前でタモさんがラップしていたころとは全く違うものだよね。

古川:そうそう。でも未だに「日本人がラップをするのは無理だ」という意見も当然のようにある。日本の中のヒップホップでさえも人によって距離感が違うし、アメリカのヒップホップに対しても人によって距離感が全然異なる。アメリカナイズされた日本語ラップを「滑稽だ」という人もいれば、あれこそが「我々の縮図だ」と思っている人もいるし、逆に「自然なもの」として見ている人もいる。

微熱:いまニコニコ動画でラップしている子とかいるじゃないですか。彼らって、いわゆるJ-RAP的な商業的なラップも聴いてきたし、アンダーグラウンドな日本語ラップも聴いてきたような、普通に「日本のラップ」に接して暮らしてきたような子なんですよ。でも、ああいう子たちってアメリカのヒップホップをあんまり聴いてきていないみたいで。そういう人が今後どんどん増えてくると、さっき言っていたような「面白さ」を持つSEEDAのようなラッパーはあんまり出てこないのかもしれないとは思いますね。アメリカナイズなヒップホップと今まで培ってきた日本語ラップの文脈の両方を内在しているラッパーはもう出てこないかもしれない。

磯部:だから、”HEAVEN”の最後の曲が全部英語のリリックだというのが、「いまだにアメリカが上位に立っている」ということを象徴しているような気もするけど…どうなんだろうね?サブプライムローンの話じゃないけど、アメリカの力が弱まっていく中で、僕達が愛するバタ臭い日本語ラップ、USヒップホップの舎弟としての日本語ラップもあれで最後なのかもしれないって感じはする。究極の形なのかもね、アレが。

古川:さっきの東浩紀の話ともリンクするけど、「日本のオタク文化が世界を席巻している」という話があるけれど、「どうもそうじゃないらしい」という話がポツポツ出てきているみたい。アメリカでも日本のアニメのDVDのセールスは落ち込んで来てるらしいしさ。イギリスに行っても「日本のアニメなんかガキのジャンクカルチャーだ」という意識は全然あったりするから、みんなが言うほど日本のオタク文化が優位かっていったらそんなことは無い。ぼちぼちその辺が日本の中でも明らかになっていくと思うんだけど…。

磯部:それは何に移り変わりつつあるの?

古川:どうなんでしょうね?ゲームもアメリカとヨーロッパに完全に負けているからね。日本のオタクカルチャーで世界に誇れるものってだいぶ無くなって来ていると思うんだけど。アニメ離れも進むだろうしね。

磯部:00年代の前半がオタク文化の臨界点だった感じはするからね。文学でもライトノベルが注目を浴びて、オタク的なものがメイン・カルチャーに侵食したのももう限界にきているじゃん。

古川:桜庭一樹が直木賞獲ったしねぇ…。

磯部:まぁでも00年代前半の空気を象徴していたのは、メジャーならお笑いと格闘技で、アンダーグラウンドなら日本語ラップだったと思うんだよね。受け手側の欲望はみんな一緒で「誰が一番なんだ?」ということを知りたがるという。アートの中にエンターテイメントと競争性を持ち込むという意味ではその3つは殆ど同じだと思うね。

古川:そう。他者にコミットする上で大切なのはそのふたつなんだと思うよ。競争性って言い換えれば「物語性」ってことだし、「エンターテイメント性」の中で最も即興性があって瞬発的なものは「笑い」でしょう。日本語ラップにしたって、ディスだとかバトルのような勝ち負けの場でも、競争性だけでは無くて、必ず片側に何かしらの「ユーモア」が含まれていることが大きい。「競争性」だけ、「ユーモア」だけでは限界が出てきてしまう。単一的になってしまうと、価値観がどんどん一つに集約されてしまってつまらなくなってしまうのだけど、理念として「他者へコミットできなければ意味が無い」という意識を持って、その2つが常にお互いに対してチェック―自浄作用を起こすことで、バランス良く他者へコミットできる力を持てるんですよ。だからそういう意味ではその2つの要素を持っている日本語ラップはとても健全なものだとも思うんだよ。

微熱:周りとの「協調」を意識しつつ、勝ち負けのような「競争」のメカニズムがきちんと出来上がって、常に新陳代謝を繰り返しているってことですね。

古川:その中でみんなが共通認識として持っている基準が「ラップの上手い/下手」。だから「ラップの上手さを競う」という価値観がシーンに根付いているのはそういったバランスを取る意味でも良いことなのかもしれない。

磯部:ハードコア・パンクにはそういう競争的な価値観はないからなぁ。オレはどちらかといえば「勝ち負け」っていうベクトルはアートにはないほうがいいとは思うんだよね。例えば、お笑いでいったら「M-1」という価値観が入る前の方が漫才も面白かったから。そういう競争原理に全て組み込まれてしまうと単一化されてつまらなくなってしまう部分は絶対にある。でも、「誰が一番か決めよう!」という欲求が生じるのはとても自然なことだとも思し、その中でも常に抵抗する逆のベクトルは発生するわけだしね。

古川:日本経済の中でも本当のトップ集団は結局外国に行っちゃうわけじゃないですか。

磯部:SEEDAもそういうことを示唆しているよね。「オレは競争からも抜け出す」って。

古川:でも、向かう先はアメリカ。アメリカが持っている利便性というのもそういうところなのかもね。未だに勝ち上がりゲームの行き着く先はアメリカだったりするし…。競争から逃げてもアメリカっていう。

磯部:とりあえず日本語ラップに関して言うと、さっきも言ったとおりまだ「上手さ」は飽和していないから、今後もしばらく競争は続くだろうね。
 
古川:それがアメリカのヒップホップのように飽和するかどうかだよね。まずは。

磯部:”HEAVEN”でまた「上手さ」を追い求める風潮になりそうな気はするけど。

微熱:日本ではヒップホップで勝てている人っていないじゃないですか?経済的な意味で。JAY-Zみたいに一街区を買い取っちゃうくらいの存在は日本にはいないのに、「勝ち負け」のシステムが出来上がっているのが興味深い。

磯部:いまで言えば日本語ラップで一番勝っているのはKREVAなんだろうけど、意外にみんなKREVAを目指していないよね。他のラッパーの子たちはKREVAを意識していないけど、逆にKREVAがアンダーグラウンドのラッパーを気にしているっていう図式になっている。だから、日本のシーンには経済的な競争が意外と持ち込まれていないのかも。

古川:寧ろ逆転している。金を一番持っている人が金を持っていない者を意識している。

磯部:経済的な格差より技術的な格差のほうが重要視されているっていう意味では健全な状態ともいえる。

微熱:でもそれはKREVAの作品の内容のせいだと思いますよ。KREVAのいまの作品って20代OL向けのような作風だから。少なくともB-BOYに向けて作っているようには思えない。だから自分と日本語ラップを繋ぐライフラインとしてアンダーグラウンドのラッパーとのコネクションを持っているような戦略的な意味合いが強い気がします。

磯部:戦略的だし、そういうのを極度に気にする人だからな。

微熱:ラッパーがみんな下層にいる状態で、一人頭が抜けているKREVAが下に目を向けているのは自然なことだと思いますね。

古川:今どんなに売れてるラッパーでも、「上手いラップなんて知ったこっちゃない」って言いきれる人っていない気がする。その上「上手いラップ」というものが実は結構曖昧であるがゆえに、ラッパーにとってそれが強迫観念にも繋がっている気がするんだよね。「オレのラップは上手いラップなんだろうか?」っていう。

磯部:SOULJA BOYは自分のラップスキルなんか全然気にしていなさそうだけど、日本でそういう価値観から自由な人っているのかな?

古川:YOU THE ROCK★なんて、本当は「ラップ下手でも売れているんだからいいじゃん」というようなことを言いたい人だと思うんだけど。

磯部:あの人は気にしているよね。

古川:凄く気にしている人だと思う。

磯部:本当はGAKUとかがそういうところにいくはずだったのに…。

古川:いかなかったですねぇ…。

微熱:結局、みんなはセールスには結び付かないから、技術のほうで勝負するしかなくて、そっちのプライオリティがいやがおうにも高まってしまうってことですよね。その流れにKREVAも巻き込まれている。純粋にヒップホップ的な表現をしていて、しかもそういう「上手さの競争」から逃れているのってRHYMESTERじゃないかな?ZEEBRAは飲み込まれているでしょ?

古川: RHYMESTERはともかく、ZEEBRAは凄くトレンドを意識してるでしょうね。

磯部:そういう意味だと、彼らがいま何を想ってラップという表現をやっているのか重要な気もするけどね。RHYMESTERの”HEAT ISLAND”もストリクトリーヒップホップだったからねぇ。

微熱:いま時点でいうなら、敢えてここで日本語ラップの文脈から外れようって動きはしないと思うんですけどね。BLASTやSOURCEが休刊になったり、レコ屋が潰れていっている中で、逆に内のほうに固まっていく流れが出来ていっているんじゃないかと勝手に思っていたんですけど…。

磯部:…いま店にMISSYのPVが流れていて思ったけど、アメリカのヒップホップってファンクだったり、ソウルだったりのブラックミュージックの歴史に拠り所を求めることができるけど、日本語ラップの場合は日本語ラップの歴史そのものに比重を置きすぎているんじゃないかな。

古川:それは日本語ラップが過去の音楽の系譜と断絶しているからじゃない?

磯部:断絶はしていないかもしれないけど、「日本語ラップからはじまった」という意識の方が強い。そこがキツイところなんじゃないかと思うね。
 ひょっとすると、TIMBERLANDやMISSYがやっているような音楽から考えると、イルリメとかのほうが純粋なのかもしれないね。イルリメは日本語ラップの歴史も意識しているけど、それ以上に過去の日本の音楽の歴史を重視しているし。逆に言うと、いま日本語ラップの歴史に固執している人たちのほうが相当特殊な考え方だよね。こんな若い音楽を「歴史化」するなんてさ。

微熱:「音楽ルーツ」の話で言えば、アメリカのヒップホップはそれまでのブラックミュージックとの親和性が高い分、ソウルやファンクに回帰したようなヒップホップを聴いてもまったく違和感が無いですよね。逆に日本語ラップでJ-POPやテクノやロックにアクセスしている曲を聴くとすごく違和感あるんだよな。イルリメもそうだけど、MCUとか、アルファとか。だから、日本語ラップは他の音楽ジャンルと断絶しているというのは自分的にはすごく説得力がある。ジャンルがミックスされたときに、ルーツで繋がっていれば自然に聴こえるし、断絶していれば違和感が生じるという。
でも、そうだとすると日本語ラップとJ-RAPを普通に並列で聴いてきたような下の世代が出てくると、ゆくゆくは自然にそこも繋がりそうな気もするけど。

古川:その可能性はあるよね。

磯部:例えば、NASに対する日本の幻想って物凄いけど、NAS本人がそこまでストリクトリーヒップホップかというとそうでも無い部分もあるじゃん。TOTOの”AFRICA”をサンプリングした”NEW WORLD”とかもそうだけど、そこまでヒップホップのことを考えていないフシがある。寧ろ、NAS好きの人のほうがそういうヒップホップ像を意識している感じがあるよね。

古川:JAY-Zのラップって、アメリカの中でも相当ユニヴァーサルだと思っていて。例えばヒップホップ・ジャーゴンだったり、ヒップホップ以降の価値観が相当含まれているにもかかわらず、幅広い世代の人に共有されてるでしょ。それはやっぱり黒人音楽文化の流れをアメリカ中でシームレスに共有できているからなんじゃないかな…日本って世代ごとに文化が切れちゃっているじゃない?

磯部:TOKONA-XやSEEDAは日本語ラップを知らない人もわかる良さを持っていると思うんだけど、本人が拒絶している感じもあるし、シーンが拒絶している感じもあるし…。

古川:逆に言うと、50代・60代の人はそこにアクセスできないものだと思い込んでいるところもあると思う。

磯部:「アクセスのしやすさ」っていうとBOSS THE MCがアクセスしやすかったからこそ、ジャンルレスに広がっていった。SHING02とBOSS THE MCは日本語ラップの文脈も押さえているけど、外から出てきたから色んなジャンルの人に受け入れられやすかったという面があるかもしれない。

古川:BOSS THE MCの書く「私小説」は他のジャンルの人にも乗りやすかったということだよね。

磯部:日本語ラップはもともとホコ天の流れとMAJOR FORCEの流れがあって、前者はディスコからの、後者はYMOスクールからの伝統を引き継いでいるんだけど、冷遇されてきた前者が90年代半ばに「逆転勝利」したことで、「自分達が作り上げてきた日本語ラップ」という物語が強調され、それまでの流れとは切り離されてしまったんじゃないかな。
RHYMESTERは比較的「外部の人間と接続しているんだ」ということを打ち出している人たちではあるかもね。ECDやRHYMESTERのような今は本筋から外れた人たちのほうが「外部との繋がり」を意識している気がするな。

古川:本人達の意識としてもおそらく、日本語ラップの中で「上手い」と言われたいというよりかは、あらゆるエンターテイメントやあらゆる音楽と比して「面白い」と言われたいというのがどこかにあるんじゃないですか。
 でも、日本語ラップは外部の評価がジャッジとして入ってこないイメージがあるな。

磯部:オレがZEEBRAの”THE NEW BEGINNING”を執拗に「良くない」っていう理由はそこかな。あの人は外部と繋がってこそ意味があったんじゃないの?っていう。

微熱:でも、そういう日本語ラップの呪縛から一番自由であるはずの日本語ラップを作った世代がなかなかそこから抜け出せない理由ってなんなんでしょうね?さっきの「違和感」の話もそうですけど、きっとそこから下の世代は既に作られたシーンの中でやっているわけだから、なかなか抜け出すことは難しいと思うんですよ。

磯部:「日本語ラップは日本語ラップだ」という風に決め付けているのはいわゆる「さんピン」世代なんじゃないかな。彼らがジャンル外から入ってきたのにも係わらず、「日本語ラップ」というジャンルを成り立たせるために外部との繋がりを遮断したんだよ。YOU THE ROCK★なんて「ハードコアヒップホップの権化」みたいに言われるけど、もともと須永辰緒のボーヤで、しかもMAJOR FORCE直系の人だったわけだからさ。それにも係わらず、一旦外部を遮断してジャンル内の純度を高める作業が90年代半ばに行われたんだよね。

古川:日本語ラップの「冬の時代」と呼ばれている時期がそういう時期だったんだよね。外部へアクセスできないというフラストレーションが、内部の純度を高めるに至った。

磯部:ジャンルの純度が高められることによって、日本語ラップの「ルール」が形つくられるようになった。そのときのコンセンサスとして「押韻」というものがあったのは間違いない。

古川:そういう話しをしていると、TWIGYって昔っから結構自由だったなぁと思うね。AUDIO SPORTSとかさ。

磯部:オレもTWIGYの全作品レビューで書いたけど、あの人こそMAJOR FORCE的な価値観をずっと持ち続けていた人だから。
 …でも、YOU THE ROCK★の”GRAFFITI ROCK 98”なんてのも結構そういう頭のおかしい感じのアルバムだったんだけどね。そう考えると、「さんピン」世代そのものは、「日本語ラップはこういうものだ」と決め付けておいて、実は意外と無茶苦茶やっていたんだけど、その下の世代がお題目の方を真に受けて、日本語ラップのピュアリストになっていったという傾向はあるかもしれない。それこそいま日本語ラップのDJをやっている人たちだとか。

古川:日本語ラップのピュアリストを想像すると、さんピンCAMPの客席の絵面が…。

磯部:STERUSSとかダースレイダーのような「ヒップホップは自由だ!」といっている人こそがピュアリストなわけでしょ。

微熱:じゃあ、そういう呪縛から本当に自由な人っているんですかね?

磯部:サイプレス上野とかは自由だと思うけど、その「自由さ」を打ち出すために、ラップバトルにも出たりして今までの日本語ラップの歴史もちゃんと踏襲していることをアピールしなければならないような風潮はあるかもね。90年代前半にキミドリがやっていたような無茶苦茶なやり方で「ヒップホップです」とはもう言えないだろうね。イルリメだって、日本語ラップシーンからは認められていないわけだから。
 …でも、そういう意味では、サイプレス上野には「不自由さ」を感じるけど、SEEDAには「自由さ」を感じるかな。サイプレス上野は「自由さ」に立脚してルールに縛られているけど、SEEDAはルールに立脚して「自由な表現」をしている感じがする。

微熱:根本的な問いになりますけど、ここでいう「自由」ってどういう状態を指すんでしょうね? SEEDAが自由ってことや、J-RAPを聴いて育ってきたの下の世代がその日本語ラップの枠組みから自由な表現を出来るっていうのはなんとなくわかるんですけど、それこそさんピン世代やさんピンのリスナーだった世代が「自由」だという状態がどういうものなのか想像できない。…ECDが自由だっていうのはわかるな(笑)

磯部:自由っていうか、ECDの場合はヒップホップやる前から音楽をやっていたからそこに戻ればいいだけなんじゃない。ECDだってロックから自由になれるかっていったら難しいわけだから。

古川:あの人はアンダーグラウンドカルチャーから自由になることは出来ないわけでしょう。

微熱:もはやカルマの話だな…。

磯部:だから、別に自由なのがいいとは言ってないよ。不自由な面白さもあるし。
あともうひとつ、「日本語ラップの歴史」を重視しているか、「アメリカのヒップホップの歴史」を重視しているかって別け方は出来るかもね。サイプレス上野はどちらかといえば日本語ラップの歴史を重視しているし、SEEDAはアメリカのヒップホップの歴史を重視している。

古川:「アメリカのヒップホップから日本語ラップに翻訳する作業」というものを考えると、いま日本語ラップをベースにラップをしている人って、その翻訳作業をやっていないわけだから自家中毒に陥りかねない感じはするね。日本での新しい表現というのは、常に欧米文化を参照・翻訳した末にあると思うから。

磯部:”HEAVEN”の中に入っている”MARY MARY”って曲聴いてビックリしたんだけど、さっきまで付き合っていて喧嘩して別れた彼女をビッチ呼ばわりしているんだよね。J-POPしか聴いてこなかった人がこれを理解できるかっていったら理解しづらい曲だと思う。あれはアメリカのヒップホップの文脈を押さえていないと出来ない表現だよね。日本の歌謡曲の文脈からは全く外れている。

微熱:日本語ラップにもないかもしれないですね。

磯部:ないでしょ。アレを聴いて、「この人は本当にアメリカのヒップホップばかり聴いてきた人なんだな」って思った。倫理的には理解できないけど、情緒的には理解できるっていうか。そして、あの曲はすげえ個人主義的な曲なんだよね。彼女がどうこういうよりも、「オレ自身が悲しい。でもオレはオレだし、頑張るよ。」っていうような。バイリン云々以前に、ここまで日本的な価値観から断絶してこういうリリックを書いていることにビックリした。

古川:でも、あの人に日本的情緒が欠けているかっていったらそういうわけでもないじゃん。”街風”とか”花と雨”というタイトル自体が日本的情緒を漂わせているよね。

微熱:あのお姉さんに宛てた曲も死には直接触れずに、情景だけでそれを匂わせていて、その手法自体がとても日本的な情緒に則ったものだと思いましたけどね。

磯部:例えば、ロックンロールが日本に持ち込まれたときに、「それまでの日本的な情緒」に加えて、「ロックンロールによって開放された情緒」というものが若者にもたらされたはずでさ。SEEDAを聴いていると、「ヒップホップによって開放された情緒」というものがあるんだなって思うのね。
社会主義のはずの中国がどんどん資本主義に近くなってきているけど、それを「開かれていくベクトル」として感じるのか、「落ちていくベクトル」として感じるのかは人それぞれだけど、オレはやっぱり否定できないな。アメリカによって開放される側面があるということを。

Saturday, July 05, 2008

6 months into the year

□ 仄暗く模索する上半期10



Lil Wayne
"Tha Carter III"

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Santogold
"Santogold"

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Gnarls Barkley
"The Odd Couple"

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Erykah Badu
"New Amerykah Part One (4th World War)"

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Flying Lotus
"Los Angeles"

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Benga
"Diary of an Afro Warrior"

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DJ Blaqstarr
"King of Roq"

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Cuizinier
"Pour Les Filles Vol.III"

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SEEDA
"HEAVEN"

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北関東スキルズ
"Illakanto Vol.1"

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