Monday, September 03, 2007

日本語ラップのリリックにおける「進化」と「限界」について

古川耕氏を招き、日本語ラップで言われるところの「リアル」であったり、「ストリート」という言葉の意味と、日本語ラップのリリックの「進化」の過程を今までより少し掘り下げて考えてみました。

日本語ラップの「限界」とは?リスナーは何を求めているのか?ラッパーは何を表現するべきか?非常に長いですが、興味ある方は時間を割いて是非。

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●昔に言われていた「リアル」・「ストリート」というもの

微熱:95年くらいから「リアル」だったり、「ストリート」というような言葉は使われているんですよね。でも、今言われる「リアル」や「ストリート」という言葉の意味合いとは全く違う。当時、雷やキングギドラ、それこそRHYMESTERも言っていたと思うんだけど、彼らが言う「リアル」というのはJ-RAP(偽者)に対する「ハードコアラップ(本物)」のこと、「ストリート」というのは「現場」のことがメインで、実はとても楽観的なものなんですよ。「これから盛り上がっていく本物のラップを目撃できるのはココしかない!」というような「日本語ラップの未来」というものに対して楽観的な意味合いがこもっている言葉なんです。これに対して、いまの「リアル」「ストリート」という言葉はもっと地に足が着いている。これから先もどうにもならないような「生活」だったり、絶望的な「境遇」をこれらの言葉で言い表している。

古川:つまり、90年代の「ストリート」というのは自分たちが生息している場所であり、本物の(リアルな)「日本語ラップ」を体験できる特権的な場所だという使われ方をしていた、と。「つまり現場、ココにある」というラインがあるように、ココでなければ観れないし、こういうものが観たければココに来るしかないよ、という意味で「ストリート=現場」という言葉を使っていたんだよね。それに対して、SCARSやMSCの言う「ストリート」というのはどちらかといえば「脱出したい場所」。彼らも「ココに来い」とは言わないし。あと僕ら受け手側も、この10年の社会の変化でだいぶ日本的な「ストリート像」が変わってきたんじゃないかな。「日本にも貧困地区があるらしい」ということや「若者の凶悪犯罪が行われているらしい」というようなメディアの報道を通じて、それまで絵空事のように現実味がなかった「ストリート」が身近に見えるようになってきた。

微熱:実際の生活も変わってきたから、より密接に感じられるようになってきた。

古川:そう。10年前に「ストリート」という言葉を僕らが聞いても、「いや、そんなの日本に無いでしょ」と思ったり、あったとしてもピンと来なかった。でも、今「ストリート」という言葉を聴くと、なんとなくそのストリートで生活している若者の姿やその荒んだ心象風景を受け手側もイマジネーションできるようになってきた。そういう聴き手側の教育のされ方ってのもあるだろうね。

微熱:私はその聴き手側の受け取り方というのが大きいと思っていて、例えば前に古川さんとお話したときに「MSCが好きか?韻踏が好きか?」という話があって、私は「MSCが好きだ」という話をしたのを覚えているんですけど、今の風潮からそういう「ストリート」の風景に共感しているリスナーやラッパーの絶対数が増えているんじゃないかな、と思うんです。

●THA BLUE HERBについて

微熱:日本語ラップのリリックの変遷でターニングポイントの一つとなるのがTHA BLUE HERBの"STILLING,STILL DREAMING"。このアルバムはアメリカのヒップホップにも近いことが出来ているとても「ヒップホップらしいヒップホップ」な作品ですよね。

古川:この作品が出たのは98年だけど、ちゃんと評価されたのは99年なんですよ。だから僕の中では、99年が日本語ラップのターニングポイントと位置付けている。僕も微熱君の言うとおり、当時アメリカのヒップホップのように感じて、THA BLUE HERBにインタビューしにいったときに、「RAKIMのアルバムみたいだ」という話を彼にした。

微熱:これはなんなんでしょうね。ニトロとか東京のヒップホップとは違う、当時の日本語ラップから見ても非常に新しい感じがしたし。「ヒップホップ」ではあるんですけど、「リアル」という言葉とはまた別の、表現としてラッパーの「素」が出てきた作品だと思うんですけど。

古川:僕がまず聴いていて思ったのは、「持っているボギャブラリーが他のラッパーとは全く違う」ということだよね。

微熱:めちゃめちゃカッコいいフレーズが満載ですからね。

古川:そう。めちゃめちゃカッコいいパンチラインがたくさんある。ユーモアの要素を一切入れなくて、難解ではないんだけども、普段は使わないようなボギャブラリーがふんだんに駆使されている。

微熱:その辺は、小林大吾とかの言葉の選びにも近い感じがするな。センスがある詩的なリリック。

古川:そう。一言でいってしまえば「詩的」ということなんだけど、その豊富なボギャブラリーと言葉のセンス、フレーズを生成する能力を使って彼がやったことは、NYアンダーグラウンドの再現なんだよね。攻撃性であったり、セルフボースティングであったり。実はこのアルバムには自己憐憫みたいなところは隠し味程度にしか入っていない。BOSS THE MCほど「詩的表現」というものについて考えさせるラッパーはそれまでいなかったんじゃないかな。

微熱:あとやはり思うのは、それまでの東京のヒップホップというのは、言葉遊び物とかサッカーMC物とか色々あったんだけども、自分自身にフォーカスを当てたものが無かったですよね。札幌に居る自分たちの立ち位置を理解して、その上で自分に「あるものと無いもの」が何かをわかった上で、語りかけているところがそれまでのラッパーとの「違い」。今の「リアル」という言葉とはまた違うんだけど、BOSS個人の「ヒップホップ観」という意味での"素"が出ている。そういう意味では、ラッパーが自分の「リアル(素)」を出すキッカケとなった作品なんじゃないかな。

古川:なるほどね。意地悪くいうと、「自己演出能力」…自分の見てきたことや経験したことをフィクショナルなまでに演出して聴かせる、言い換えれば自分たちを「ドラマ化」して聴かせる能力に非常に長けていたんだよね。あたかも「東京」と「札幌」という物理的・情報的な距離と格差が、自分たちの表現の源である「かのように」演出する能力が高かった。実際のところとしては、彼らがどこで暮らしてようと関係ないほど個々の能力が高かったということだと思うけど。

微熱:そうですね。その「ドラマ化」ということで、日本語ラップの表現のレベル、ハードルが一段あがった感じですね。

古川:それがそれまでのラッパーには足りなかったところだし、更に言うと、その後雨後の筍のように出てくるフォロワーとの違いでもある。フォロワーの「自己ドラマ化」の完成度はBOSSの足元にも及ばない。例えば、THA BLUE HERBの作品を聴いて、個人的にBOSSとコンタクトを取った人の話を聞いても、作品のリリックと本人のキャラクターがほぼ一致しているように見えるって言うんだよ。だから、自分の生活上の立ち振る舞いも含めて「ドラマ化」していると思うんだよね。フォロワーの子たちは、リリックと素の自分が完全に乖離して、単に「スタイル」になってしまっている。

微熱:あと、自分の確固たる「ヒップホップ観」を持っている人ですよね。それが前面に出ているというのが強いのかなと思う。

古川:僕は去年くらいから「ヒップホップを愛したら救われることもあるけど、逆に呪われて大変なことになるよ」という意味で「ヒップホップの愛と呪い」という言葉を使っているんだけど、BOSSに関してはそういう確固たる「ヒップホップ観」を持っているが故に、その「呪い」にまでも首までドップリ漬かちゃっている感じを受ける。3枚のアルバムを聴いていると特にね。あと補足しておくと、彼の「自己ドラマ化」の能力の高さがミクロ的に発露すると、"未来世紀日本"みたいなストーリングテリングの異常に上手い曲が出来上がるし、マクロ的に発露すると自分たちの境遇やストーリーをオーディエンスに共有させることさえ出来てしまう。

微熱:"北部戦線異状なし"みたいに、自分が何処に居て、仮想敵が何処にいて、どういう風に対立させるか、ということを構成してドラマ化できるということですね。

古川:曲単位でも出来てしまうし、自分達の活動にも照らし合わせて見せることも出来てしまう、ということだね。

微熱:あぁそうですね。インディペンデントな実際の活動の中でもね。

古川:ただし、彼らが「辺境地にいた」ということや「アンダーグラウンドな活動をしていた」頃は、自分達をドラマ化しやすい、ある意味とても恵まれた環境にいたわけだけど、その当時に比べ、プロップスを得て、名前も知られ、お金も手に入って、「ドラマが作りづらい環境になった」現在、彼等の作品の質が昔と変わっていったこととは相関関係にあると思う。

●MSCについて

微熱:リリックにおけるもう一つのターニングポイントはMSC。MSCはTHA BLUE HERBの「自己演出」とは全く異なって、そのままの日常の生活を淡々と綴っていったら、結果的に「新宿」というストリートで暮らすことの細部までを聴き手側に見せることが出来てしまった。そして彼等の登場で、そのまま日常暮らしていることを日本語ラップとして表現することが可能になった、そういう作品が世に出てくるようになったという点で一つのターニングポイントなんですよね。彼等はそれまでのラッパーみたいに単に「自分のこと」を表現しただけではない。例えば、BOSSは「地方でラッパーをやっている自分」の考えや境遇を効果的にリスナーに訴えたけど、それはリスナーの生活とは程遠いものだった。逆にMSCは「都心部にいる多くの若者」の持つ鬱屈やイライラを代弁したんです。だから「リスナーの共感」という意味ではMSCに対するものと、BOSSへのものとは真逆。そしてそのMSCの表現した「若者の生活」はそのまま「リアル」や「ストリート」という単語になって、結果的に現在の「社会のムード」にコミットしているんです。
 あと、THA BLUE HERBと違う点として、MSCの中には様々なラッパーがいて、それぞれが自分のスタイルで新宿という街で暮らすことを多角的に描写しているところも、その世界観を強いものにしているのだと思います。

古川:なるほどね。当時磯部(涼)なんかと話をしていて、彼等の存在そのものが「ジャーナリスティック」だという風に言っていたんだけど、彼等が自分たちの生活をレポートするだけで、一つのショッキングな出来事たりうる。THA BLUE HERBがいくら自分たちの生活に根ざした表現を行ったとしても、彼らの「自己ドラマ化」体質によって、どうしても「フィクショナル」なドラマに聴こえてしまう。だから、THA BLUE HERBが「ドラマ的」な面白さだとしたら、MSCは「ドキュメンタリー的」な面白さを持っている。

微熱:そうですね。そしてそれが今回の話の本題に繋がっていくんですけど…。

古川:「ドキュメンタリー」の寿命ってどうなんだ?ってことですよね。ある対象を追いかけていくわけではなくて、自分たちそのものがドキュメンタリーとして成立してしまってるようなアーティストたちは、そのまま活動を続けて「面白い」作品を作り続けていくことは可能なのだろうか?

微熱:うーん。核心に触れすぎるので、その話をする前にちょっとMSCの「ヒップホップ」っぽさというところについて話したいです。というのも、私はMSCの"MATADOR"にあまり「ヒップホップ」っぽさを感じなかったんですよ。周りの仲間と特にやることもないから「表現」をしてみようと思ったら、たまたまそこに「ヒップホップ」があったという感じ。THA BLUE HERBはそれこそ考え方も手法も何から何まで「ヒップホップ」だけど、MSCに関してはそれを全く感じなかった。でも、去年出た"新宿STREET LIFE"には物凄く「ヒップホップ」っぽさを感じたんですよね。そこに違和感を覚えた。

古川:MSC自体は内部でも「ヒップホップ」への距離感がラッパーごとに異なってるんじゃないかな。例えば、元SIDE RIDEのGO、O2、PRIMALはSOUL SCREAMのファンだったと聞いたことがあるけど、一方漢はそれほど熱心な日本語ラップリスナーではなかったと公言している。だから、MSCのメンバー間でも「ヒップホップ」の捉え方や視点は異なっていると思います。
 それから、不良ラップというのも細かくわけると幾つかの「タイプ」があると思うんだけど、その「タイプ」もメンバー間で異なっていると思います。例えば漢は、非常にモラリスティックな、教育的な側面を持っているんですよ。ライブでも啓蒙的なことを即興でラップしたりするし、曲の中でも「この街変えていく」というようなフレーズがある。だけど、O2は逆にアブストラクトな歌詞を書いて、そういう啓蒙的なリリックは書かない。風景がパッパッパと切り替わるような面白さを持つ断片的な歌詞ですよね。
 で、これも今回のテーマと係わることだと思うんだけど、彼等が「アーティスト」として生き残っていくために、そういう「教育的」な方法にシフトしていく必要があるのだと考えている気もするんですよ。だけどそれは、彼らがデビュー時に持っていたヒリヒリするような感覚を手放す、ということでもあるんですよね。


●SEEDAについて

微熱:ここまでTHA BLUE HERBとMSCの話をしてきましたけど、古川さんってこの2組のアーティストのことを日本語ラップの流れで見たときに「地続き」なのものとして感じますか?それとも「バラバラ」なものとして感じますか?

古川:どういうこと?

微熱:THA BLUE HERBは日本語ラップが成熟していけば、いつかこういう「ヒップホップ」としての完成度の高い作品が出てきたと思う。でも、さっき言ったように典型的な「ヒップホップ」っぽさから離れているようなMSCの表現はTHA BLUE HERBがいなかったとしても、いつか出てきたんじゃないかと思うんですよね。

古川:なるほど。それを聞いたからというわけではないけど、あんまりこの2組に関しては「繋がり」は感じないかな。いや、むしろ断絶しているかも。SCARSなんかはかなり「MSC以降」って感じがするけどね。

微熱:SCARSというか、SEEDAに関しては「この2組の後」って感じが凄いするんですよね。それこそストリートでの生活における「ドキュメンタリー」という側面ではMSCの影響を受けている印象を受けるし、過去の体験を「私小説」みたいにリリックに落とし込む側面ではTHA BLUE HERBの表現が過去にあったからこそ出来ている。でも、「この2組の影響を受けた」と一口に言ってしまえば簡単に聞こえるかもしれないけれど、このレベルの作品を作るのは非常に難しいじゃないかなと思うんですよね。もうリスナーは当然このレベルのものを求めていると思うんですけど。

古川:あぁ、それは面白い指摘ですね。というのも、10月に出るSEEDAのアルバムやリミックス曲にBOSSや漢がフィーチャリングされているんですよ。だから本当に繋がっている。もっと言うとKREVAもフィーチャリングされているから、それこそ日本語ラップの「集大成的」なものになると思う。

微熱:勿論SEEDAはラップはとても上手だし、トラックもキャッチーだし、ヒップホップとして聴き易い作品ではあるんだけど、リリックに関してはTHA BLUE HERBやMSCとはもうワンランク違った「凄さ」があると思っています。リスナーが非常に聴き易い形にリリックが落とし込まれているというか…。それこそ「啓蒙的」なリリックであったり、リスナーに訴えかけるようなラップというのをTHA BLUE HERBやMSCは持っているんだけど、SEEDAはそこまでリスナーに押し付けるようなリリックは書かない。リスナーや仲間と肩組むような感じじゃない一歩ひいた視点に新しさと頭の良さを感じます。

古川:さっきも言いかけましたが、不良ラップって、大別すると3つに分かれると思うんです。1つは「誇示型」…「俺はこれだけ金を持っている。これだけ権力がある。これだけ喧嘩が強い」というように自分を誇示していくもの。次に「自己憐憫型」…自分の置かれている境遇を嘆いて、周りに共感してもらう、ある種の演歌的機能。そして最後が「啓蒙型」…「オマエはこういう境遇に陥るなよ」「こういう所からも這い出すこともできるんだぞ」というような教育的なメッセージを発信する。
 この3タイプは順番も大切で(「1.誇示型」「2.自己憐憫型」「3.啓蒙型」)、例えば1から順のグラデーションでアメリカのサグラップの影響度合いを表すことが出来ると思います。アメリカのラップのスタイルが好きな人ほど「1.誇示型」、例えばMOSADみたいな日本語ラップが好きになる。「2.自己憐憫型」というのもある種、アメリカのギャングスタ・ラップの定型になっている。日本の「リリシストMC」にいまだ影響力が強いNASの"ILLMATIC"なんかも自己憐憫な歌詞が多いわけですよね。
 あと、この3つの順番はアメリカのヒップホップから影響濃度を表す反面、一般の人が共感できる度合いと反比例の関係にもなっている。要は、MOSADとかAKIRA、EQUALを一般の人がいきなり聴いて共感することはできないんじゃないか。音楽の一スタイルとしてカッコイイと思うことはあっても、リリックを吟味したうえで好きになるわけではないないと思うんだよね。そういう意味だと「教育型」が一番感情移入しやすくて、一般の人が「ヒップホップ」という概念抜きで共感できるんじゃないかと思う。MOSADを聴くにはヒップホップの教育をきちんと受けていないと理解できない。アメリカのメインストリームでのヒップホップのスタイルを理解した上で、ようやくMOSADのスタイルのカッコ良さやリリックの内容のフィクション性を理解できる。結構、高度なヒップホップ教育が必要なんですよ。

微熱:その聴き方は、ある意味歪んでますからね。

古川:SEEDAの"花と雨"を聴いて思ったのは、「2.自己憐憫型」の色が非常に強い作品だということだよね。特にアルバム後半は完全に「泣き」の曲でしょ。お姉さんが亡くなった話とかね。日本であまり無かった「自己憐憫型」のギャングスタ・ラップを日本人が受け入れやすい「私小説的」な形に落とし込めたんだろうな。

微熱:あとこの辺の流れを聞いていて思ったのは、「自己肯定」と「自己否定」の面でも別けることが出来るということですね。MOSADやTHA BLUE HERBなんかは凄く「自己肯定色」が強くて、SCARSの中でもSEEDAやBESは特に「自己否定色」が強い。MSCが丁度中間くらいかな?「俺イズム」が横たわっていた日本語ラップの中で、SEEDAやBESの「今の俺の生活はロクでもねぇ」というような自己否定的な表現はやっぱり新しいと思うな。

古川:はじめに話していた「90年代では"ストリート"はサンクチュアリだった」というところから、ついに「"ストリート"は脱出すべき場所である」というアメリカのギャングスタラップのスタンダードに日本語ラップも追いついてしまったのかもね。

●ラッパーの視点に見る「時間の流れ」について

古川:前にBLASTの別冊か何かにSEEDAの"花と雨"のレビューを書いていて、微熱君のSWANKY SWIPEのレビューに対する個人的な返答でもあったんだけど、このときに彼等の「時間の流れ」ってどうなっているんだ?ということについて書いたんだよね。特に僕はMSCとSCARSの対比について書いたんだけど、例えばさっき言ったようにMSC…特に漢は教育的な方向に行っていて、若者に向けたメッセージを発信していて、それが彼らのアーティストとしての生命を延ばしていることにもなっているんだけど、この視点って言い換えると「未来に希望を託している」ということで、彼等は「未来」に意識を持っていることがわかる。それに対して、SCARS周辺の子たちの視点に「未来」に対する言及が殆ど出てこない。SEEDAに関しては近過去から現在までの視点が主だし、BESのリリックも「未来」に言及している印象を全く残さない。今度リリースされるNORIKIYOのアルバムもそうなんだけど、この人たちは「未来」に対する希望が全く無いんじゃないかなと思えてくる。現在の「ストリート」ってそんなに暗いものなのか、というイメージを強く残すんだよね。

微熱:いまの日本語ラップを聴くと、大体皆言っているキーワードが「金」なんですよ。いま日本でラップをやっている子たちは「日本語ラップをやりつづけて、将来どうなるのよ?」という意識を少なからず持っていると思う。一昔前に「日本語ラップバブル」があった結果の現在な訳だから、「限界」が非常に明確になってしまっている。ポップな方面でRIP SLYMEやKREVAもいれば、ハードコアな方面でZEEBRAやOZROSAURUS、NITROがいて、ある程度の「到達点」が見えてしまっているんです。そういった意味でも、日本語ラップをやり続ける「希望」が見えないで、「限界」の方に目が行ってしまっている印象は確かに受ける。実際にSEEDAのリリックでも『マイク握ればBig timerでも普段のバイトは吉野家』っていう揶揄があるし、「ラッパーとしてのカッコよさを求める」ということよりも、「ラッパーとして金を稼がなきゃ意味がない」という意識が強く出ている。正にANARCHYなんてそのラッパーとしての「理想」と「現実」のジレンマにがんじがらめになっているのが”ROB THE WORLD”を聴けばよくわかる。
 それゆえ「ヒップホップ」より大切な「金」の話がリリックに露骨に顕れているし、これはアメリカのヒップホップでも普通に言うことだけど、イリーガルなことをやるよりかは「ヒップホップ」を売った方が良いから日本語ラップをやっているんだ、ということですよね。だから「ただのカッコいいラッパー」と「安定した収入があるサラリーマン」になるんだったら、「サラリーマン」になりたいっていうようなことを彼等は普通に考えていたんじゃないかなと、MSCの"MATADOR"の頃から邪推していました。

古川:なるほどね。僕も似たようなことを感じたことはあるな。BLASTの最終号で磯部やハレイワ君と、いまの若いラッパーの子たちって「セルアウトを嫌う」という感覚がだいぶ薄れてきているんじゃないかって話をしたんだよね。ヒップホップ的な手法を使ってお金を稼ぐことは決して悪いことじゃなくて、寧ろ「喜ばれるべきこと」だという考えが強くなってきている。KREVAをフィーチャーする動きを見せたSEEDAが象徴的だけど、7・8年前だったら「セルアウト」だってもっと風当たりが強かったであろうことをサラリとやってのけてしまう。これこそ「ヒップホップでお金を稼ぐ」ということの重要度が高まっていることの一例ですよね。

微熱:「セルアウト」ってことに関して言うと、SEEDAはRIP SLYMEやSOUL'D OUTやTERIYAKI BOYZに対するディスとかやっていて、「ワックMC」に対する攻撃的な姿勢を持っている。だけどここでKREVAを起用できたり、自分から離れたところにいるラッパーやトラックメイカーをフィーチャーできるというのは、それだけ強い自分の「ヒップホップ観」を持っているということなんですよ。……で話を戻すと、いまの20代から40代のラッパーまで一様に「未来への希望」なんてあまり持っていない気がするんですけどね?

古川:ここ数年、僕はラッパーの視点の中に「時間の概念」がどれだけ入っているか?ということを結構気にしているですよ。さっき言ったようにSEEDAやBESはちょっと病的なくらい「未来」に対する視点に欠けているし、これは一般的にも言えることなんだけど、若い子たちほど「ノスタルジック」なものが好きなんだよね。

微熱:え?そういうもんすか?

古川:いや、だってさ、全然関係ないけど"ハチミツとクローバー"って漫画、あれなんて「ノスタルジー」の典型でしょ。あれは2・3年後の仮想未来の自分を通して「リアルタイム」を懐かしがろう、という構造なんですよ。モノローグで「1年後の自分たちはこういう風に笑ってはいないだろう」っていうナレーションが入ったりね。アニメだと新海誠の"ほしのこえ"とか非常にノスタルジックな雰囲気に包まれていて、若い子たちもその雰囲気を懐かしんでいたりする。だから全般的に若い子たちって「近過去」に行きがちなところがあると思う。実際に10年後の未来の自分を想像することは若い子ほど難しいしね。じゃあ、リアルに10年という時間の流れを、しかも前後に渡って見渡そうと思うキッカケがどんな時かっていったら、「子供が出来たとき」なんだと思うんだよね。

微熱:KOHEI JAPAN…。

古川:そう。KOHEI JAPANの"family"はその名の通り「ファミリーアルバム」って一言で言えるんですけど、その「ファミリー」ってところに含みがある。まず「自分は坂間家の次男坊である」という自分の前の世代に対する視点があって、つぎに「自分は2児の父親である」という自分の下にもう一つ「坂間家」というファミリーがもう一つ出来て、自分の子供達の将来に対する視点がある。このアルバムの中に「現在」「過去」「未来」がミルフィーユ状に重なっていて、とても珍しい「時間の概念」を持つ作品なんですよ。
 坂間家の次男坊としてどのように「過去」を過ごしてきたかという話、自分の子供達に将来どういうことをしていきたいかという「未来」の話、そして「現在」の自分の話も勿論あって、非常に綺麗な形で「時間の流れ」を追えるんです。だからもし「大人のヒップホップ」というものがあるのならば、こういう「時間の流れ」を持った作品という物が一つあるのかもしれないな、と彼のアルバムを聴いていて思ったんですよね。

微熱:確かに「未来に対する希望」をもろダイレクトにうたったヒップホップっていうのはあんまりないですね。

古川:まぁユースカルチャー全般に言えることだけどね。

●リリックの「限界」について

微熱:そろそろ今回の話の核心に入って行きたいと思うんですけど、私が「リリックの限界」というものを感じた作品が2つあって、1つはTHA BLUE HERBの"LIFE STORY"、もう1つがMSCの"新宿STREET LIFE"なんですよ。"新宿STREET LIFE"についてはSWANKY SWIPEのレビューでも書きましたけど、私はこれに「未来に対する希望」を感じたんですよ。何気なく仲間とたむろして、新宿の風景を切り取って、絶望していた心象風景とあわせて作り出した"MATADOR"が意外にも大勢の人たちの共感を得て、結果的に彼等に「ヒップホップで金を稼ぐ」ということの可能性を生んだ。絶望していた「未来」に希望が生まれて、「真面目にヒップホップをやる」意思が顕れたのが"新宿STREET LIFE"なんです。古川さんは「オーガナイズ」という言葉を使っていましたけど、より「ヒップホップ」としての完成度を高めていく方向に行った。だけど、"MATADOR"には「未来」に対して「絶望」していたからこそ出来ていた表現があった。そこが"新宿STREET LIFE"には根こそぎ無くなって、結果的につまんなくなってしまったと思ったんですね。私の言う「リリックの限界」の1つはここにあると思うんです。
 さっき「ドキュメンタリー」ってキーワードがありましたけど、自分の身の周りのことを切り取って表現していくにはやっぱり「限界」がある。SEEDAのリリックもそうだけど、「自分の身を削り取っていく」ような表現じゃないですか。自分の過去の経験や今の恵まれていない境遇を切り取って、それを売っていく作業になっている。だけど「過去の経験」には限りがあるんで最終的には頭打ちになると思うんです。同じテーマを何度も「コピー」していくという方法もあるけど、「コピー」が重なると表現としては面白味が減って劣化していってしまう。

古川:なるほど。じゃあTHA BLUE HERBの"LIFE STORY"は?

微熱:日本語ラップの中で意外と多いのが「書けない」というテーマのリリックなんですよ。直接的に「書けない」とは言わなくても、小難しい単語や言い回しを書き連ねてリスナーを煙に巻く手法もその「括り」に含めているんですけど。THA BLUE HERBの作品で私がそれをはじめに感じたのは2ndの"SELL OUR SOUL"ですね。もっと正確に言うと12"シングルの"3 DAYS JUMP"からなんですけど、ここでリリック書くことに対する「悩み」の過程に入った。BOSSは自分探しの旅に出て、旅行先で"3 DAYS JUMP"を書いている設定なんですけど、その曲の中でのBOSSはただ宿泊先でだらだら大麻を吸って、窓の外を見て、ペンを持って寝転んでいるだけ。"時代は変わる"を聴いた後に、BOSSが旅に出て更なる表現の「深み」に達することを期待していたリスナーは、その中身の無さに相当肩透かしをくらったと思います。
 実際、"LIFE STORY"の中で「今まで書けた物が書けなくなった」というようなことも言っていますし、さっき古川さんが言っていたような境遇の変化による「自己ドラマ化」の限界を彼自身感じてきたんじゃないかな。だからSEEDAの持つ「私小説的」な手法については、MSCとBOSSが直面した2つの「限界」があるんじゃないかな、と思うんです。

古川:なるほどね。「私小説的」な手法を持つ人の「限界」がどこにあるか?という話ね。「不良ラップ」とは離れた所にあるから気付かないかもしれないけど、「私小説的なものの行き詰まり感」を一番あらわしているのがスチャダラパーだと俺は思っているんですよ。俺は昔「MSCがやっていることはスチャがやっていることと同じだ」ということを書いていて、それは要は「若者達の見ている風景を、その時代の空気をたっぷり吸い込んだ形で示している日本語ラップ・アーティストはスチャダラパー以来」という意味だったんだけど、当時の等身大の若者の空気を表すことが出来ていたスチャダラパーが自分の生活を切り売りしていった結果、だんだん口数が少なくなっていったんだよね。

微熱:"ドコンパクトディスク"だ。

古川:"ドコンパクトディスク"もそうだし、こないだ出た"CON10PO"も言葉自体が少なくて、散文的な言葉の繋がりしかしていない。もうそういう「研ぎ澄ます」方向にしか行けないんですよ。

微熱:あと、現在のどんづまりの生活を開き直ってひたすらラップしつづけるECDみたいな「結末」もあると思いますけど。私小説的表現の「行き着く先」という意味では。

古川:私小説的なものの「どんづまりの果て」ですね。

●リスナーの「残酷さ」について

微熱:例えば、RHYMESTERみたいに長続きして売れている人を見ても、「自分の生活を切り売りしている」という感じじゃないですよね。彼等みたいなスタイルはヒップホップ的な上に、長くやっていくことができる。ヒップホップとして長く売れていくためには「リアル」というところと別の部分で勝負していくほうが良いと感じるんですけど。

古川:「作品主義的」な方向のほうが長生き出来るってことね。あと、聴き手の意識の部分も大きい。例えば、僕らがMSCが「新鮮」だと感じて、その「新鮮」さが薄れた後にSCARSを「新鮮」だと感じるということは、リスナーの姿勢として常に「カウンター」的なアーティストを求めているということなんですよ。ただ、当の本人たちは「自分たちがカウンターである」という意識をきっと持っていない。

微熱:リスナーがその時期に旬なものを求めていくこともよくわかるんですけど、THA BLUE HERBの" STLLING,STILL DREAMING "、MSCの"MATADOR"、そしてSEEDAの"花と雨"みたいなレベルのものを常に求めているということは、アーティスト側に立ったらめちゃめちゃ辛い…。

古川:とても「残酷」ですよね。

微熱:しかも、自分を切り売りして良い作品を出しても、「3年経ったら懐メロ」ですからね。ネットワーク技術が発達して、音楽の消費スピードが速くなっているし。身も蓋も無い話だけど、いくら今「新鮮」だというように見えても、そっちに行くラッパーが増えれば増えるほど、それだけ「形骸化」するスピードも早くなるし…。

古川:アメリカのMIX CDなんかに顕著だけど、完全に聴き手がイニシアチブを取っている。アーティストの曲の好きな部分だけを抜き出して、大量に並べて、そこから出てくる「ムード」を楽しむ。編集的な聞き方というかね。その行為は、アーティスト個々への思い入れの量を下げていくことだから、アーティスト側に立てば非常に「残酷」なことなんですよ。

微熱:その上で長い間作品を作り続けて、飯を喰っていく…どれだけ大変な話なんだよ!っていう。

古川:そして、そういう残酷な聴き方をしていた人たちがアーティストになるということがヒップホップでは多いわけじゃないですか。やっぱり「ファン」と「アーティスト」の区切りが曖昧なジャンルだと思うんですよ。だから自分たちも元々は「残酷なリスナー」であった訳だし、というより今なお「残酷なリスナー」であり続けているわけだから…よくアメリカのラッパーが「30代になったらラップを辞める」ということを言うけど、それはそういう「ヒップホップは週刊誌的な聴き捨てられ方をする」という意識を常に持っているからだろうね。
 自分の見てきたものや日常生活を、リリカルに、しかも文学的に普遍化していくことは一部の日本語ラップ・アーティストはもう出来ている。それは本当に凄いことだし、そういう作品が面白いのは間違いないけど、でもシビアに将来を見据えてみると、彼らの体験や日常は限られているわけだから、その表現を続けていくことはとても厳しいと言わざるを得ない。アルバム1枚出して、それは凄くいいとして、「でもこの人たち次はどうなるんだろう?」というアーティストは結構いますよね。

微熱:SWANKY SWIPEとかも次どうなるかわからないもんな…。似たようなアルバムは似たようなアルバムでつまらないし。

古川:そういった意味でも、SEEDAが"花と雨"を出した後に、漢やKREVAやBOSSなんかの色々なゲストを呼んでアルバムを作る方向に行ったことは非常に理解できるし、クレバーな人だな、と思う。彼のブログを読んでいると、「早く裏方に行きたい」という発言もしているしね。そういうメカニズムもわかった上で「長くやるもんじゃねえ」と思っているんだと思う。

微熱:「書けるうちに書いとけ」っていう姿勢ですね。

古川:そう。タイミングみたいなものを良く見極めているというか。

微熱:「リアル」にこだわるってのものもなんなんだろうなー?と思うんですよね。

古川:本質的なところですね。

微熱:「リアル」にこだわる必要もないんじゃないかと思う。多分、SEEDAは「自分の人生以外のことを書く」ということをやろうと思えば高いレベルで出来ると思う。もしそういうことが出来るんであれば、寿命はぐっと延びる。

古川:あとBOSSが"未来世紀日本"みたいな曲だけでアルバム1枚作ったら、とんでもないものが出来る気がしますね。

微熱:若干話し変わるかもしれないですけど、BOSSに「不良性」って感じますか?

古川:あんまり感じないですね。

微熱:MSCくらいのときから「不良性」が重視されるようになってきたと思うんですけど、現在の「不良性」ってOZROSAURUSやTOKONA-Xの「不良性」を原点として作られている気がしているんですよね。TOKONA-Xの「不良性」というのはさっきも言っていたようにいわゆる「ラッパーらしいラッパーを演じていく」部分にあるんですけど、逆にMACCHOの「不良性」は「ストイック」な部分にあると思うんですよ。「ありのままの自分」や「ありのままの生活」、「ありのままの考え」を出していくだけでサマになっている。   そういうMACCHOのスタイルがSCARS周辺の子たちに影響を与えている気がする。

古川:SEEDAは「MACCHOに影響を受けた」と言っているし、あながち間違いじゃないと思いますよ。いま流行っている「不良ラップ」の源泉を辿るとTOKONA-XとMACCHOがいるという整理の仕方は間違っていないと思う。少なくとも、ファンの嗜好の歴史を辿っていくとね。

微熱:だけどTOKONA-Xなんか特にそうですけど、「リアル」なラップをしていたわけじゃないから、その辺の「乖離」が気になっているんですよね。

古川:確かに。

微熱:MACCHOもこれから先コンスタントに良い作品を出していくだろうけど、あまり「リアル」というところに執着しているわけじゃない。特に「リアル」に拘っているわけでもないその2人のプロップスが高いというのは何でなんだろう。

古川:それは…何でなんだろうね。MACCHOが持っている「ストイックさ」が魅力になっていることは凄く良くわかりますけど。ヒップホップを外して「不良性」というものを考えると、例えばVシネマ的な「過剰さ」「チープな装飾性」「ウェット」あたりが特徴だと思うんだけど、いまの日本語ラップで尊ばれている「不良性」にはそういう要素が全然無い。より「ストイック」なスタイリッシュでタイトなものが好まれているよね。

微熱:別に訴えかけているわけでもなくて、ただあるだけでカッコいいという感じ。そういう「ただあるものを切り取っていく」というスタイルがSEEDAやBESのリリックのスタイルにも影響を与えている印象を受けます。

古川:でもそのスタイルの先には「リアル」な表現とのバランスによって、「限界」もあるということなんだよね。

微熱:だからこそ「リアル」というところを外せばいいと思うんですけどね。

古川:「リアル」の持つ拘束力って何なんだろうね…。ある種の免罪符なのかもしれないけど。昔は「セルアウト」だったり、「スキル」だったり色々な拘束力があったんだけどね…。

微熱:あと、現在の日本語ラップの「不良性」って一般人に理解されるのかなぁ?と疑問に思うんですよ。

古川:どういうことかな?

微熱:いわゆる「不良ラップ」って、日常生活で行っている「ハスリング」のことをラップするわけじゃないですか。でもそれって、一般人が聴いたら「本当のことだ」と思わないと思うんですよ。普通の生活していたら、ドラッグ売って警察に捕まる話とか絶対想像できない。
 こういうリリックって、数年前の日本語ラップリスナーでも理解できなかったんですよ。YOU THE ROCK★やZEEBRAが「ハスリング」のことをラップしていたわけじゃないけど、彼らが「ハスリング」のことをラップしていても誰も「本当のこと」だと思わないわけじゃないですか。現にSEEDAのリリックって言っていること自体は4年前とあんまり変わっていないけど、4年経ってようやくリリックの内容が「本当のこと」だと理解された感がある。MSCが出てきてからの日本語ラップの流れをきちんと「教育」されている人しか現在の「リアル」を真に受けられないんじゃないかな?SEEDAの”花と雨”を何の知識も無い普通の人が聴いてどう思うのかスゴイ興味ありますね。

古川:いずれにせよ、自分の生活であったり、実体験を切り売りしているだけであれば、ポケットの中味は限られているから無くなっていってしまう。普遍的な出来事を、別のメタファーやストーリーに落とし込んでいったほうが長生きできる、ということですね。

微熱:さっき話で出てきた「アルバム上のBOSSと実際会ったときのBOSSが同じ印象」ということですねぇ。作品と実態でキャラクターを別けた方がいいってことですよね。

古川:最初に「単にスタイルになっている」と言ったの矛盾するようだけど、すごくスピリチュアルなこと歌っていて、でも会うと「いや~金ほしいんですよ~」とか言っている人のほうが長生きできるかもしれない。それがカッコイイかどうかはさておき。

微熱:「ヒップホップなんてどうでもいいっすよ~」みたいなね。で、出すアルバムはずっと1stみたいなノリでね。

古川:何度も言うけど、BOSSが1枚まるまる「フィクション」なアルバムを作ったら、凄いものが出来そうなんだけどね。

微熱:表現をするときに「自分」を中心に置いたらやっぱり短いと思うなー。Akira(MOSAD)とかの方が全然長いと思うもんな。

古川:全然長いでしょ!あと、最近よく思うのは、色んなラッパーが「初期衝動」って言葉を使うけど、ソコに忠実過ぎると本当にどこにも行けない。逆にROMANCREWとかは割とあっけらかんと「音楽として洗練されたい」という意識を持っているから、「良い作品」を作るためなら「リアル」や「初期衝動」に縛られないという意味で長生きしそう。

微熱:やっぱり「オーガナイズ」と「初期衝動」は真逆のものですね。私は「オーガナイズ」って好きじゃないんですよねー。

古川:でも「陳腐化」することが「オーガナイズ」ではないよ。

微熱:いや、例えば"新宿STREET LIFE"は「陳腐化」はしていなくて、寧ろヒップホップとしての「完成度」は高くなっていると思うんですよ。実際、アレを好きな人はたくさんいたようですし、それを否定することはできない。皆、ラップ上手いですしね。でも好きになれない。まぁ、確かに演っている側が「初期衝動」を意識しているのって気持ち悪いですけど。

古川:「初期衝動至上主義」みたいなのって本当に根強いですからね。

微熱:聴き手側もまさにそういう風潮だから余計に危機感おぼえますよね。

古川:ああ、だからスタイル化もオーガナイズも洗練も、突き詰めれば自分たちの表現に客観性を持って接せられているか?ってことかもしれない。音楽はただ、少人数ベースの創作行為なので、客観性を見失ったがゆえに生まれる過剰さや歪さが魅力となることも否定できないから、またややこしいんだけど。

●まとめ

古川:結論みたいになるけど、俺が小林大吾に非常に惹かれているのは、こういう「リアルの限界」みたいな意識がどこかにあるからだと思う。自分たちの生活のリアリティを普遍化して発信するスタイルとはまったく別で、あくまで「作品主義的」に「良い作品を作る」ことに心血を注いでいる。もちろんそれまでそういった作品がまったくなかったとは言わないけど、少なくとも「詩的」という意味では、単純に完成度が低いものが多かった。小林大吾みたいにボギャブラリーが圧倒的で、言葉を選ぶセンスが馬鹿みたいに高くて、当然彼にしたって個人的な体験や生活感がベースになっているんだけども、それが「リアル」ではなくてメタファーやレトリックに落とし込まれている作品が好きなんです。

微熱:「作品主義的」なものを作っているアーティストといえば、他にRHYMESTERとかいますよね。確かに「リアル」なものを追い求めるというよりかは、「作品」として良いヒップホップを作ろうとしている。で、古川さん的には、やっぱり「リアル」なヒップホップには「限界」を感じますか?これから先も色々なアーティストが出てきて、彼等なりの「リアル」が作品に落とし込まれるだろうから、作品それぞれは面白いものがたくさん出てくると思うんですけど、それらのアーティストの行き着く先がもう大体見えている気がしているですよ。

古川:「ショッキングな現実をうたう」ということに関してはSCARSやMSC、D.O.以上の存在はもうなかなか出てこないんじゃないかな。現実が荒廃するスピードが我々の想像を遙かに超えていた場合、それを克明にレポートされたら驚きはするだろう。ただ、方法論としては変わらないよね。行きつくところまでは行ってしまった感はあるので、今度はその揺り返しとしてポリティカルな問題意識やスキル至上主義的なアティテュードが復権してくると思うし、そうあって欲しいとも思ってる。いずれにしろ、「自己表現」というものに捉われてる人が多いけど、表現するべき「自己」って実はそんなにパターンは無いんじゃないかな。

微熱:長く続けるつもりなら「自己表現」というものに捉われるんじゃなくて、もっと視野を広げたほうがいいってことですよね。例えば、SEEDAが言うように「裏方にまわる」という方向もあるだろうし、作品をつくって次に何をやるか?という自分の本来の目的を見失わない方がいい。音楽なんてエンターテイメントである以上消費されるものだし、いくら1つの作品が大切に聴かれたところで、次の作品に繋がらなかったらおしまいだから。

古川:聴き手側の意識の話ってあまりしないからあえて言うけど、聴き手側としては「残酷」な聴き方をしているということにはもっと自覚を持ったほうがいい、これは自分についても当然言えることだけどさ。アーティストの「人生」を面白がって求めて、しかもそれを聴き捨てていくというのは、非常に快楽的だけど、「残酷」だと意識はあってもいいんじゃないかと思う。

微熱:ただリスナーがそういうものを求めるのは、とても理解できるんですけどねー。しかも、そういうところって変えようと思っても変えられないじゃないですか。

古川:そうですね。だから、アーティスト側はそういうリスナーを相手にどうふるまっていくか?というところをもっと真剣に考えていったほうがいい、ということです。

(END)

3 comments:

たかおか said...

http://www.youtube.com/watch?v=ySDCc6IEDlw
http://www.nicovideo.jp/watch/sm989238
d.oがテレビに出ましたね。
これでリスナーが増えたら面白いかも。

微熱 said...

「"セルアウト"の意識が薄まっている」という話の一端ですかね。

でも私もTVで見てましたけど、あれでリスナーが増えるとはとても思えないな。というか、最近「リスナーを増やす」とか「シーン全体を活性化する」という意識がなくなってきている気がする。

寧ろ、「自分や仲間が金もうけできればいい」という意識のが強いんじゃないか。

微熱 said...

コラムの「●MSCについて」の冒頭の微熱の発言に追記しました。結構重要だと思うのですが、きちんと書けていなかったので。