Wednesday, June 06, 2012

コンシャスラップの季節 ~2012年5月の2つの作品~

2012年は"コンシャスラップの季節"とでもいうか、3.11を意識した政治的なテーマの色が強い作品がいろいろと出ている(このブログでも取り上げたSALU、SNEEEZE、田我流なども含めて)けども、この手のトピックの扱い方1つでそのラッパーの本質があらわれてくるのが非常に興味深い。勿論、それはベテラン勢の作品にも同じことが言える。


■THA BLUE HERB - TOTAL







THA BLUE HERBが日本語ラップ史に名前を刻み、その後多くのラッパーに影響を与えた1stアルバム『Stilling, Still Dreaming』。このアルバムがこれほどまでに大きな作品になったのは、シーンの中心(東京)から遠く離れた地方(北海道)で活動することのフラストレーションが表現の力強さの源となって、THA BLUE HERBという無名な地方のグループが"東京のシーンに対峙して闘う姿"はリスナーへ共感を産むものになっていたからだろう。

しかし、『Stilling, Still Dreaming』がシーン内外で高い評価を受けて多くのリスナーに受け入れられていくにつれて、"認められないことへのフラストレーション"や"東京のシーンに対峙して闘う姿"をあらわすようなラップの色は薄れていき、その一方で濃く浮かび上がってきたのは"THA BLUE HERBが志向するヒップホップ/ラッパーの理想像"だった。楽曲の中身はその "理想像 "を追求していくTHA BLUE HERBの意気込みと、その"理想像"に近い自分達は優れた表現者だというセルフボースト、"理想像"に当てはまらないラッパー/作品は「異端だ」と言ってのけるような原理主義的な(BOSSの言葉で言い換えると、"シャドーボクシングをしている姿"が延々と映し出されているような)ものへと変わっていった。

その"シャドーボクシングをしている姿"が描かれていた2nd、3rdと比較してみると、この4枚目のアルバムとなる本作『TOTAL』は、非常にわかりやすく、共感しやすい内容になっている。ここでうたわれているのは、たとえば「時代の流れで音楽の売上げが落ち込んでいくなかで持つ覚悟」("LOST IN MUSIC BUSINESS")であり、「変わっていく周りの評価のなかで感じるフラストレーション」("MY LOVE TOWN")であり、「シーンで勝ち続けることの重圧や、周りに才能のあるラッパーが次々と出てくることに対する重圧を跳ね返そうとする意気込み」("EVRYDAY NEW DAWN"、"THE NORTH FACE"等々)だったりする。

この『TOTAL』の構図は、『Stilling, Still Dreaming』と近い。THA BLUE HERBは 『Stilling, Still Dreaming』でかつて彼らが立っていた"東京のシーンから遠く離れた地方"を、『TOTAL』で"音楽不況"や"才能のある若手が出てくるシーン"というステージに変えて、『TOTAL』のなかにいるBOSSを『Stilling, Still Dreaming』と同様に"リング(逆境)のなかで闘っている姿"へと仕立て上げる。

そして、3.11のトピックも本作では大きい意味を持つ。『TOTAL』では3.11のキーワードがところどころに散見される程度(3.11に関連するテーマをそのままうたったものは、先行シングル曲" HEADS UP "と特典曲 "NUCLEAR, DAWN "くらいで 、アルバム全体を覆うほどではない)だが、これらのキーワードがさらに本作にひねりを与えて、わかりやすいものにしている。

つまり、BOSSが3.11のキーワードをスピットしながら、自分自身の闘っている姿をそこに重ね合わせることで、"3.11以降の社会"は日本に生きる人間にとって闘って行かなければいけないステージであることを思い起こさせる。嫌な言い方をすると、"3.11以降の社会"をBOSSの"リング(逆境)"に置き換えているのだけど、日本が抱えている問題に対峙して"闘う姿"を示す『TOTAL』は、いまの世の中で"闘っている人"や"闘おうとしている人"、あるいは"フラストレーションを抱えている人"にも響くような、ともすれば『Stilling, Still Dreaming』以上の普遍性を持ってリスナーに共感されるポテンシャルを持つ作品だろう。

■D.O - The City Of Dogg






D.Oの4作目『The City Of Dogg』も同じく、3.11をキーにした特徴的な作品だった。

まず本作に触れる前に、前作『ネリル&JO』を振り返って聴いてみると、大麻取締法違反でD.Oと共につかまった鈴川真一(元力士・若麒麟)がゲストで登場してくるところだけでなく、牢屋のなかで恋人と手紙のやりとりを行う曲や、裁判のなかで抱えていた葛藤を表現した曲等々、D.Oの身に降り掛かったいざこざがアルバム全体のテーマに大きく影響を与えていることがわかる。 すなわち、あの事件がD.Oに突きつけた"世間の常識 "という、D.Oにはハマれない世の中のルールに対する違和感と、そんなルールより自分自身が正しいと思うことを貫こうとする姿勢がこのアルバムの軸になっている。


"I'm Back"

『ネリル&JO』で描かれているこれらのテーマが、ラッパーの持つ"シリアスさ"と"エンターテイメント性の高さ"を如実に顕すギャングスタラップというフォーマットを通して、いかに受け取ることができるかはele-kingに公開された磯部涼のレビューに的確にまとめられているが、やはり、1stアルバム『Just Hustlin' Now』から、事件により発売が中止された2ndアルバム『Just Ballin' Now』へと順に聴いていくと、雷の系譜のボースティングのなかでところどころ顔を見せる言葉("良い悪いはいつ誰が決めた?"、"誰がつくったか知らねぇマヌケなルール"というような)が「ネリル&JO」以降、特別な意味をもっているように聴こえてくる。きっと例の事件が起こる前から"世間の常識"と"自分自身の常識"の間に横たわっている溝は、D.Oにとってラップのテーマになるものだったのだろう。

"N-WAY"

"イラナイモノガオオスギル"

先の『ネリル&JO』のレビューが2011年3月11日に公開されているというのもどこか皮肉なものだけども、そもそも『ネリル&JO』のリリース時点では次に世に出てくるはずの作品は『Just Ballin' Now』のはずだった。しかし、3.11を経て発表された作品は『Just Ballin' Now』ではなく、EP『イキノビタカラヤルコトガアル』とアルバム『The City Of Dogg』だったことにはおそらく大きい意味がある。

『イキノビタカラヤルコトガアル』は"命がけでサバイブしている兄弟たちへ、未来ある子供たちへ、無責任な大人たちへ"のシャウトからはじまり、原発問題で苦しんでいる人たちへ視線をなげかけながらラップが続いていく。そして、それは↓の"イキノビタカラヤルコトガアル"のPVでも聴くことのできるフックのフレーズのように、D.Oの経験を重ねてラップされているものだからこそ、単なる3.11以降の社会へのメッセージソングではない、D.O独自のメッセージソングとして強い輝きを放つ。

"イキノビタカラヤルコトガアル"

続いてリリースされた『The City Of Dogg』でD.Oは『イキノビタカラヤルコトガアル』の"3.11以降の世界"のうえで更にトピックを広げ、ハスリングでサバイブしていく悪党のストリートライフをうたっていく。もちろん、そのラップの主軸は"自分自身の常識"以外は信じられなくなった世界と、その世界に対峙する悪党(ラッパー)の姿勢について。

「コミュニティに向けたラップは怒りなんかに満たされるはずはなく
ラッパーはそれを表現する必要がある
誰でもがそのラップのうえでラッパーのカードをチェックできるように
誰かがそいつの上にあるカードを引っ張りたいと思えば
いつでも示して証明できるようにしておくのが本物のラッパー」("BAD NEWS")

「支離滅裂の例え話 説明もできないバカな大臣 ウソばっかり言う大人たち あれは会議という名の茶番劇
イイ 悪い 間違い 正しい 騒ぎをおこすヤツはみんなおかしい だまってこのまま死んでほしい そう聞こえてきそうなお上の動き」("BAD NEWS")

「イカれてるのは世の中の方 よく見てみろよオレじゃないだろ?」("bye bye")

3.11以降に突きつけられた"世間の常識"の正体。それは、私腹を肥やそうとする人間の傲慢さ、それを野放しにしていた人間の無関心さ、罪や責任から逃れることに必死な人間の身勝手さ、正解が何かもわからない情報を垂流す人間の無責任さ、垂流される情報におどらされる人間の浅はかさ。悪党D.Oが自分のイリーガルな面をさらけ出してみせるのと同時に3.11で出てきた日本の問題をえぐり出してみせることは、悪党のレッテルの横の"世の中の常識"の底に潜む欺瞞をえぐり出してみせることと同義なのだ。