Friday, January 04, 2008

2007 juked and observed

□ 2007年 定点観測15
ベスト的側面と観測的側面をあわせもった万能リスト



El-P
"I'll Sleep When You're Dead"

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「あらゆるジャンルの音楽を自分流に咀嚼して吐き出す」という面で、M.I.A.やTTCと同じ方面にいるはずの人だけども、「我」の強さにおいては他の追随を一切許さずはばたいているので、結果的に誰もいない座標に独りポツンと位置していた。とことん煮詰められた作品の核に「ミドルスクールヒップホップ」が根強く鼓動を打っていることを確認できるだけでもヒップホップファンに大きな安心感を与えてくれそうだけども、反面、模倣すら困難なこの作風には誰もついていくことはできないだろうという不安な気持ちにもさせてくれる。おそらく、この先にも後にもEl-P以外誰もいない。究極のオリジナリティ一点突破作品。




Burial
"Untrue"

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グリッチ・ノイズを嫌い、エレクトロニカは全てゴミだと言い切る。Basic ChannelもPoleもUK的なヴァイブスがないからというだけで嫌う排他的で視野狭窄なUK至上主義者の音楽がなぜこうも支持される。雨の音、ライターの音から、ヴィン・ディーゼルの映画、メタルギアソリッドで銃弾がコンクリートに当たる音などなどをシーケンサーも使わずに波形で貼り付けていく。インターネットも特にはせず、自分の生活圏に入ってこない音は一切自分の音楽に取り入れない。純粋にイギリス的な音楽の意思を亡霊のように紡ぐ行為が雑食的な音楽が当たり前な世の中で気高く映る。




soso
"Tinfoil on the Windows"

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去年聴いたカナディアンナードラップはそのルーツを辿ることができなくなるくらい異形に進化していてどれも大変面白かった。しかし、確かに面白いことは面白いのだけども、もはや異形すぎていまやその聴き手の顔が一切わからないというなんともいえない不気味なオーラをも身に纏っていた。そんな中、「静かな狂気」という言葉が似合う前作"Tenth Street and Clarence"の「到達点」を軽々しく突き破り、その世界を塗り固め続けているsosoの孤高で高潔な姿勢を見て、畏れと恐れを抱かないはずがない。彼の音楽の先に広がるのは異界、聴き手の正体は不明。これはまさしく「ホラー」だ。




UGK
"Underground Kingz"

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[UGK濃密度UGK]




M.I.A.
"Kala"

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「使い捨てで、海賊版的で、移民的。」というM.I.A.の言葉以上にこの作品をうまく言い表せるスキルがないのが残念でしょうがありません。00年代のヒロインはこれから先も辺境に立ち上る音楽を貪り喰い、自己破壊と自己再生を繰り返すことでしょう。そのサマはまるでインフルエンザのウイルスのようでもありますが、辺境音楽をポップに昇華してリスナーに感染させるという意味においては言い得て妙かもしれません。




Prefuse 73
"Preparations"

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TTCにしても、Jay-Zにしても、El-Pにしても、このPrefuse 73にしても、サイトが出来た当初からずっと何かを書き続けている気がする。要は、時間の流れと共に音楽の主流が変わり、ヒップホップも相応に変化しつづけているけども、これらのアーティストの作品の「軸」は全くブレていないのだろう。うわべの音楽(器)やそのムードやリリック(中味)が時流に合わせていかように変化しようとも、自分自身の「音楽観」と何の為に音楽を作っているかという「目的意識」がブレていなければ、聴き手に対してファーストインパクトをずっと維持して与えつづけられるということなのかもしれない。振り返ってみれば"Vocal Studies + Uprock Narratives"からだいぶ遠いところにたどり着いた感もあるけども、その「軸」はブレずに更に先の道へ続いていることが感じ取れるはず。たとえその道が「ヒップホップ」から離れているように見えたとしても。




Jay-Z
"American Gangster"

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ハイパーセレブビューティフルプレイヤースーパースター。ヒップホップにまつわるある種のプロップスは「ストリートたりえる」ことで手に入れられることに気付いたJay-ZとNasはその後競い合うように「ストリートっぽさ」を加味したアルバムをリリースするようになりました。しかしともすれば、「ただタイトなだけ」の退屈な作品になってしまうところへ忘れずに煌びやかな装飾を施すこのサービス精神とバランス感覚はやはり一流のわざと言えましょう。このダウンロード時代にあって、身の回りに転がっている曲を詰め合わせて出来合いのアルバムを作るのではなく、ごく短期間で一貫した作品コンセプトを明確に打ち立てて、良曲をピックアップし、曲数を含めてコントロール出来ているのは、彼のアルバムを「作品」として聴くリスナーの姿がきちんと見えている証拠であり、すなわちJay-Zこそが正真正銘のヒップホップクリエイターだということの証明でもあるのです。




Kanye West
"Graduation"

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往々にして人は何かを得るためには別の何かを捨てなければならないケースがままある。両方とも救ってみせる! という幼稚な態度は少年漫画の主人公にのみ許された特権だけれど、エゴが肥大化した今のカニエ先生のスーパースターぶりは少年漫画の主人公などとっくに凌駕しているので平気で全てを救ってしまう。どさくさに紛れてNas, KRS-One, Rakimとともに"Classic"に参加し、Commonのアルバムの大部分を荷うヒップホップの良心としてのポジション、50とバトルして一週間に90万枚を売り上げる商業ヒップホップのど真ん中を背負うポジション、myspaceや海外のブログで大人気のKid Sisterのシングルにめざとく参加してしまう(というかFool's Goldのオーナーが自分のバックDJだ)新しいもの好きなミーハーさ。どう考えても矛盾した八方美人的な立ち振る舞いを捨てる気はさらさらないどころか、どのポジションの人にもアピールできるエクレクティックな音を提示してしまうので、アルバム一枚延々と「俺はすごい」としか言っていなくとも、たしかにすごいよと誰しもが納得してしまうのだろう。




TTC
"3615 TTC"

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よく考えたらメンバー6人中4人もトラックを作れるという時点で何かがおかしい。ATKやKlub Des Loosersからメンバーが電撃移籍! とかメタルバンドじゃあるまいし。




Durrty Goodz
"Axiom"

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そもそもグライムの美しさとは何の音楽的バックグラウンドもないティーネイジャーが人生の中でわずか数ヶ月だけ熱心に音楽を作ってはやめていく儚さの中のエネルギーの発露にあるわけで、クレジットもあやふやな音楽がMP3として霧散していくアートフォームに「音楽的完成度」は無縁のものだった。だからこそ、今日までまともにCDとして作品化されたものに名作はほとんどなく、あったとしてもWileyやSkeptaのように失くしたグライムの歪さをUSヒップホップで補ったものか、JMEのようにイギリス的な作風を突き詰めたものしかなかったわけだけれど、古参のDurrty Goodzはこの作品でその狂乱のイメージを失わずパッケージング化することに初めて成功したと言っていい。Afterlifeの喧騒的なライミング、Rubberoomの突き刺すようなフューチャリスティックさ、Ward 21の強迫的でマッドなリズム、20世紀末~21世紀初頭の精神錯乱した宿痾の妄想から生まれ落ちたアンダーグラウンドのクリエイティビティーは何処かへ消えてしまったかのように見えたが、まったく関係のない文脈の此処で確認することができる。




Federation
"It's Whateva"

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一昨年の"18 Dummy"はジャンルに振るい落とすなら確実にSpank Rockと同じ枠にぶち込まれること必至の西海岸一しょうもない音楽を作っているFederation。これでも西海岸のギャングスタラップは大して聴いてなくて、Heltah Skeltahなどの東海岸のリアルヒップホップに入れ込んで育ったと言う。音だけでなくメンタリティもDiplo周辺の人たちと同じでブーンバップでコンシャスなものに限界を感じてしょうもないことをやっているのか? と一瞬疑いたくもなるが、「俺は半猿半哺乳類!」とか叫んでるので素で頭が悪いだけに違いない。




South Rakkas Crew
"Mix Up"

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ニューレイヴという言葉もなんだか懐かしい気もするがそんな言葉ができる昔からそんな音を作っていた人たちにはドフォーレ商会を無料で買収できるくらいの時代の風が来ている。




らっぷびと
"らっぷびととみくすびとの憂鬱"

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SOURCE JAPAN ONLINEにもいろいろ書いたけども、日本語ラップにおいて07年は「革新の年」という言葉がピッタリ合う。だから「新しさ」という観点で見ると、あらゆる作品がフレッシュに映るので、一概にどれが良かったかと選ぶのはなかなかに難しい。そんな中でも「突出している」と感じたものを敢えて選出すると「リアル」という言葉を一から考え直したくなるThug FamilyはTOPの"Street Tale"と、「汚らしい」という言葉こそ相応しい"JP State of Mind"に登場するFRGのラップスタイル、そしてこのらっぷびとだろう。
「アニソンの替えラップ」と言って一蹴してしまえばそれだけだけど、ニコニコ動画を介して延べ100万回以上再生されたり、「ヒップホップを聴いたことないけどラップをしてみた」という人が彼の後ろにぞろぞろ出てきたり、その影響力は本物。黎明期のヒップホップならびにマッシュアップのイリーガルな痛快感を、現代のヒップホップでは蔑まれ絶滅したHeartsdales~laica breeze的なスタイルで体現している倒錯感だけでも瞠目すべきだけども、加えてKick the Can Crewや韻踏合組合などを愛聴し日本語ラップ正当のライミングテクニックを理解しているという事実がこの作品に二重にも三重にもねじくれたラディカルさを与えている。それらを踏まえると、彼が集約して拡散させたモノの大きさというか、「日本語ラップの可能性の広がり」を感じずにはいられない。




MP2
"XXX-File"

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NOT USE P2Pの文句にどれほどの意味があるのかわからない限りなくイリーガルに近いリーガルミックス。違法なことをやっている奴が勝手に合法的に配ってるんだから俺は白だ! という拡大解釈した法律の隅を突くようなダーティーさに富んでいる。




Justice
"†"

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特にラップ向きの曲でもないのに、なぜか大勢がこぞって"D.A.N.C.E."でラップしたがっていた現象やKanyeやSwizzがDaft Punkをサンプリングした現象を見ると、フレンチエレクトロがヒップホップ界を席巻しているような錯覚を覚えるが、「Para Oneのことが好きだ」というラッパーの話は一切聞かないので、JusticeとDaft Punkの過去の曲を掘り起こすサンプリングアティテュードがヒップホップサイエンスからも理解しやすいというだけのことなのだろう。そう考えると、マイケル・ジャクソンの"P.Y.T."に捧げられた"D.A.N.C.E."と"P.Y.T."をサンプリングしたKanyeの"Good Life"のPVが両方ともJonas & FrançoisとSo-Meの仕事なのは必然というか、アーティスト側から音楽像をわかりやすく噛み砕いてくれているとも言えるのではないか。

Greetings

08年の幕開けと共に、ときチェケ♪のバナーが産声をあげた。これはいい読者プレゼント。
恥ずかしがらずに自分のブログに貼ってみればいいじゃない。さぁホラ。ホラ!!

Tuesday, January 01, 2008

NORIKIYO - EXIT



 同じ時期のインタビューで「もう日本語でラップすることなんて誰でも出来る」という内容の発言をメインストリームではZeebraが、アンダーグラウンドではNorikiyoがしていました。そしてまるでその発言を証明するかのように、テレビでは芸人がたった数週間の練習でタイトでハーコーなライミングを披露してみせ、インターネット上では数日前までヒップホップなんか聴いたことなかったような素人が自宅でマイクをパソコンに繋げてニコニコ動画に自作のラップを配信しています。こういった発言や現象を実際に見られるようになったという意味で'07年ほど"日本語ラップは変化した"と思った年はありません。

 KRS-ONEが「ヒップホップの黎明期にリスナーは特徴的な声を持つラッパーを好んで聴いていた。しかし、しばらく経つと声だけではなくラップの上手さが注目されはじめた。さらに時代が進んで皆のラップが上手くなってくるとリリックの内容が重視されるようになった。」という風にアメリカのヒップホップの変遷を語っていたようですが、まさにその歴史をなぞるかのように日本の新進気鋭のラッパー達は単純にラップスキルを競い合ったりだとか、ただカッコいい言葉を操ろうとするのではなく、自分達が生活して実際に見ているストリートの風景をリリックに落とし込み、リスナーとその風景を共有しようとするのです。

 彼らが無邪気にラップの良し悪しで優劣を決めようとするのではなく、聴き手をストリートに引き込むようなラップのスタイルに変化しているのは、前述のラップの一般化に対するカウンター的なもの、もうどこの誰でも出来てしまう日本語のラップを敢えて、ラッパーとしてやっていることへの問い、すなわち" ラッパーとは何者か?"という根本的な問いかけへのスタイリッシュな一つの回答と言えます。ストリートを知らなければ描けないモノが確かにあるのです。

 このNorikiyoの『EXIT』はラップにもトラックにもさしたる特徴や起伏があるわけでもない、そこだけで見るととてもフラットな内容の作品です。それ故、日本語ラップをあまり聴いていない人へ「この中にはストリートからのメッセージが詰まっている」と声高く訴えてみたところで一笑に付されてしまうのも仕方のないことなのかもしれません。しかし、どうにもこうにもうだつのあがらないクソな生活の上にこそストリートが広がっていることを知り、そんな場所で生きていくためにハスリングしているB-BOYたちがその情景を誰よりも巧く詞として紡ぐことが出来ると知ったとき、このアルバムに詰まっているメッセージのおもしろさに気付くはずです。

「ネオン街眩しい夜の蝶 / こっちゃ電灯集っちゃバタつく蛾のよう / 日銭、飯の種足んねぇや万券 / 腹空かす野良犬が街を彷徨う / STRAID UP! プロミス調子はどう? / 金ならまだだよ許しを請う」

MINT - AFTER SCHOOL MAKIN' LOVE



 5 年ほど前のアンダーグラウンド日本語ラップの特徴はなんといってもBLAST誌の一コーナー"HOME BREWER'S"が発信元となっていたことです。韻踏合組合やMSCを筆頭に固定観念に捉われないバラエティに富んだ新しい才能を発掘していくことによって多くのリスナーを生み、いわゆるアンダーグラウンド日本語ラップの土台を築きました。要するにシーンというものが音楽ライター視点で作られていた時期で、韻などへのこだわりだったり、緩やかに下っていく時代性の反映だったり、はたまたヒネくれた姿勢のような日本語ラップが内在するあらゆる歪さがバラエティ豊か且つセンシティブにリスナーへ提示されていた時期なのです。(それは"HOME BREWER'S"のコンピレーションに象徴的です。)

 しかしそれから数年経ち、"HOME BREWER'S"は影も形も無くなり、次は"ストリート発のMIX CD"がアンダーグラウンドの船頭を担うことになります。Seeda & DJ Issoの『CONCRETE GREEN』が、そこに内包する様々な楽曲のクオリティの高さと日本語ラップでは珍しい媒体の新鮮味でもって多くのリスナーの支持を受けたのです。そこからSeedaやNorikiyoのようなスタイルが注目を受けることになる訳ですが、今度は彼らのスタイルによってアンダーグラウンドのカラーが統一されていくことになります。Seedaたちが提示したストリートっぽさがラップスタイルやトラックの形式を含めて記号化され、誰でもひとつの曲調を想起できるくらい集約されはじめている。この集約は雑誌発信から現場発信へバトンが渡った故の現象でしょう。

 また、Norikiyo『EXIT』のレビューでも書いたように日本語ラップの認知度があがっていくことによってラップスタイルも変化していっていますが、それはリスナーの聴き方の変化をも促すものになります。いまトレンドのラップは単にフロウや音だけを聴かせるものではなく、リリックの隅から隅まで注意して聴き取らせるものになっていますが、それはこれまでの日本語ラップの聴き方とはまた異なった新しい感性を要する、つまりただラップスキルの良し悪しをわかることより、彼らが伝えようとしている物事を受け止めることのできる感性が必要なのです。

 これらのことより、5年前と現在のアンダーグラウンドは別物と言えます。だからこそ5年前の曲は理解できても現在の曲は理解できないということや、その逆のギャップが発生しうる。そしてこの感性のズレを考えると、この企画が求めるような'07年視点で一昔前にアンダーグラウンドの中心にいたラッパーたちの作品を普遍的に並列に評価するということはある種とても難しいことだと思います。いままでの日本語ラップには無い、わかりやすい新しさがあればいいのですが。

 さて、『AFTER SCHOOL MAKIN' LOVE』です。この作品、紛れも無く"南部ヒップホップのモノマネ"ですが、そうやってバッサリ切り落とすのはあまりにもセンスが無い。なぜならトラック・ラップ・リリックどれをとっても徹底して"ダーティさ・フリーキーさ・ナスティさ"が追求されている超高完成度の"モノマネ作品"だからです。例えば、10人の女子が聴いたら8人は「キモッ」って言って確実にヒくようなリリック。「アイツなんかに絶対負けねえ!!なんて熱い話は抜きにして」や「まぁどうせJay-Zには勝てっこない」など無用な向上心をゴミ箱に放り投げたようなライン。金をかけれらない環境で、飽くなきこだわりのみを胸に構築されたであろう質の高いバウンスビート。そのビートを効果的に聴かせる間を持ったラップスタイル。"ごめんねG.O.D"でひたすら「G.O.D」で韻を踏み続けるところなど、要所要所でとてもスキルフルだと思うのだけどもその凄さが全然伝わってこない砕けた雰囲気。誰が喜ぶのか良くわからないオマケのスクリューMIXなどなど。徹底されたクオリティコントロールと音楽的着眼点・センスの良さ、そして何より消費音楽への迎合という思い切りの良さがいまの日本語ラップにあるトレンドよりも頼もしくすら見えます。本場のHip-Hopの歴史をなぞれば、リリシズムの台頭の後は"バカ&クール"がくるはずですが、この作品の面白さはそういった先端の部分に足を突っ込んでしまっているところにあるのではないでしょうか。

KREVA - よろしくお願いします



 『新人クレバ』、『愛・自分博』ときて、『よろしくお願いします』と3作品揃って揺るがずに"レペゼン自分"の精神をタイトルに記すKrevaにとてつもない"自信の大きさ"を感じて、恐れおののいた。しかし、この尊大なる"レペゼン自分"の精神を持ちながらにしてなぜか全く嫌味がない、そしていまや20 代OLに絶大な支持を受けているKrevaほど"オトナのオトコ"という言葉が似つかわしいラッパーもいない。

 本作でのKrevaは「他人は他人、オレはオレ」という当たり前だけど忘れがちな考えを軸として持ち、オレの考えを微塵も押し付けようとしない。代わりに、意気消沈している娘を見れば「嫌なものは全部吐き出してしまえばいい」と励まし、大切なパートナーには「You are my sunshine. 代わりはいない」とまで言ってのける。この作品全体を覆うムードは、他人の弱さを認めて自分が強くなってそれを包容しようとするようなもの。もう自己犠牲の精神にまで達している。

 振り返ってみれば、『新人クレバ』の頃はピンでメジャーフィールドにカチコミに行くということへの気負いをも感じるくらい、日本語ラップ的な作法にきちんと沿ったセルフボーストをシニカルな視点のラップで聴かせていた。それはまるでキックから続く"カンケリ小僧感"を一人でしょいこんだような内容だったのだけども、『愛・自分博』になるとガラリと変わる。自分中心視点の小僧的なラップはほとんど見られなくなり、成長への努力を怠る人に向けて「一歩ずつ進むことの大切さ」を説くようになるのだ。いまや彼の楽曲には、他人に賞賛をせがむようなセルフボーストも無ければ、ボンクラめいた女や金の妄想も無い。常に前向きの姿勢で「人は必ずどこかに弱い部分を持っている」ということを真摯に受け止めて、地に足の着いたメッセージを中心に投げかける。そこらを見渡せばごまんといた"カンケリ小僧"は作品を重ねて、いつのまにか"オトナのオトコ"に成長していた。
 すでに彼には、堅実なラップスキルと卓越したトラックメイキング能力が備わっている。しかしそれだけでなく、不特定多数の人に聴かれる音楽を作る中で「自分はどういう人間になるべきか」ということを考え、そこに向かって人間性の面まで切磋琢磨していたのだ。まったく非の打ちどころがない。『よろしくお願いします』を聴いていると嫉妬と劣等感で気が狂いそうになる。

 しかしこの嫉妬の原因は、いまの彼の視点に"同性のリスナーの存在"が決定的に欠けているからではないのか、とも思うのである。完璧と言っても過言でない"オトナのオトコ"のメッセージを聴いて、嫉妬でのた打ち回る男は星の数ほどいそうだけど、ケツ振って喜ぶ男が一体どれだけいるんだ? では、日本語ラップリスナーの中では? 嫉みや妬みや怒り、得たいの知れない自信や焦燥、ヒップホップが持つ中坊的な歪さを"オトコらしさ"のフレグランスで完全消臭したKrevaには『新人クレバ』のときにあった類の"おもしろさ"までもが消臭されている。いまの彼の視界には「日本語ラップリスナー」の姿なんか入っていない。(まぁ彼の目指している方向を考えれば、そんな必要ないのだけども。)
 しかしこうやって見てみると、これほどクリエイティブなKrevaを「なんだかPOPだから」という理由だけで認めないヤツの了見の狭さは尊敬に値する、という言い分と同様に、まったく疑問を持たずに日本語ラップだと受け入れるヤツのケツの穴の広さも同じくらい尊敬に値する、という言い分もわかるはず。