Monday, November 17, 2008

can remix just fuck off and die please

★Lil'諭吉 presents Supa Hypa Ultra Fres$shhh






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★Riz MC - Radar




★Heralds of Change ft. Olivier Daysoul - Bopgunn





★Bullion - Get Familiar




★Rustie - Zig Zag




追記:8tracksはじめました。

Wednesday, November 12, 2008

微熱メモ vol.8 - 10年後のシーンを想像してみた

・「"シーン"とは何だろう?」ということを最近よく考える。Zeebraは日本語ラップ黎明期のころに「"シーン"という存在しないものをあたかも存在するように見せかけていた」というようなことを言っていたけども、その発言はすごく興味深い。

・つまりZeebraたち、黎明期のラッパーは周囲の注目を受けるため、要は小さい活動をより大きくて意味のある活動に変えていくために、「宇多川町で新しいムーブメントが起こっているよ」ということを周りの人たちに示して、まだ何も無かった場をあたかも「何か新しいことが起こっている場」にデッチあげていたという。

・じゃあZeebraの言うとおり、初期の"シーン"がただの「幻想の場」だったとして、その"シーン"の意味が過去と現在でまったく同じなのかといったらそれは違う。なぜなら、その何も無かった場所には歴史が積みあがっていて、そこにコミットしている人たちは基本的にその場の歴史や価値観を共有するようになっているからだ。

・"シーン"にコミットしている人たちはそこに横たわる歴史や価値観――「アーティスト同士の繋がり」や「作品や時代の繋がり」、「リリックやラップ、トラックの発展」や、はたまた「スキルの良し悪しの概念(何がワックなのか?)」というような"文脈"を共有している。逆に言うと、そういう"文脈"を知らない人は"シーン"の外の人となるし、"文脈"をわかる人が"シーン"の中にいる人となる。じゃあ、さらにもっと突き詰めれば、その"文脈"がわかる人たちの集合体こそがそのまま"シーン"と言えるんじゃないか。

・仮に"シーン"を「"文脈"をわかる人たちの集合体」として捉えてみると、その"文脈"を作る「もの」の存在がこれまでになく重要な位置をしめてくることがわかる。なぜなら「アーティスト同士の繋がり」や「作品や時代の繋がり」という情報やそれらの歴史を残すもの、あるいは「何がワックで何がそうでないのか?」というような価値観がなくなってしまうと、皆で共有できる"文脈"がなくなってしまうからだ。それはそのまま「"シーン"の消滅」を意味する。

・日本語ラップにおいて、一番わかりやすい"文脈"は雑誌『blast』上にあったものだろう。『blast』がアーティストや作品の情報を提供して、そこに歴史が残る。『blast』が大きく取り上げたものは日本語ラップでも重要な意味を持つし、取り上げもしなかったものは「ワック(≒シーンの外にあるもの)」だというように、明確で簡単に皆が共有できる"文脈"がソコにあったんじゃないかと考えることができる。『blast』から「クラシック」として位置づけられた曲("証言"や"人間発言所"など)をはじめは理解できなくても誰しもが聴きこんで理解しようと努め、『blast』から扱われなかったアーティスト(ドラゴンアッシュや一時期のスチャダラパーなど)やその曲は「シーンの外のもの」として誰もが見なした。日本語ラップ黎明期からの"文脈"を持つ『blast』はそこにコミットしている人たちの価値観をある程度は収瞼できていた。

・実際、いま日本語ラップで注目を受けているSEEDAにしろ、ANARCHYにしろ『blast』が残した"最後の文脈"上に存在するアーティストだし、『blast』の休刊から08年現在までの間で日本語ラップの"文脈"上にいると"シーン"で認識されているアーティストは、SEEDAやANARCHYからレペゼンされたアーティストと、MCバトルで活躍しているラッパー達、元々『blast』にいたアーティストに繋がっていた人たちで、それ以外で注目を受けているアーティストはほとんどいないと言っていいと思う。

・こういう風に考えてみると、SEEDAやANARCHYを最後に潰えた"文脈"が今後どのように残っていくかを予想することが「"シーン"が隆盛するか? それとも消滅してしまうか?」を見出す糸口になるといえる。「未来は暗くない」とか「シーンが無くなるはずはない」とか言いたい気持ちもわからなくはないし、実際に"シーン"が一切消滅してしまうことは無いのだろうけども、そこでそう言い切ってしまうのは単なる思考停止だ。

・"シーン"の内にいたラッパーが外のリスナーを掴むためにポップになっていったり、または外にいるラッパーのスキルが向上していくような動きの中でJ-POPと日本語ラップの境界線はさらに曖昧になるし、いまの日本語ラップの多様性は"シーン"の内側でもアーティスト同士やリスナー同士の壁を生む。そういう流れを踏まえたうえで今後の「"シーン"の形成」に対してネガティブな可能性のみを2点だけ記しておく。

・まず1つはJ-POP的なラップに日本語ラップが取って代わられる可能性。"文脈"を保つものが無くなって、周りの"シーン"との境界線が曖昧になっていく中で、「これがワックだ」というような日本語ラップ的な価値観が薄れる。また、"シーン"が「集合体」である以上、"文脈"を失って集合体の境界線が曖昧になっていく中で、人数的には圧倒的多数になるJ-POP的なリスナーの価値観が日本語ラップ的な価値観に勝り、主流の"文脈"はJ-POP的なラップが担うようになる。(勿論、旧来の"文脈"は残るだろうけども、海外アングラやウェッサイの"文脈"のようにマイナーな傍流として細々と残っていく)

・そして2つ目は"シーン"の内部が細分化されて、小さな"文脈"しか残らなくなる可能性。皆で共有できる"文脈"が無くなって、日本語ラップの形が多様化する中で、個人個人の「好き/嫌い」の壁が"シーン"の内部を分断していく。ジャジーラップだったり、ギャングスタラップだったり、アングララップだったり、日本語ラップのコミュニティが蛸壺化して、もともとが一枚岩のように見えていた日本語ラップが、リスナーやアーティストによって「自分の好きな"シーン"」の形に分断されていく。それらの小さな"シーン"のなかで個々に"文脈"が作られていくようになる。

・長々と書いてきたけども、これらがこれから10年後くらいの"シーン"の形かもしれない。実際に海外の"シーン"で起こっていたことを踏まえると結構な説得力もあると思う。でも、それらの「可能性」だけでなく、ひとつだけ希望を見出してみれば、過去の歴史や海外ヒップホップ、他の音楽ジャンルの例を見ても、常に"文脈"は新しくて力強いムーブメントの後に出来ていることだろう。アーティストのクリエイティブな動きの後に大多数のリスナーはついて行き、自然に"シーン"は形成されていくのだ。そしていままで"シーン"の中でそれは行われ、"シーン"が牽引されてきたという確かな実績が残っている。