Wednesday, April 01, 2009

編集されるシーンの終焉と共感で繋がるシーンの幕開け

08年の日本語ラップの振り返りを兼ねて、ライターの古川耕氏にお手伝いいただき、現状の日本語ラップシーンを分析してみました。不良ラップの新たな可能性から音楽批評のあるべき論まで、09年最先端の日本語ラップ論を相変わらずの特大ボリュームでお送りします。通学通勤電車内や昼休みなどにどうぞ。
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古川:微熱君はブログで「Microphone Pagerは思うように支持が得られていない」というようなことを書いていたけど、実は『王道楽土』って結構売れているらしいんですよ。

微熱:へぇ。そうなんですか?

古川:らしいです。僕も興味深いと思ってるんだけど、ネットの中でよく見るような、あのアルバムへの芳しくない評価と、実際のセールスは乖離しているみたいなんだよね。

微熱:どの辺の層に売れているんですかね?

古川:やっぱり日本語ラップ・リスナーじゃないかな? 日本語ラップ・リスナーって、闇雲に未来志向の人がいるのと同じくらい、いや、実はもっとそれより遙かに多く、ビッグネームの作品を好きで聴く人が多いんだと思うよ。

微熱:買っている人が多いといっても、やっぱりウケているかどうかが気になりますけどね。ネットはもちろんですけど、周りの人の意見を聞いても、あの作品を肯定的に捉えている人は見ないですから。とっちらかっているという意見がやっぱり一般的だし、何で今の時期にこんなことをやっているのか? と疑問に思っている人が多い感じがします。だからこそ、なぜ彼らが今の時期にMicrophone Pagerとして復活したのか? というところを考える必要があると思うんですけど。

古川:微熱君はどういう風に考えているわけ?

微熱:私はさんピン世代や『BLAST』が培ってきたような影響力がもう既に薄れてしまっていて、そのことに対してTWIGYとMUROがやってみせたカウンターの動きとして見ています。それこそTWIGYはハードコア主義というよりかはオルタナティブな方向性の作品ばかりつくってきていたような人じゃないですか。シーンの持つハードコア主義的な価値観から敢えて脱却するような作品をずっとつくっていたんですけど、そういう方向に行くのではなくて今回Microphone Pagerとして復活した。しかも、本人も明言しているし、曲名にもあるようにすごくハードコア主義的な側面を打ち出してきている。じゃあそれはなんでなのか? ということですよ。私はそこにTWIGYが脱却しつづけていたシーンがなくなっていることを示唆する点があると思っています。彼らがインタビューでシーンを活性化させることが目的だというようなことを言っていたけど、それこそ今の時代の流れに対する反発の動きじゃないかと思うんです。同じようなことが去年リリースされたZeebraの“Jackin' 4 Beats”だったり、Hungerの“JAPPCATS”だったり、ダースレイダーの“CISCO坂”なんかの曲にも顕れている。08年は豊作だと言われているけど、こういったアーティストの動きはもっと着目されるべき点なんじゃないだろうか。

古川:いろいろ興味深くはあるんだけど、少し整理したほうがいいかもしれない。まず語句/用語についてなんですけど、<ハードコア主義>という言葉は漠然としすぎているので、もうちょっときちんと定義したい……微熱君の使い方は「懐古趣味」ってこと?

微熱:いや、違いますね。ここでいう<ハードコア主義>って言葉の根底にあるのは、さんピン世代や『BLAST』誌が作ってきた価値観や、アーティストとか作品の繋がりのことです。キングギドラだったり、LAMP EYEだったりの90年代中盤の日本語ラップをイメージしてもらえればわかりやすいかもしれない。Microphone Pager自身もそうですけど、要はセルフボースト的な立ち振る舞いだけでヒップホップたりえるような価値観をハードコア主義とここでは言っていて、懐古趣味だとかいま言われるような「リアル」の意味とはちょっと違う。

古川:つまり、音楽性+αの話だよね。攻撃的なアティテュードやら、過剰なマチズモやら、それらも含めた“<ヒップホップらしさ>に対して忠実であろうという姿勢”をハードコア主義と呼ぶことにしようか。
 昔から微熱君が言っていることだけど、TWIGYは多層性のある人でさ。特に近年は凄くスノッブな未来志向というか、オルタナティブなことをやっている反面で、フッド(精神的な足許という意味も含む<地元>)の人間をフックアップする、常に一筋縄ではいかないような作品をつくってきたよね。Microphone Pagerの『王道楽土』は、そういう多層性のある彼の中でも、ハードコア志向な面を前面に押し出している作品と言ってしまっていいと思う。

微熱:TWIGYもだけど、「シーンなんか意識していない」というようなことを言う人に限ってシーンを保護するようなアクションを取りがちなんですよね。SEEDAも同じで、「シーンなんか興味ない」と言う反面、“TERIYAKI BEEF”の件もそうだけど、周りの仲間を守ったりだとか、シーンを活性化させるようなアクションを率先してとる。『Concrete Green』シリーズ(以下C.C.G)で新人をフックアップしたり、自分のブログで他のアーティストのインタビュー記事をのっけたり、「レビューで誉めている暇あったら福生に行け」ってメディアやライターを批判したり
 SEEDAにしても、TWIGYにしても、それこそ般若もだけど、シーンに対して斜に構えているような人ほどシーンを守りつつ活性化させるような特別なアクションを取りたがる。そういう動きが顕著だったのが08年~09年初頭なんですけど。

古川:なるほどね。

微熱:私は08年の日本語ラップの流れを大きく3つに別けて捉えていて、まず1つめが色んなメディアで最も注目を受けているであろう「不良ラップの隆盛」の部分、そして2つめが「アーティストやリスナーの価値観の拡散」の部分、で3つめがいま話している「日本語ラップシーン再生への動き」の部分。この3つの柱が密接に絡み合っていまのシーンの形を作っていると思っています。
 まず「不良ラップの隆盛」について……これは以前からリリックやラップ・スキルをテーマに古川さんとも話していることなんですけど、自分の過去の経験だったり、環境に翻弄される自分だったり、自分の素直な感情や気持ちをリアルと称してラップに取り込んで表現するというもので、06年以降のトレンドとなっている日本語ラップのスタイルです。これはラップのスキルではなくて、リリックの内容に焦点をあてたスタイルなんですね。

古川:そうだよね。いままでの対談もそういうところに焦点をあててきた。

微熱:いまなぜラップのスキルの部分ではなくて、リリックの内容のほうが重視されることになったかというと、その大きな要因のひとつはラップスキルが素人含めて上がって来ているという点で、TVで流れる商業的なラップだったり、それこそニコ動でアップされている素人のラップでさえ一昔前のラッパーのラップと比べても遜色の無いものになってきている。じゃあ、そういう素人や商業的な連中のやるラップとどこに差異を見出していくかといったときに別の価値観――リリックの内容のリアルさに焦点があたるようになってきたと思うんです。

古川:なるほど。

微熱:「08年ベストアルバム」とかでメディアに取り上げられる作品でも例年のものと比べてみて注目すべきは、そのほとんどがソロマイカーのものだということです。ちょっと前までソロマイカーでアルバム1枚を聴かせられて、しかも評価されるようなラッパーはほとんどいなかった。BOSS THE MCとかTOKONA-Xくらいじゃないかな? 何にせよ活躍しているアーティストはほとんどがクルーで、しかもマイクリレー物とかが評価されていた時代があった訳です。いまはひと昔と違ってソロマイカーが評価され、注目を受けている。ソロマイカーでもアルバム1枚聴かせられるくらいラップ・スキルの平均値が上がってきたし、1人称的なストーリーを持った作品、私小説的な作品が受け入れられやすい土壌が出来てきた。
 ……この話ちょっと長くなりますがつづけていいですか?

古川:どうぞどうぞ。

微熱:じゃあ遠慮なく(笑)。結局、ソロマイカーの私小説的な作品ばかりが08年のベストに挙げられているというのはどういうことかというと、リスナーもリリックの内容を重視して聴くようになってきたということなんですね。実際に支持されているアーティストを眺めてみても、自分のダメな部分をさらけだしたり、クソな環境でもがいているようなアーティスト、つまり弱い立場にいるアーティストが中心に支持されている。リスナーは自分が共感できる作品を求めているんです。
 この対談をやる前に古川さんの08年ベストを聞いていましたけど、鬼とか田我流とかBRON-Kとかですよね? そのラインナップを見ても今の話に通じるところはあると思っているんですけど、古川さんはここ数年で自分の日本語ラップの聴き方が変わってきたという意識はあったりしますか?

古川:とても面白い話だねぇ。ラップ・スキルの平均値があがってきて、ラッパーはリリックの内容を追求するようになったというところも同感です。こないだのSEEDAとTERIYAKI BOYZのビーフにも顕著なんですけど、わかっている人ならVERBALにスキルが無いなんてことは言わないはずなんですよ。

微熱:そうですね。

古川:スキルの優劣という面では、SEEDAとVERBALはほぼ同列にあると言っていいでしょう。ただ今回のビーフでSEEDAのファンは「VERBALはスキルはあるけど、内容が無くてワックだ」というようなことを言っているんですね。「やっていることがワックだ」と。ラップ・スキルの話というより、例えば負け組とされる人たちが、うたっている内容に共感してプロップスが集まる、という図式があって、あとはそれぞれの立ち位置だとかキャリアだとか、そういうものを背後にしたビーフとして見ている。
 だけど、僕は微熱君のCOMA-CHIのレビューを読んでいて思ったことが1つあった。

微熱:はい。なんでしょう?

古川:レビューで、COMA-CHIは女性全般の問題をうたっていて、そこに共感を得られる秘訣があるんじゃないか、そういう狙いがあるんじゃないかって書いていたけど、僕がCOMA-CHIの『RED NAKED』を聴いて思ったのは、彼女のヴォーカリストとしての資質のことだったんですよ。簡単に言えば、彼女のヴォーカリストとしての引き出しの多さがあのアルバムをとても聴きやすいものにしている。

微熱:そうですね。

古川:ヒップホップ・マナーに忠実なハードな面もありつつも、聴きやすさとしてのポップさもきちんと両立させている。微熱君が並列で挙げていたサイプレス上野とロベルト吉野の『WONDER WHEEL』もやっぱり同じようにヒップホップ・マナーとポップさを両立させているよね。

微熱:確かにその2作品は似ていますね。

古川:言っていることもさることながら、音楽的な完成度の高さも似ていますよ。一口にポップといってしまうのは憚られるけど、ハードコア・ヒップホップとしてだけでなく、色んなファン層に受け入れられるような間口の広い音楽性も持っている。

微熱:古川さんが言うようにその2作品はポップな面も持ち合わせているし、実際に日本語ラップ・リスナー以外にも受け入れられている作品なんじゃないかと思います。だとしたら、日本語ラップ・リスナーやそれ以外の一般消費者が『RED NAKED』や『WONDER WHEEL』と他の商業的なラップ作品を聴き比べたときにどこに差異を見出すのか? というところを考えてみたいんですよね。そのヒップホップマナーを踏まえた音楽性に差異を見出すのか、それともラップ・スキルに差異を見出すのか、あるいはリリックの内容に差異を見出すのか。古川さんはJ-RAPとその2作品のどこに差異を感じますか? そもそも差異はあると思いますか?

古川:うーん。そうだね、僕個人で言えば、やはり差異はあると感じる。

微熱:どこに差異を感じました?

古川:それって、その「商業的なラップ」って具体的に誰なんだって話になるけども……僕の中でそれは、SEAMOとか、SOULJAとか、FUNKY MONKEY BABYSとか、あの辺ですよ。あの辺のアーティストと聴き比べたときにCOMA−CHIやサイプレス上野とロベルト吉野との間には明確な差異があると思うし、そこはリスナーも分けて聴いているのではないかとは思うんだけど……。

微熱:BENNIE Kっているじゃないですか? 彼女たちは音楽性という意味では守備している範囲が広いし、ブラックネスに通じる部分も持っていると思うんですよ。

古川:そうですね。

微熱:じゃあ、共に守備している音楽性の広いBENNIE KとCOMA-CHIを比べたときにどこに差異があるかと考えると、COMA-CHIのほうがB-GIRLである自分を前面に押し出して、そう振舞っているところくらいしか無いんじゃないかと思うんです。

古川:なるほどね。

微熱:今回の『RED NAKED』は彼女のパーソナルな部分も打ち出してきているからそこにも差異はあると思うんだけども、案外音楽性という面ではあんまり差異が無いのではないか。その間にある壁は非常に薄いものだと思うんです。

古川:その二者に限って言えば、それはそうだろうね。いちラップ・マニアとしては、BENNIE KのラップとCOMA-CHIのラップにはっきり違いを認めることが出来るけど、ラップをあまり聴かない人がその2つを聴き比べたときにそんなに差異を見出せないかもしれない。ちなみに、僕はBENNIE Kは嫌いじゃないけどね。
 ともあれ、ラップの知識がゼロの人が聴いたら、BENNIE KのラップとCOMA-CHIの間には歌詞の内容くらいでしか差異は見出せないかも、というのは確かにそうかも。

微熱:そうなんですよ。ついでに言ってしまうと、彼女がB-GIRLであることを前面に打ち出すのも、結局は日本語ラップ・リスナーが共感するための機能にすぎない。だとすると、日本語ラップとそうでない音楽の差異って、日本語ラップ・リスナーが共感できるかそうじゃないかくらいの差しかないんじゃないか。
 この話は3本柱の2つめ――「アーティストやリスナーの価値観の拡散」の話に繋がっていくんですけど、ぶっちゃけていうといまの日本語ラップシーンを形成している要素ってリスナーが共感できる/共感できないの意識の部分にしかないと思うんです。たとえば、08年で支持されたアーティストでB.I.G JOEだったり、BESだったり、NORIKIYOだとかがいますけど、さっき話したとおりリスナーが彼らの弱い立場に共感したからこそ支持を集めたと思うんです。それは自分達が単純に「好き/嫌い」の基準でわけたときに、彼らの作品を好意的に感じる人が多かったというだけのことで。だからいまのシーンの形って最大公約数的に「好き」と感じる人の多かった作品が浮き上がって見えることでなんとなく成り立っているだけなんじゃないかと思うんです。

古川:「これは(正統的な)日本語ラップだ」といわれて尊ばれるものと、「これはポップ・ラップだ」といって切り捨てられてしまうものの線引きを誰が行なっているか、という話だけどさ。ポップ・ラップ(J-RAP)側のリスナーとハードコア・ヒップホップ(日本語ラップ)側のリスナーで分けると、ポップ・ラップのリスナーがその線引きをしているわけではないよね。ポップ・ラップ側のリスナーは「こっちの音楽のほうが好き」だとか「こっちの音楽のほうが嫌い」だと明確に分けて聴いているわけではなくて、自分達の耳に届く範囲の音楽をチョイスして聴いているだけでしょう。じゃあその線引きを誰がしているかっていったら、ハードコア・ヒップホップ側のリスナーですよね。

微熱:その辺の線引きは日本語ラップ側のリスナーがしているものに間違いないでしょうね。

古川:じゃあ日本語ラップ側のリスナーが線引きをしているとして、ある程度濃淡はあるにせよヒップホップ・マナーと呼ばれる知識を持つ人たちがジャッジしているのであれば、歌詞への共感だけでその線引きを行なっていると言われるとちょっと乱暴すぎると思う。やっぱり彼ら/彼女達が思うラップ・スキルの有無という部分もその線引きに関っているんじゃないかという気もするんですよ。

微熱:さっき『BLAST』やさんピン世代が文脈を作っていたという話をしましたけど、いままでは『BLAST』という雑誌がシーンを形づくっていたんじゃないかとまで思うんです。『BLAST』がDragon Ashを「日本語ラップではない」とした時点で、Dragon Ashは日本語ラップではなくなってしまうんです。『BLAST』という雑誌が日本語ラップかそうじゃないかの線引きをするような機能を持っていたんです。だから、あの雑誌が無くなってしまうと、その線引きは完全にリスナーの裁量に委ねられることになる。たとえばTERIYAKI BOYZというアーティストがいて、彼らが日本語ラップなのかそうじゃないのかという線引きは完全にリスナーの価値観に依存するんです。A君はTERIYAKI BOYZが好きで日本語ラップだと言っていて、B君は嫌いでTERIYAKI BOYZは日本語ラップじゃないと言ったときに彼らの間には強固な認識の壁ができてしまう。じゃあ、「TERIYAKI BOYZは日本語ラップ・シーンにとって一体何なのか?」と考えると、結局はリスナーの最大公約数的な価値観に集約されてしまうんじゃないかと思うんです。TERIYAKI BOYZがクールな日本語ラップだと思う人が多いならそうに違いないし、ワックなポップ・ラップだと思う人が多いならばそれを無下に否定することもできない。
確かに古川さんの言うとおり、要素としては音楽性だったり、ラップ・スキルというのも線引きの判断基準にはなると思う。でも結局はリスナー本位の価値観で形成されるシーンには違いないんです。そうすると、そのシーンを形成している壁って人によっては全然違ったりもする非常に曖昧なものになっているんですよ。そしてそれは多分これからもどんどん曖昧になっていく。そういうところに危機感を覚える人はいると思うんですけどね。

古川:たまたま『BLAST』がその役目のひとつを担っていたわけだけども、要するにファンの最大公約数とはまた別に、ある種中央集権的に線引きする存在があった、そしてどうやらそれが機能してたっぽい、ということだよね。よくも悪くも。
 さっき、SEEDAとTERIYAKIのビーフの話をしましたけど、両者のラップ・スキルの高さ以外にもうひとつ面白い事象があって、それは両者のファンの反応なんですよ。これは人に教えてもらったんだけど、mixiのSEEDAファンのコミュとTERIYAKIファンのコミュがあって、特にTERIYAKIファンのコミュの人たちがものすごい感情的な反応を示しているんだよね。要は、「売れないラッパーが嫉妬してぎゃんぎゃん言っているだけでしょ」という反応が圧倒的に多い。SEEDAファンのコミュでも、「TERIYAKIはセルアウトでワックで聴くに耐えないものだ」というような決め付けをしている人も多くて……。

微熱:分断されているんですよね。

古川:そう。分断されているんですよ。『BLAST』が「価値観をどこに置くか」という線引きでシーンの輪郭を描いてたとして、どこに線引きを置くかは実は大した問題ではなくて、線引きをするという行為そのものが大事だったわけだよね。

微熱:だから、いまのシーンって蛸壺化しはじめていると思うんです。人によって価値観は異なるし、全く同じ趣味を持った人なんか殆どいない。大まかに系統別で見ても、「ギャングスタ・ラップとハスリング・ラップが好きだ」という人もいれば、「アングラとジャジー・ヒップホップが好きだ」という人もいるだろうし。アーティスト単位で見たらもっとそういう分断はあるはずで、結局は最大公約数的に支持を集めた作品やアーティストのつながりでなんとなくぼんやり見えているのがいまのシーン。もっと言うと、共感しやすい作品だけで形成されているのがいまの時代のシーンだと認識しているんです。『BLAST』がいままで押さえ込んでいた価値観がリスナー本位のものになってしまって、なんとなく皆が共感してうっすらと見えているようなものに過ぎない。だから厳密に言ってしまうと、もうシーンなんてもの自体がないのかもしれないんですけど……。

古川:微熱君が『BLAST』について書いた記事を読んで、その通りだなぁと思ったんだけど、『BLAST』はまさに大きな意味でシーンを<編集>していたんだよね。『BLAST』が思うヒップホップとはこういうものですよ、こういうアーティストは取り上げるけど、こういうアーティストは取り上げませんよ、という、『BLAST』から見たヒップホップの在るべき形の提案。つまり、『BLAST』から観た「ある視点」の提供ですね。
実際の現実というのは混沌と漠然としてあるわけで、そこに色んな文脈を当てはめて、アーティストや事象を取捨選択して並べてみることによって1つのストーリーなり、1つの価値観なりを提示してみせるというのが大きい意味での<編集>作業な訳です。『Homebrewer』も全く同じで、編集して提示することを目的としてやっていたことなんだよ。

微熱:そうですね。

古川:雑誌メディアの存在意義は突き詰めていくと事象や人物を編集することでひとつの視点を提供することなんですよ。「どういう視点を提供するか?」というのが究極の目的なんですよ。インターネット・メディアはその逆で、編集されるのを待つ素材なんですね。どちらかというと。

微熱:ソースにすぎないと。

古川:そうですね。で、まぁ『BLAST』亡き後、そうした役割を果たすものがなくなって、おっしゃるとおり蛸壺化していったのなら……。

微熱:シーンの形は曖昧になりはじめている。あと、価値観の拡散という意味では、雑誌メディアでも同じ現象が見られるんですよ。『Music Magazine』でANARCHYの『Dream & Drama』が何度か取り上げられたんですけど、岩田孝之というライターと、浦田威というライターは同じ雑誌で真反対のことを書いているんです。

古川:へぇ。

微熱:岩田孝之は『Dream & Drama』を「アメリカナイズ」という言葉でまとめて否定的なレビューを書いているんですけど、逆に浦田威はあのアルバムを「クラシック」という言葉で肯定的に持ち上げている。じゃあ、一般人があのレビューを読んだときにどう反応するかというと、『Dream & Drama』否定派の人は岩田孝之のレビューに共感するはずで、浦田威のレビューに違和感を持つだろうし、『Dream & Drama』肯定派の人は浦田威のレビューを支持して、岩田孝之が書いている「アメリカナイズって意味わかんねぇよ」と思うはずなんです。要はあのレビュー自体もリスナー間の壁をつくる機能でしかないんです。ああいう曖昧な言葉でごまかすようなレビューはそのもの自体が蛸壺化をフォローしているだけなんです。

古川:またネットの話になるけど、ネットは編集される素材だという話をさっきしたけど、じゃあその素材を誰が編集するかというと、それは自分なんだよね。自分で気になる記事をクリックして、ジャンプしていったログが自分の編集した証。それは自分ひとりの価値観でつくられた、自分だけにしか通用しないものなんです。だから、ヒップホップを扱うメディアがネットへと移行していって、そこから蛸壺化が進んでいったんだとしたら、それは示唆的だと思うよ。

微熱:さっき『Music Magazine』を例に取りましたけど、要はすごくブログ的なんです。自分の好きなブログだから読む。好きなコミュニティだから支持する。自分の嫌いなブログだから近寄らない。嫌いなコミュニティだから攻撃する。その個人の一連の動きを見ても分断の方向に流れている。だから逆に必要なのはきちんと説明するということだと思っているんです。『Dream & Drama』を否定するにしても肯定するにしても、「アメリカナイズ」だとか「クラシック」なんていう雰囲気だけの言葉でごまかすのではなくて、いままでの作品との比較や時代背景を踏まえた上でどういう風にダメなのか、どういうところが優れているのかをきちんと説明しないと対外的なものには決してならない。自分の意見とは違う意見を持っている別のコミュニティには通じないんです。

古川:それはそう思います。僕も自戒を込めて言うけど、ネット上には莫大な情報が転がっているから「ネット上で手に入る情報が全てだ」というような錯覚を生みやすいんですよ。自分があたかもネット上でいろいろ調べ上げて、何かを俯瞰したような気持ちになりやすくて、そこは本当に危ないことなんです。

微熱:膨大な情報量があって、しかも自発的に調べているから、あたかも自分がその情報をコントロールして落とし込めているかのように思えるかもしれないけど、それは自分が集めた限られた範囲の情報で、さらに自分の都合の良い情報で固められている一面的なものかもしれないということですよね。

古川:一面的なものでしかないし、言い方が雑になるけど、あれは意外と身に付かない。これは何度か話したことかもしれないけど、ネット・ラジオ(『HP/JP』)をやっていてとき思ったのは、ネット・ラジオですぐに楽曲が聴けちゃったりすると、それだけでリスナーは何かを押さえた気になっちゃうんですよ。そこから何か発展的な方向へ育っていくということはなかなかない。

微熱:でも、リスナー側はそういうシーンを押さえてくれるメディアを欲しているとは思うんですよね。それがいままでは『BLAST』だったり、『Homebrewer』だったり、『HP/JP』だったりした訳だけど、そういうものが無くなって自分が好きな情報に偏ってしまったり、自分の属しているコミュニティの情報しか入ってこなくなるという面はこれからも進んでくると思う。ネットに関らず。

古川:曲やアーティストが無数に存在する中で、それをどういう論(文脈)に当てはめて聴くか? ということです。曲は文脈とセットになってはじめて価値観として育まれて、それから外部や他のコミュニティにも伝播していくものなんですよ。マテリアルだけを並べて、曲ごとに「これは良い。これは悪い」と言ったところで、シーンが抱える価値観はぼんやりと溶けていってしまう。ネット上でもヒップホップ全般を扱おうとしているサイトをみかけるけど、論の部分が詰められていない。個人個人のブログでたまに良いレビューを見かけたりはするけど、でもそれはそれで蛸壺だしね。そういう状況ではなかなかシーンというものが成り立たないんじゃないかとは思うね。

微熱:少し話を戻しますけど、文脈を保つメディアが無くなってしまって、シーンの価値観がぼやけてしまったときにリスナーが共感できる作品に支持が集中してしまうという流れがあるということです。私のそこそこ長いヒップホップ経験を持って見ても、08年はそれぞれの作品のクオリティが非常に高くて、そこでうたわれている内容も非の打ちようがないほど面白いものだったのだけど、そういった質の面がとっぱらわれてしまったときにただ単に共感しやすい作品に支持が集まってしまうといままでの日本語ラップ・シーンとは違う全く別のシーンができあがる可能性があるんじゃないかと思うんですよね。

古川:それはもうちょっと具体的に聞きたいな。

微熱:たとえばJ-POP的なアイコンとしては浜崎あゆみが扱いやすいんですけど、彼女は10代~20代前半のとても多くの若い娘たちから支持を集めていたじゃないですか。『ケータイ小説的。』という本でも書かれていますけど、浜崎あゆみの歌う曲はかつての10代の娘たちが共感しやすい歌詞で出来上がっているんですよ。別に彼女の曲を否定する訳じゃないけど、いままで日本語ラップ・シーンで培われたラップ・スキルや音楽性なんかの価値観を持たない全く別の文脈から多くの人の共感を得られるような作品が出てきたときに、その部分だけに極端に集中してしまって、それまでのスキルだとか音楽性というようなわかりにくい価値観が消し飛んでしまう可能性はやはりあると思うんです。
 前に古川さんと磯部さんと話したときにMCバトルには韻が支持されたり、フロウが支持されたりというようなサイクルがあるという話がありましたけど、あの話に私はずっと違和感を持っていたんですね。で、いまの話になぞらえると、近年のMCバトルを観ていてもその場で共感されるアーティストほどオーディエンスの支持を集めて良い結果を残しているように見える。07年のGOCCHIやBESもそうですけど、彼らは自分のヒップホップの美学を確固として持っているんですよ。なので、バトルの相手からどういう形でディスられたとしても、自分の問題とそうじゃないものを切り分けることができているんです。だから的確なカウンターを相手に返すことができる。要は、彼らの確固とした世界観にオーディエンスが共感して、結果として彼らが支持を集めて勝ち上がっているように見えるんです。だから、MCバトルって、単純に韻だとか、フロウだとかという要素だけで切り取られる話ではなくて、リリックの内容が尊ばれるという現象の裏づけになる1つの象徴的な場として見なせることができるんじゃないかと思うんですけど。

古川:なるほどねぇ。うーん。これはあんまり言いたくないんだけど、オーディエンスがジャッジしている限り、その流れは止まらないんじゃないかな。2003年のB-BOY PARKのMCバトルで外人21瞑想が優勝した意味を振り返ってみるとそれは分かると思うんだけど。彼はあの時点でなんの知名度もなかったし、彼の言うことだって誰しも共感できるものでは無かった。彼は本当にスキルとパフォーマンスの力だけで勝ち上がっていったんですよ。今後、そういうことが起こるんだろうかっていうのはある。

微熱:それこそ共感を集めたもん勝ちのシーンの形は一番MCバトルにあらわれているってことですよね。

古川:バトルをオーディエンスがジャッジすることの危険性は、出場者が身内を集めてくるだとかそういうことではなくて、ラップの上手/下手という本来極めて曖昧なものをジャッジしていくとき、オーディエンスがわかりやすい方向に流れていってしまうっていうところにあるんですよ。
 もちろん、その場に参加したより多くの人々にコミット出来た方が勝ち、というのがMCバトルの本質であり、ヒップホップのタフネスの原動力にもなってるわけだけど、でもそれはその場を形成する人たちがヒップホップに対して一定以上の審美眼を持っていることが前提だからね。スノッブと言われてしまうかも知れないけど、僕はヒップホップはそういった意味ではスノッブなものだと思うし、むしろ安易な共感とは全く対極にあるような、ある種残酷な面があると思ってるんだけど。

微熱:古川さんが昔から言っていた「99年転換説」ってあるじゃないですか。あれってそれまで『BLAST』とかで培われていたハードコア主義的な価値観に対するカウンターとしてオルタナティブな価値観が出てきたのが99年という話じゃないですか。08年は更にそこから拡散をはじめたということなんです。日本語ラップ・シーンの既存の価値観を守ろうとする動きから、新しいメディアを使ってのし上がっていこうとするような動き、あるいは様々な音楽性の系統の違いまで。

古川:僕の考えだと、99年以降に拡散が始まって、一つのまとまった流れはマーケット的にもシーン的にも徐々に失われていくんだけど、とはいえ02年~04年にHomebrewerがあったり、それ以降SEEDA君のC.C.Gシリーズやダメレコなんかの流れもあって、そういうところで主要な役割を果たしていた人たちがここ4~5年の動きを総括するような作品をリリースしたのが08年だからね。確かにメモリアルな年だと思う。
 NORIKIYOが素晴らしい作品を出して、注目されていたANARCHYやSEEDAも作品をリリースした。C.C.Gに顔を出していた人たちも良い作品をいっぱい出した。でもふと思うのは、それらがどこまで外側まで広がったのかなというと、そこに一抹の寂しさは感じたりするんだけどね。

微熱:以前、「日本語ラップのリリックの進化と限界」について古川さんと対談したときに「今後どうなると思いますか?」といような質問をしましたけど、そのころに思っていたより色んなアーティストがリアル志向の作品を出していて、むしろ私は08年に不良ラップの層の厚さを感じましたけどね。

古川:確かにそこは層も厚かったし、質的にも高まっているとは思うんだけど、それが外部に認知されていかないところに歯がゆさを感じるんだよね。やっぱりいまだにMSC以降の日本語ラップの流れは一般には認知されていないし、それこそ鬼一家と言ったところで誰も知らないというのが現状な訳です。

微熱:シーンの外部に対するアプローチが弱まっているってことですよね。

古川:そうそう。蛸壺化というのはつまりそういうことなんだけど、外に対するアピールはまだまだ出来ていないなぁとは思う。

微熱:共感でつながる日本語ラップというものがあって、その共感がシーンを作っているんであれば、次に共感させる的をどこに絞るかということが重要だと思うんです。シーンの外部の人間に共感させるのか、それとも文脈を理解しているシーンの内部の人間に共感させるのか、共感させる的となるリスナーをどこに置くか? というところが問題になるんです。
 外側のリスナーにむかって共感させるような作品をつくっていくと、おそらくはJ-POP化していく。COMA-CHIだって浜崎的な要素を持っているし、それこそKREVAなんかはOLウケするような大人の愛の歌ばっかりうたっているけど、そういう幅広い層の一般大衆が受け入れやすい作風になっていく。逆に内側のリスナーにむかって共感させるような作品をつくっていくとイリーガルな内容のストーリーを取り入れた日本語ラップ文脈を理解している人にしか伝わらないようなジャーゴンに凝り固まった作品になってしまう。これは外部へは全く波及力の無いものなんです。

古川:非常に高いリテラシーを要求するような作品になってしまう。

微熱:だからシーンの内側のリスナーに向けて共感させられるような作品をつくれれば、シーンの中ですごく支持を集められるようになるかもしれない。だけど、それは単に内側へ内側へ固まっていく行動にすぎないと思うんです。

古川:夢見ているのはさ、シーンの内側へのベクトルを持っているにも関らず、その力があまりにも強まっていった結果、外に持っていったときにも何かとてもキャッチーなものになってしまうようなことって起こらないかしらってことでしょ。

微熱:ベクトルが内側に向かっているのに、外側にも受け入れられるようなことが起きないかってことですね。

古川:他の分野でもそれに近いようなことがあったりするじゃないですか。たとえばアニメでいうと『エヴァンゲリオン』とかさ。GAINAXの作品を観ていると、良くも悪くもアニメのリテラシーを要求するような表現方法だったりキャラクターデザインだったりするけど、たまにそういうものがポッとポピュラリティを得たりすることがある訳ですよね。その要因を分析すると、大体ふたつの意見に分かれるわけですよ。ひとつは、その作品が訴えているメッセージであったり表現方法だったりが、実はポピュラリティを持っていたという解釈。

微熱:コアな表現なはずなのに時代に求められていた表現だったってことですね。

古川:そうそう。で、もうひとつの解釈は、実はオタクの人っていうのは思ったよりたくさんいて、あたかもマスに受けているように思えるけど、それは単にマスの中に無視できないほどのオタクの人がたくさんいただけ、という考え方。このふたつの分析がエヴァが受けた当時もあった訳です。で、どちらもそれなりに説得力あるなぁと思うんだけど、それをラップに当てはめたとき、日本語ラップはなにせ「日本語」というメジャーもメジャーなプラットフォームを媒介にしているわけだから、それがうまいこと作用して外部の人にもウケたりしないかなぁと思っているんだけど。

微熱:たとえば不良ラップの流れにありつつも、外側のリスナーにウケる可能性はないか? と。意識的に外側へベクトルを向けるではなく。

古川:そうね。まぁ外側へのベクトルを向けて行くにしろ、それをどう戦略的にやっていくかでアーティストそれぞれ底の浅さが見えたりして、それはそれで面白かったりするんだけどね。たとえば、今もてはやされたりしてるような路線に露骨に寄り添うような人もいるけど、それはやっぱりどうかなぁって思ってしまうし。そりゃ短期的に見れば有効なのかもしれないけど。

微熱:その表現が結果的に外部へ受け入れられたとしてもそれがどうなるんだ? ってことですよね。その底の浅い表現が外側でウケたとしても、もしかしたら商業的に消費されるラップが1つ増えただけかもしれないという話で。

古川:そうですね。

微熱:まぁアーティストの生活がかかっている話でもあるから無下に否定するのもはばかられるんだけど、シーンの内部の表現を知っている一リスナーとして見ても、シーンで培われた豊潤な表現があるのに、単純に商業的なフォーマットに吸収されていくのは見ていて面白くない。

古川:あまり面白くはないよね。
 あと、09年~10年とシーンがどうなっていくか? という話にも繋がっていくんだけど、シーンの内側ではもっともっと高い表現が要求されていくんじゃないかと思ったんですよ。NORIKIYOとかANARCHYだったり非常にレベルの高い作品が08年には出たわけで、日本語ラップの歴史を踏まえて見ても素晴しい作品だったんだけど、ではそういう枠組みを外してみた場合どうだったのか。そう考えていくと当然、まだまだ進化の余地はあるよね。

微熱:あぁ、なんとなくわかるなぁ。08年にTHUG FAMILYって出たじゃないですか。

古川:僕は試聴でしか聴いてないけど。

微熱:THUG FAMILYってあれを楽しんで聴く人と、完全に否定にまわる人がいるわけですよ。で、THUG FAMILYは一体何をやっているかっていうと、アメリカのギャングスタ・ラップの完コピなんです。銃で人を脅すという話や、ハスリングで金儲けするという話に焦点をあてて、尚且つインタビューでは海外のアーティストが言っているように「ヒップホップで金儲けしたら慈善事業をやりたい」というような発言をする。一言で言ってしまえば、それってアメリカのヒップホップの物真似なんだけど、それを聴いたときに完全に否定してしまう人がいるというのはそれだけ日本語ラップがアメリカのヒップホップから独立して独自の価値観を育んでいるということの証明になるんです。いままでの日本語ラップって、俺イズムや押韻みたいなアメリカからのヒップホップの価値観をあえて認めてしまって楽しんでいくような土壌から出来上がってきたもののはずなのに、いまもう一度アメリカのヒップホップの価値観みたいなものを日本語ラップに取り入れようとしたときに物凄くいびつで異質なものに見えてしまうというのは、それだけ日本語ラップがアメリカのヒップホップから完全に外れたオリジナルなものになっているということだと思うんです。……まぁTHUG FAMILYを例に取って言うのはあまりに胡散臭いかもしれないけど(笑)。でも、ああいうものを認めて出来上がってくる新しい表現や価値観というものはあると思っているんです。

古川:THUG FAMILYはなぁ。アメリカ・ヒップホップの直輸入って言っても、なぜ今この時代にあんなに無検閲で輸入されちゃったんだろう。

微熱:(笑)。Microphone PagerとTERIYAKI BOYZがほぼ同時期にアルバムを出したということも示唆的ではあるんだけど、Microphone Pagerって元々はアメリカのシーンに認められるような作品をつくろうとする理念があったはずなんです。それが09年初頭になって日本語ラップのシーンを守ろうとする動きに方向転換されてしまっていて、かえってTERIYAKI BOYZの方がアメリカのヒップホップの要素を取り入れて、アメリカのシーンに受け入れられるような作品をつくっている。で、それぞれの作品を認める人と認めない人がいるという構図がある。
 でも、私はアメリカのヒップホップの単純な輸入であったとしても、いままでの日本語ラップの価値観とは違った視点を取り入れるような動きはあってもいいと思うんです。それがまた新しい物を生む可能性を秘めているかもしれない。TERIYAKI BOYZとTHUG FAMILYを例に取ると全然説得力がないかもしれないけど。

古川:インターネットの話ともちょっと絡むけどさ。自分の触れた範囲のものが全てだという考えには陥りやすいけど、アメリカのヒップホップに象徴されるような、自分の触れる範囲の外にある価値観に対してあこがれたり、模倣するような行為はすごく大切なものだと思う。前の鼎談で磯部が言っていたけど、日本語ラップの生命力のひとつがアメリカとの距離の取り方にあるというところは未だにあると思うし。そういう意味では、TERIYAKIとSEEDAってやっていることだって結構同じなんですよ。だから彼らがやっていることはシーンに対してもフレッシュだし、個人的にも支持をする。
 ただ、ちょっと話がズレるんだけど、NORIKIYOとか、ANARCHYとか、彼らはすごく社会的な存在だと思うんです。日本のいまの世相だったり、若者たちが置かれている社会状況を代表し、代弁して、若者たちの共感を得て、だからこそ評価もされて08年の屈指の作品だと言われている。だから彼らを「社会的」だと言ってるんだけども、だけど今後どうなるかと考えたときに、彼らが社会的な存在であるということは当然のこととして、そこに加えて芸術的な価値を付加するような動きがはじまるんじゃないかと思うんです。すごく漠然としているけど、そういう風に思っています。

微熱:サイプレス上野とロベルト吉野や、COMA-CHIの動きは近いかもしれない。

古川:かもしれない。音楽としてより洗練されていくような動きが起こるような気がしています。ちょっと前に伊藤君(Amebreak編集長)と「何のアルバムが良かった?」というような話をしていて、「実はあのアルバム凄かったよね」って話していたのが、Nippsがやっているユニットなんだよね。

微熱:TETRAD THE GANG OF FOUR。

古川:あの名前をいまだに覚えられないんだけどさ(苦笑)。あのアルバム、音が本当にいいんだよ。KEN SPORTSがトラック・メイキングとエンジニアリングもやっているんだけど。やっぱりまだまだニューヨークのヒップホップって凄いんだなぁ、と思わざるを得ないような音の良さ。これは日本のヒップホップが向かう一つの方向を示しているとも思うんだよ。BLだって、トラックの作り方とかトータル的なプロデュース・ワークが注目されているかもしれないけど、音質の良さの面だって評価されている対象な訳だし。

微熱:どうなんでしょうね。音質の良さが共感で繋がるシーンに対抗しうるのかなぁ。若干違和感ありますけど。

古川:いや、音質の良さはひとつのたとえで、もっと芸術的に洗練されていくんじゃないかってことだね。音楽としてもっと聴きやすさだったり、面白さだったり、単純にメロディが素晴らしいというところから、ディティールの面でも音質がすごく良いというところまで、色んなレベルの話まで含んでしまっているんだけど、音楽としてもっとバラエティや実験性や面白さを志向していくベクトルは強くなっていくんじゃないかなぁということ。

微熱:みんながみんなストーリーとしての共感へ振れてしまったときに、そこに付加する価値をどこに見出すか? ということですね。

古川:簡単に整理するとそういうことかな。リリックの内容そのものでセンセーショナルな内容を追求するのは必ず頭打ちが来る。実は08年に個人的に注目していたのは、その付加価値の部分で。僕がBRON-Kが好きだって言うのも、『奇妙頂来相模富士』はまずトラックが素晴らしいと思ったからなんだよね。
 あまり詳しくは追ってないけども、アメリカのヒップホップを見ても、「現在のトレンドはコレ。それに対するカウンターがコレ」みたいなのって、4~5年前に比べてもだいぶぼやけてきたと思う。

微熱:アメリカのヒップホップは蛸壺の最たるものですからねぇ。

古川:日本だってどんなトラックでどんなラップをしても「これがメインストリームだ」というようなことを言いにくくなっている。

微熱:リリックだけではなくて、音楽性としての共感というのも私はあると思います。初音ミクをつくった佐々木渉という人が言っていたけど「日本のオタクはアブストラクトやエレクトロニカの音像に惹かれやすい」と。自分が00年前後にアンダーグラウンドヒップホップにハマった人間だからよくわかるんだけど、アブストラクトとかエレクトロニカのトラックに共感する人というのは必ず一定数いるんです。だから音楽性という面でもそういう方向で支持を集めるアーティストがいたとしても不思議じゃない。

古川:へぇ。

微熱:08年で言うと意外と支持を得ていたのが、Haiiro De Rossiとか環ROY。彼らが支持を集めたというところを見ても、アンダーグラウンドやジャジー・ヒップホップ的な要素は不良ラップとは別の方面から共感を受けているんじゃないか。術ノ穴まわりとでも言うのかな? トラックメイカーで言うと、EccyやFragmentやMichitaだとかOlive OilやDJ DOGGとかになってくるんですけど、彼らが作っている音楽はラップの面で言うと共感を呼び起こすようなものではない。特にHaiiro De Rossiはジャジー・ヒップホップの音像を映像的な歌詞に還元してラップするスタイルなんです。彼もリリックで言っているけど、一枚の絵を描くようにジャジーなビートそれ自体をラップで描写してみせている。そういった意味ではリアル志向のヒップホップと真っ向から対抗するようなラップ・スタイルで、ひとつの表現方法としてとても面白かった。小林大吾にも近いんだけど、もっと風景画っぽいイメージ。
 あと面白いのがキリコの『BLAST』。キリコが面白いのは、彼の理屈が「俺を理解できないお前らがワックだ」という言い方で成り立っているところなんです。キリコはキリコに共感できない人を攻撃する。そしてそんな彼の言い分に共感する人が出てくるというネジれた構図。共感でつながっているいまのシーンを踏まえると、彼の言い分はすごく面白い。こういったところで、08年はリアルヒップホップとは別の方面で楽しめるところが個人的にはあったんですけど。

古川:そうですね。僕がコミットしていないだけで、Shing02とかCandleとかECCY周りのアンダーグラウンド・ヒップホップも端から見ていて動きを感じるものね。実際売れているらしいし。

微熱:蛸壺のひとつに過ぎないかもしれないけど、全く違った価値観で作られているという意味でも面白いですよね。実際、不良ラップがリリックの内容――つまりラッパーに対する共感で繋がっているのに対して、アンダーグラウンド・ヒップホップはトラックメイカーを中心に成り立っているんですよ。

古川:なるほど、それは確かにそうかも。トラックメイカーの比重が高い気はするね。さっき言っていたトラックメイカー同士で繋がりもあるみたいだし。

微熱:あと共感で繋がるシーンというものを考えると、さっきマイクリレーが流行っていないという話をしましたけど、クオリティの高いマイクリレー物が出てきたらどうなるのか?ってところは気になりますね。Nitro Microphone UndergroundやThink Tankみたいな人たちがすごくクオリティの高いマイク・リレー物のアルバムを出したり、SAG DOWN POSSE(以下SDP)が自分達のリアルを売りにするんじゃなくて過去に出していたようなパーティーチューンのラップで作品を出したときにそれがどういう評価をされるのか?

古川:SDPはちょっと前に彼らがやっているSAG DOWN TVの中でマイクリレー物を発表していましたね。マイクリレー物のひとつの醍醐味はWu-Tangなんかもそうだけどキャラクターがはっきり認識できてからのほうが面白いじゃない?

微熱:あーそうですね。ニトロとかもそうですしね。

古川:そうそう。SDPに関してはそういう面白さを既に獲得していましたね。SDPの初期ってなんだかよくわからない人たちがうじゃうじゃいる“ワヤ”な不透明さが面白かったわけだけど、08年を経て聴くと全員のことがわかるのでまた違った感じで楽しんで聴けましたね。

微熱:彼らの色んなバックグラウンドをわかった上でマイクリレーが堪能できるという。

古川:SDPがもし09年にアルバムを出すならまた違う感じで聴けるはず。
 ……話変わるけどさ、日本語ラップの芸術面がもっと洗練されていくんじゃないかっていう話に繋がるんだけど、SDPはSDPでもスチャダラパーの新譜(「11」)が凄くいいんだよね。若い子たちの間でも、ここ数年のリアル・ラップに対してカウンターになるような動きが今後絶対起こってくるはずで、そうなった時に再び、スチャのストーリーテリングの魅力だったり言語感覚、そもそもの視点の面白さとかがクローズアップされてくるんじゃないか。

微熱:へぇ。

古川:何度目の再評価か分からないけども、スチャはまたシーンからプロップスを集めることになるんじゃないかな。

微熱:いま古川さんの言っているストーリーテリングって、リアル志向と作品主義で言ったらどっちの話になるんですかね?

古川:というと?

微熱:たとえばANARCHYの『Dream & Drama』がわかりやすいと思うんだけど、彼は実話というより架空の話を入れてますよね? でも、彼の立ち位置に置かれている話と近い作り話なんです。だからリスナーは共感できるんですけど、そういうものを指してます?

古川:あくまで土台はリアル志向だと思うよ。リアル志向をベースとしてストーリーテリング的な要素が付加されていくようなイメージなんだけど。架空の人物だったり、架空の世界を設定しつつ、その中に自分のリアルを落とし込んでいくというような。
 でもね、それってフィクションの難しさとモロに直面することになるわけで、ごまかし効かない場所で戦うってことだから、要求されるレベルも当然高くなるし、大変っちゃ大変なんだけどね。

微熱:面白い作り話を聴かせるというのはスチャだけでなく、RHYMESTERとかが昔からやっていることだけど、あのレベルのものが出せるのであれば確かに否定はできないとは思います。

古川:そうなんですよ。いま日本語ラップが面白いといったところで、じゃあ08年に話題になったアルバムを一般人に聴かせてもあんまりビックリされないんじゃないかという気もしているんだよね。逆に「こんなもんか」と思われるかもしれない。確かにこんな環境の中でこういう若者がこんなことを考えながらラップをしているという事実は、社会的な意味で見たら面白い。だけど、彼らの曲をひとつの作品としてフラットな場所に引きずり降ろして見た場合、まだまだ上はあるんじゃないかと思う。例えば、現代の文学として、とかさ。自分たちの言葉を駆使して自分たちの物語を作っていく地点まで辿り着いたとき、どうなるのか? 少なくとも僕はそういう基準で期待して聴きはじめているし、いまのシーンを追っている人たちは作品のレベルが上がってくるにつれ段々そういう基準で聴くようになってくるんじゃないだろうか。次はそこがひとつの基準になってくると予想しているんだけど。鬼が評価されているのってそういうことだと思うんだけどね。鬼はやっぱりすごくリリカルだし、言い方も含めて面白いから。

微熱:でも、鬼ってフィクショナルなラップをしていることも無いと思いますけど。ばりばりリアル志向というか。

古川:それはそうですね。でも言い回しとかの部分が洗練されている感じはするんだよね。センセーショナルな実体験を吐露することのスゴさというよりも、その先に行っている気がする。鬼とか神戸薔薇尻とかね。

微熱:田我流も同じような印象なんですかね?

古川:田我流はちょっと違うかな。田我流は「地方の闇ってこんな感じなのか!」というようなところが伝わってくるところが面白かった。

微熱:私は鬼と田我流の面白さって似ていると思っていたんですけどね。彼らを取り巻く環境の面白さというか。鬼は本当に最底辺のやさぐれた環境でうっぷんをかかえていたところが噴出しているような面白さだし、田我流は古川さんがおっしゃっているように地方にいることの出口の無い圧迫感みたいなところが面白いわけだし、実体験をベースにしているからこそ面白いんですよね。
 たとえば田我流の曲で”墓場のDigger”という曲があるじゃないですか。地方の掃き溜めのようなレコ屋で糞なレコードを掘って良いネタを探すっていう内容の曲。あの曲を聴いてから田我流の『JUST』を通して聴くと、あのアルバムって全体的にチープなトラックなんだけど、そのチープこそが地方のリアルをあらわしているような感じもするんですよね。だから彼らの実体験がベースになっている部分はすごく大きいんじゃないかと思うんですが。

古川:田我流はまさしく実体験をベースにした面白さですよね。僕は“墓場のDigger”ってPV含めてすごく好きな曲なんですけど。でも、鬼はその例でいくとちょっと違うと思います。だって鬼ってさ、曲によってはすごく政治批判みたいなことも言うじゃん。自分の生活から得た鬱屈とか怒りとかの原因を見極めようとするような姿勢からしても、自分の抱える問題をもっと普遍的なところまで持っていこうとする意思を感じるんだよね。

微熱:あぁなるほど。自分の生活に根ざしたものの先にあってもっと付加価値のある表現をしようとしていると。

古川:田我流が自分の実体験に根ざしたことをラップすることで支持を得ること、今日の言い方で言うとリスナーから共感を得ることはあるかもしれないけど、それははっきり言って結果論なんですよ。時代的にそれに感応する人が多かったというだけに過ぎない。でも、鬼が志向しているのは結果論ではなくて明確に問題を見極めて告発しよう、換言すれば問題を普遍化しようとする姿勢なんだよね。そういう意味で、田我流と鬼はやっぱり違うと思うし、僕が言っているのはそうした普遍化を志向する作品こそシーンの外側にいる人たちが聴いても耐えうる強度を持っているだろうし、そういうものが将来的に支持されたり増えていったりするんじゃないかってことなんですよ。

微熱:普遍的な問題をリスナーに提示してみせるというのはK DUB SHINEやRHYMESTERもやっていたことだけど、鬼も正にそういう志向を持っていますね。自分の問題を掘り下げるという意味ではBESも同じ。BESが『Rebuild』で提示したのは自分の本当の問題は環境にあるのではなくて自己の内面にあるということ。自分の内面が成長しないとより良い生活をおくれないんだというようなことを言っていて、それも鬼と同じように誰にでも通用するような普遍的な問題を提示しているんです。
 だから、シーンの内側へベクトルを向けつつ、シーンの外側へも影響を与えられるような音楽を作る方法として、自分の問題を追及していくというものがあるということですよね。昔スチャダラパーがやっていたような問題提議をいまのリアル志向の日本語ラップのフォーマットにのっけてやることができる。

古川:そう。アップトゥデートな形でね。

微熱:ようやく今日の話の結論っぽくなってきたところ恐縮なんですけど、もう一度日本語ラップ・シーンの再生の動きについて話させてもらえないですか?

古川:いいですよ。

微熱:いままで話していたように『BLAST』文脈というものが消失しているというのが私のいまのシーンの見方で、その文脈消失に対するカウンターとしてMicrophone Pagerが復活したり、Zeebraの“Jackin' 4 Beats”を代表としてシーン回帰的な曲をリリースするような動きがあったと思っているんですけど、古川さんはこの意見についてどう思います?

古川:はじめてその動きを意識したのはステルスの『白い三日月』に入っている“マイク中毒pt.2”なんですけど、その頃からシーン回帰的な曲ははっきり言って嫌いです。

微熱:どういった理由で?

古川:これは個人的な趣味趣向の話なんだけどね。日本のラップには常に前を向いていて欲しいと思っているんです。近過去に黄金期を求めるような姿勢は自分の中でヒップホップ的ではないものだと思っているので。ただ、その手の曲が一時期にバッと出てきたというのは何かの時代性を反映しているんだろうなとは思うけど。

微熱:消えていってしまっている価値観を残す為に敢えてそういうことをやっていたとしても意見は変わらない? いままで長年培ってきた価値観を残そうとしたがためにMicrophone Pagerはわざわざ復活して、あれだけの人たちを集めて作品をつくったと思うんですよ。

古川:そうだなぁ。まず、イデオロギーと作品のクオリティは分けて考えたいよね、当然のことながら。その志自体は意義があるとは思います。ただこればっかりは好みの話になっちゃうけど、どうもリバイバル的なもの、原点回帰的なものはあまり信用出来ないんですよね。
 あと、過去の持つ意味を見つめ直すことと、過去のシーンをもう一度、というメッセージは、似てるようで違いますよね。後者には特に共感出来ないな。今のファンや今のテクノロジーに即した形で新しい表現方法を模索したほうが建設的でしょう。『BLAST』だったりさんピンだったりが果たした役割をブラッシュアップするならまだしも、それをそのままリバイバルするような動きは僕がヒップホップに求めるものとは別物なんです。

微熱:なるほどなぁ。

古川:実際どうなんだろう? みんなそこまでそういう物を求めているのかな?

微熱:まぁそこにアーティストとリスナーの温度差がもっとも顕れていると思うんですけど。

古川:リスナーはそこまで求めていないんじゃねーの?っていう気がするな。

微熱:『王道楽土』も酷評を受けていますからね。
 でも、消滅していくシーンなり価値観なりに対するカウンターの動きがそこまで言われるほど意味のないものなのか? というのはずっと持っている疑問で。まぁ私の個人的な話になってしまうけど、ブログであれ日本語ラップについての文章を書こうとしていると結構シビアな話だと思うんですよ。言ってしまえば共感で繋がるシーンには批評は必要ないんです。自分が共感できる話がどっかにあればいいだけだから、好きだの嫌いだのを適当にもっともらしく書いた感想文さえあればいいんです。でもそんな行き当たりばったりの感想文だけでは語れない、批評できないものがあるんです。Microphone Pagerの『王道楽土』だってバックグラウンドを知っているからこそ面白いわけじゃないですか。いままでTWIGYはハードコア主義的なところから離れたオルタナティブな作品をつくり続けていたのに、09年のこの時期にシーンに回帰してきたというところに意味を見出すから面白い。アーティストや作品を読み解くには、みんなが共有できる文脈(価値観)が絶対に必要なんです。だから、それを単に「共感できる/共感できない」のレベルではねのけてしまうのは生理的に違和感がある。

古川:文脈、別の言い方をすると高度なリテラシーの必要な作品と、そういうものではなくて時代へ開かれた作品がある。僕はたまたま長く日本のヒップホップを聴いてきたので、それなりにリテラシーを要求するような作品でも楽しみ方はわかる。でも、例えば僕は映画のリテラシーをあまり持っていないので、映画の見方はわからなかったりする。そういう感覚ってどんなジャンルでも誰しもが持つものだと思うんだけど、僕の個人的な趣向としてはその時代に開かれた、なるべくリテラシーを必要としない万人に開かれた作品が好きなんですね。

微熱:リテラシーを必要とするものって、要はアカデミックなものなんですよ。エンターテイメントとアカデミズムは相反するものだと思っているんですけど、アカデミズムの最たるものが芸術。アートです。あれは歴史や価値観やトレンドを理解している人にしか作品の持つ真の意味が通じないものになっている。だけど、そういったアカデミックな知識をきちんと持っている人にはアートの長い歴史を踏まえて、作品の持つメッセージを深く読み解いて楽しむことができる。逆にエンターテイメントに直結しているものは、リテラシーを全く必要としない、誰しもが同じように楽しめるような万人に開かれたものなんです。そのどちらが良いか? という話はそれこそ個人の価値観の話に傾いてしまってあまり意味がなくなる気もするんですが。

古川:僕はどちらの価値も認めているつもりだよ。映画に関してはリテラシーが無いから幅広く開かれた作品を好むけど、ラップに関してはものすごく間口の狭い作品でも理解するツボを知っているし。たとえば、マイクアキラの『RAP IDOL』なんてアルバムがありますけど、あんなもの普通の人が聴いたら単に不快ですよ。

微熱:確かに(笑)。

古川:でも僕はマイクアキラに対するリテラシーをふんだんに持っているため、「しょーがねーなー」とか言いながらも楽しめるわけですよ。だからどっちの価値も認めているつもりなんだけど。

微熱:確かにマイクアキラをここ数ヶ月で日本語ラップを聴き始めた人が理解できるわけがない。

古川:理解できるわけがない。そして理解する必要があるとも思えない。

微熱:(笑)。でも、「理解できない」と言われたときにどう受け止めるかという姿勢も大事だと思いますよ。別にマイクアキラの話じゃなくて。

古川:それはそうね。共感出来ないものなら退けてもいいんだ、という態度を良しとしたいわけじゃないんだ。

微熱:これは推測に過ぎないですけど、日本語ラップ・リスナーの大半には諦念があると思います。商業的なラップがこれほど巷に氾濫していて、TVの中でも芸能人が鼻歌のようなものをラップとしてうたっていたりする。それを真っ向から否定することはやっぱり骨が折れるし、実際に自分の周りの人へ説明することでさえ難しいんだから、あんまり誰もやりたくないものでしょう。その現状を受け入れたうえで皆は線引きをしているはずで。でも、Microphone PagerやZeebraは皆が諦めてやろうとしていないことを敢えて抗ってみせている。いまの時代だからこそ、それはすごく意味のあることだと思いますけどね。

古川:そもそも線引きをしてみせることに無力感を覚えはじめている時期に、そういった線引きをしようとする姿勢そのものは否定するものではないと思いますよ。だからこれはやっぱり個人的な好みの問題かなぁ。「昔は良かった」という物言いがまず好きになれない、ということです。

微熱:確かに。非常に後ろ向きですからね。

古川:理想としては、作品そのもので説得力を示してもらいたい。いちいち昔のことを持ち出さなくても作品に魅力があればそんな線引きなんかおのずと明らかになると信じたい。
 あと、「ヒップホップとは何なのか?」ということが意外と世間に知られていないし、語られてもいないんだけど、僕はそういう論の部分で線引きして欲しいと思うんです。「ヒップホップの魅力とはこういうものだ」とか、「ヒップホップではこういうことが出来るから普通のPOPミュージックと違うんじゃないか」とかさ。

微熱:ネガティブな線引きじゃなくて、もっとポジティブな線引きをして欲しいということですか。

古川:血統主義で語って欲しくないということかな。「あの時にあの場所にいた」ということはとてお大切なことではあるんだけど、そのロジックをこれ見よがしに振りかざすと排他的に見えてしまうでしょう?

微熱:ポジティブな線引きというのは、韻踏合組合がやっていたものですよね。別に彼らはハードコア主義みたいなものを打ち出して、自分達こそが純血な日本語ラップだと線引きをやっていたわけではなくて、押韻の楽しさみたいな自分達の価値観を提示して、他の音楽との線引きをしていたわけだから。

古川:確かにそうですね。だから、いちリスナーとして作品そのものの説得力で線引きをされる瞬間を見たという記憶があるからかもしれない。特に韻踏やMSCはそれこそ過去から断絶していたから良かったわけでさ。要はHomebrewerみたいなものをやっていたこともそうなんだけど、過去のシーンの価値観云々ということではなくて、もうちょっとポジティブな転換方法を見つけていきたかったんですよ。
ただ、過去の日本語ラップを振り返るというのも、かつてのシーンに対する愛情とか愛着の顕れだから当然否定することはできないんですけどね。

微熱:若い人たちにこそそういう懐古趣味的な志向は持って欲しくないというのもありますよね。

古川:持って欲しくないね。10代の子達が「さんピン、アツイっす!」とか言っていたりすると、なんだかなぁと思っちゃう。
 あと、雑談レベルの話なんだけどさ、S.L.A.C.K.というラッパーのアルバム聴いた?

微熱:あぁ聴きました聴きました。

古川:あれ、すごい好き。

微熱:古川さんが好きそうなアルバムですよねぇ。

古川:それこそ伊藤君にも同じことを言われたんだけどね。「古川さん好きだと思うんですけど」って。

微熱:リリカルですよね。音質的にも似ているから余計そう思うのかもしれないけど、ILL SLANG BLOW'KERに感じていた魅力がある気がする。

古川:伊藤君は「QUASIMOTOっぽい」って言っていたけど。あの感じは新鮮でしたねぇ。僕は元々08年の作品でMONJUが好きだったんですよ。MONJUのどこが良いかということを誰かに説明するのもすごく難しくて困っているんだけど……。トラックが派手なわけじゃないし、音が良いわけじゃないし、言っていることがセンセーショナルなわけでもない。だけど僕に言わせれば、あれはとてもリリカルなアルバムでさ、リアル志向の日本語ラップの中でも、あのリリカル度はBESに匹敵するんじゃないかと思う。

微熱:S.L.A.C.K.を聴いていて思ったのは、リアル志向の日本語ラップの中でもすごく特殊な立ち位置だということでしたね。90年代直結なストリクトリーなトラックやラップにみえて、その中身は南部ヒップホップみたいにスローテンポでルーズ。描いている対象はとてもリアルなのに、そこに描かれているものは全く無意味。これは文学的とでも言うのかなぁ?

古川:僕もそう思った。文学的という言葉がかなり近いと思う。シーラカンスとかにも近い。で、僕はまたシーラカンスがすごく好きなんだけど。

微熱:マニアックっすねぇ。

古川:もうそれはしょうがないよね。今年にシーラカンスがアルバムを出すらしくて楽しみにしているんだけど。

微熱: GWASHIの”レースのカーテン”も良いと思う。

古川:あれも素晴らしいですよね。未だに”レースのカーテン”の話をしてる人なんて日本に4~5人くらいしかいないよ。宇多丸さんがあの曲を好きでねぇ。DJで結構な頻度でかけるんですよ。そんな人ほとんどいないだろうと思うんだけど。

微熱:リリカルですよねぇ。

古川:リリカルですねぇ。そして最近だとS.L.A.C.K.にそれを感じた。

微熱:でもあれは高度ですよ。それこそあのレベルのものを毎回リリースできたら天才だとも思うし。

古川:しかも、ああいうものを人に説明して勧めるのはすごく難しい。

微熱:だから、自分の経験を切り売りして他人の共感を得るような表現って安易だとも思うんですよ。いま、そこそこスキルがあるラッパーでウケる作品を作るのって意外と簡単なんじゃないだろうか? 勿論、表現に限界をきたしやすいという面はあるんだろうけど。

古川:08年がひとつの到達点だったことは間違いないとして、その反面、壁も見えたと思うのね。かつてMSCが社会的な存在として登場して、まさにそのこと自体に驚きがあったのに対して、いまはそれだけではインパクトはなく、いまのアーティストたちは社会的な存在であることに対して自覚的な節もあるしね。つまり、リスナーも送り手も、そこはもう折り込み済みになってしまった。

微熱:わかるなぁ。SEEDA周辺は特にその辺に自覚的だろうしなぁ。さっきまで「日本語ラップであるためにはハードコア主義であるべきだ」という線引きをする姿勢があるという話をしていましたけど、SCARSの『NEXT EPISODE』がまさにそれで。「立ち振る舞いとしてハードコア主義であるべきだ」というような志向がところどころに見えるんですよ。で、私が興味深かったのは、いろんな裏の事情があるにせよBESがSCARSに参加してなかったということなんです。前々からレビューとかでも書いていることなんですけど、いままでもSEEDAは結構ヒップホップ的なスタンスを強く打ち出しているんです。それはシーンを活性化させるようなアクションを取るところからも伺えますけどね。でも、本当にリアルを追求していった結果としてヒップホップ的なスタンスやハードコア主義的な姿勢を取ることへ行き着いてしまうのってなんか違和感がある。きちんと「リアルな表現とは何か?」を考えたときに、逆にBESがSCARSには出てこないで、1人で自己の内面を追求していったという事実に誠実さを感じるんです。

古川:実態はともかく、こちら側の見え方としてBESがSCARSの新譜に参加しなかったという事実はボーダーラインに見えるよね。そうだなぁ、BESの『Rebuild』はいいもんなぁ。アルバムとしてはすごく散漫なところがあるとは思うんだけど。

微熱:退屈なところいっぱいありますからね。作品のクオリティ面ではあんまり良いとは言えないです。

古川:アルバム単体の完成度でいえばROMANCREWの『Duck's Market』とかのほうが全然すごいと思うし。
 でもね、08年で僕の中ではちょうど一区切りなんですよ。05年くらいから始まっていたものが。で、09年は何かしらのメルクマールとなるはずのD.Oのアルバムが発売されず、今後どうなっていくんだろう? とちょっと興味あるんですよ。

微熱:09年は意外に単純に流れるじゃないかと思いますけどね。共感させる構造を持った作品が支持を集めると思いますよ。
 そういえば、B.I.G JOEの『COME CLEAN』についてなんですけど。

古川:人気あるよね、凄く。

微熱:私はあのアルバムは、リリックも30代の人が書く内容にしては稚拙だと思うし、ラップも平坦で面白味に欠けるし、トラックも言うほどバラエティが豊かで粒立っているわけでもない。だけど、『COME CLEAN』は08年の日本語ラップを振り返ると、いまのシーンに求められるツボを押さえているんです。要は、弱者の立場を打ち出した共感できるリリックと共感しやすいアンダーグラウンドなトラックを揃えている。この2つだけでも、彼が支持される理由がよくわかる。私は全然良いとは思えないけど、あれが08年日本語ラップのベストな作品だと言われても理解できる。

古川:ド象徴な作品なのか。

微熱:だから、私はその差は共感にあると思うんですよね。弱い立場にいることを前面に打ち出したリリックと、リスナーに受け入れられやすいトラックを揃えた。

古川:『COME CLEAN』はともかくとして、アンダーグラウンドのトラックメイカー至上主義みたいなところは確かにあるかもね。

微熱:やっぱりアンダーグラウンドのトラックメイカーって、アブストラクト志向なところがあるじゃないですか。佐々木渉は「日本のオタクのオタクにウケやすい」といっていたけど、アブストラクトとかエレクトロニカ系のアンダーグラウンド・ヒップホップにあった音像に惹かれる人って実は多いんじゃないかと思うんですよね。

古川:あと、アブストラクトもだけど、ジャジー・ヒップホップ好きも巨大じゃないですか。

微熱:巨大ですねぇ。ジャジー・ヒップホップに関して言うと、日本人トラックメイカーは海外ですごく評価が高いらしいですけど。センスがやっぱり違うらしい。アニメでいうと「新海誠が海外で評価をされている!」みたいな感じ。だから、ジャジー・ヒップホップで日本人アーティストが世界に羽ばたいていくというのはあるんじゃないですかね?

古川:実際、あの辺の人たちって結構海外でも繋がっているじゃない? 西海岸のアンダーグラウンドとかカナダとかのアーティストと。

微熱:Cradle Orchestraっていうアーティストがいるけど、あれも日本人のオーケストラがジャジー・ヒップホップを奏でたビートのうえで海外の有名なラッパーがラップしていたりしますからね。Black ThoughtとかTalib Kweliとか。

古川:まぁ、好きかどうかは別にしてクオリティは実際に高いとは思う。

微熱:もうそこは完全に独自の文脈ですよね。

古川:さっきから蛸壺の話をしているけど、僕は蛸壺はつまらないと思っているんですよ。僕は日本語ラップに対してはリテラシーがあるし、そういうものの愛で方もわかるんだけど、僕が一番いいなと思うのは、リテラシーがあってもなくても力強さが伝わってくる作品なんですね。

微熱:ある意味、蛸壺化するシーンに真っ向から反発するようなことをHomebrewerはやっていたわけじゃないですか? あらゆる価値観を持ったアーティストや作品をひとつのフォーマットなり文脈にまとめてリスナーに提示していたのがHomebrewerだったんですよ。私が『BLAST』文脈で良かったと思うものの1つは、彼らが「これは日本語ラップのクラシックだ!」と提示することでリスナーはそれを追うことにあるんです。たとえば、”証言”を理解できないリスナーは文脈にコミットするために、”証言”を理解しようと努力する。その過程でリテラシーが生まれるんですけど、共感できるものだけを吸収していくという姿勢は色んな分野の音楽に手を伸ばしていて、クロスオーバーに見えるかもしれないけど、実は自分の価値観に凝り固まっているだけだと思うんです。さっき古川さんは「ネット上で情報を拾うのは危険だ」と言っていましたけど、それは音楽にも当てはまると思うんですよ。

古川:こういう言い方をすると構える人も多いと思うけど、要は教育的なリスニングの紹介が弱まっているというか。教育の目標のひとつは、時間的にも空間的にも遠く隔たったものの中に価値あるものを見出すという行為の有用性を教えてあげる、というか半ば強制的に教え込ませるということだと思うんだけど、それって学校というシステムがよく顕しているように、みんな一箇所に集めて半強制的に無理やりやって初めて成立するってくらい、本来めんどくさいことなんですよね。そりゃ自分の価値観の中だけで取捨選択してるほうが楽だし気持ちいいもの。
 でもやっぱり、他者の編集した視点でものを見るというのはとても重要なことでさ。煎じ詰めて言ってしまえば雑誌はその雑誌が提示している視点を楽しむものなんですね。だけど、雑誌自体も音楽誌に限らず売れなくなって来ているし、雑誌をつくっている人もそういう自覚を失ってしまって、編集の力が弱くなってしまった。それは色んな分野での弱さに繋がってしまう。これは別に『BLAST』がどうこうって言う話じゃなくて、単にそういう役割をするものが無くなってしまったってことなんですけど。

微熱:私も『BLAST』文脈みたいな言葉を使っていますけど、別に『BLAST』に限った話じゃないし、『BLAST』がなくなったのも読者のニーズだとか時代の流れがあってのものだから単に一例に過ぎないというところは強調しておきたいです。あと、編集されるシーンみたいなものを考えると、それ自体にも賛否あると思う。編集されているものを受け取るということは、誰かしらがコントロールした物のうえで踊らされているだけだという見方もあるし、逆にコントロールされているが故に育まれていく価値観というものもあるという見方もあるわけだから。

古川:そりゃHomebrewerだって功罪の罪の部分だっていっぱいある。でも、1つのストーリーが提示されて、そのストーリーに対する反発の動きが出てくることも含めて考えると、存在意義はあるわけです。「こういう見方があるけど、これは一面的なものに過ぎないよ」というものの見方。それはつまり、さんピンCAMPの盛り上がりがあって、その次にTHA BLUE HERBが東京中心のシーンに反発する形で出てくる、みたいなことで。既存のストーリーがあって、もう一つの反ストーリーが積みあがっていく。だから、何かを編集してみせてそれがポピュラリティを得ていくということは重要なんです。でも、そういうメディアがいまは無いですね。

微熱:そうですねぇ。そしてこれからも出てこないんじゃないかと思うんですよね。いまの時代の流れから言っても。そもそも編集するっていう行為の効力そのものが薄まってきているし、読者にもそういう編集されたものへの不信感みたいなものが高まってきているだろうし。

古川:問題のひとつには、音楽マスコミの責任があるんですよ。『BLAST』で言うなら、よくある普通のインタビューなんかより、突っ込んだ企画やレポート記事、あと言ってしまえば磯部のアジテート的な物言いだったり、そういうものがあの雑誌の魅力であり推進力でもあったわけですよ。でも、今の音楽雑誌はどうしたってレビューとインタビューが中心ですよね。読者はそういうものだと思ってるし、音楽ライターも編集者の人もそれが仕事だと思ってる。それ以外の発想が生まれにくくなってると思いますよ。で、送り手が何も提示していないから、読んでも興味ないような記事ばかりが載るようになって、音楽ジャーナリズムはゆっくりと死に向かって行くんです。

微熱:そして結局は共感できる音楽が支持される世の中になっていくと。

古川:そう。読者がメディアを信じなくなって、自分が好きなものを自分の力だけで選べているような気になってしまう。

微熱:音楽ライターとか編集者にとって必要なものって何なんですかね?

古川:独自の価値観を提示することでしょうね。それはレビューにしろインタビューにしろ。バックボーンとして自分なりの価値観があって、それの表出としてその文章があるという形になっていないと、場当たり的なものになってしまうでしょうね。
 あと、文章が上手いに越したことはないです、これは絶対。良いことがいくら書かれていても、文章が下手では読ませる力がないですから。自分よりあからさまに馬鹿だと思うような文章を読みたくないでしょ、普通は。

微熱:そうですねぇ。

古川:いまZINEとか流行ってるとか聞くじゃないですか。まぁ言っちゃえば雑誌形式の同人誌のことなんだけど、最近盛り上がっているということを聞いていて、ネットがこれだけ行き渡った中で紙媒体に戻ってくるという感覚はなんかわかる気がするんだよね。たとえば、日本語ラップのハードな批評ファンジンが売られてるって聞いたら僕は間違いなくそれが売ってる場所に買いにいくだろうし。でもって、場所っていうのは実は<論>と同じくらい重要だったりもするしね。
 紙メディアが持っているある種の小ささや狭さというのはひょっとしたら何かのパワーを持つようになってくるのかなぁ。すごく局所的なんだけど、それが悪いんじゃなくて、局所的だからこそ行きわたる価値やパワーみたいなものがもしかしたらあるのかもしれない。

微熱:同人誌なぁ。私も書いて文学フリマとかに出そうかなぁ。
ちょっとそろそろまとめに入ろうと思うんですけど、09年以降の日本語ラップってどうなると思います? 09年は08年を踏襲した感じで動きは予想しやすいと思うんですけど。

古川:08年が区切りの年なのは間違いないと思ったんですね。ここ数年で注目されていたアーティストが軒並み良作をリリースしたので、この先を模索する動きがまた何年か単位で始まるのかなぁと思ったのが1つ。

微熱:はい。

古川:もう1つ思ったのは、そういう模索する時期が来るとしてどういう方向に行くのか? ということ。もっと普遍性の高いものとか、芸術性が高いものをリスナーとしては求めていくんだろうけど、でも実際にやっている人たちからするとマーケットの問題が大きいものだと思っていて、そういう問題を踏まえたときに皆どういう方向に行こうとしているんだろう? 既存の売り方や既存のマーケットへ自分をスライドさせていくというやり方でそれはそれでわかるんだけど、じゃあNORIKIYOやSEEDAやANARCHYが既存のマーケットに寄り添っていくのかといったらそうは思えない。だとすると、やり方としてはいまの日本語ラップ・マーケットの裾野を広げていくしかないわけだから、彼らはそういう動きを積極的にしていくんだろうか? それともマーケットの成功に意味を求めない方向に行くんだろうか? 作品のクオリティを別としたときに、商業的にこの先を目指していくとすると皆が何を目指しているのかに興味がある。

微熱:たとえば、ニコ動から見出されたらっぷびとというアーティストがいて、こないだメジャー・デビューをしましたけど、彼が商業的な音楽をやっていることには全く面白さを感じない。ニコニコ動画でアニソンをカヴァーするというイリーガルな面やニコ動の中で皆で盛り上がれるようなところに彼の面白さはあったはずで、彼の純粋なラップ楽曲を商業的なフォーマットにのっけてリリースさせたところで、たくさんある商業的なラップ音楽がひとつ増えただけで面白くもなんともない。あるいはCOMA-CHIの『RED NAKED』には彼女のパーソナルな部分が前面に出ていて、尚且つ日本語ラップの文脈に沿ったラップ・スキルや音楽性も備わっているから作品としてもクオリティが高い。だけど、その共感のベクトルが今後外に向けられていったときにリリック面でも音楽面でも作品の内容がJ-POP化していくのであれば、それも商業的なラップ音楽がひとつ増えただけに過ぎない。要はもう出来上がって確立されている商業音楽の手法やマーケットのフォーマットに吸収されているようにしか見えなくて、そんなものは日本語ラップ・リスナーとしては面白くもなんともないんです。

古川:そうですね。

微熱:じゃあ日本語ラップ・シーンの裾野をどうやって広げるか? ということですけど、それにも限界があると思う。なぜかというと、彼らはシーンの内側に対してメッセージを発しているだけで、内輪にしか通用しないジャーゴンを扱っているだけだから。いまのハスリング・ラップの持つイリーガルな面なんかも特にそうですけど、それは一般的な認知として広がるものではない。とすると、一番有りうる線としては、ジャンルが様々に蛸壺化したひとつの小さい蛸壺のなかで細々とやっていくということなんだろうなと思うんです。

古川:そうだね。内側に向けたジャーゴンしかうたっていないわけだから裾野の広がりようがないと思う。あと、ハードコアなラップが一定以上の聴衆に認知されるようになると、今度は歌詞の内容やサンプリングのクリアランスまで、どうしたって含まれるイリーガルな要素とどう向き合って行くのか? という問題が浮上してくるし。
 だけど、08年が僕らを含めて一通り行き着いた年だという認識はあると思うんですよ。そうすると、やっぱりファンの方はその先を求めるじゃない? そうすると色々と生まれてくるような気はしているんだけど。

微熱:仕掛けとして日本語ラップを売るというのは簡単だと思うんです。そこそこのラップ・スキルがあって、リリックに共感させる構造をつくればある程度支持を得ることはできるはずなんです。でも、それはさっき言ったとおりひとつの蛸壺の中で局所的な支持を集めているだけに過ぎない。じゃあその現状を打破して、シーンの裾野を広げるにはどうすればいいか? 今日の復習みたいになりますけど、リアルな表現を追及するのならば、そこに抱えている問題まで掘り下げて言及すればいい。誰しもが抱えているだろう問題を提示することで、シーンの外にまで届きうるような幅広い影響力を持った作品になるのではないか?

古川:そうですね。そしてそれを伝えるためのメディアがあれば、そのメッセージがよりスムーズに伝わると思うんだけど。

微熱:あるいはそう簡単に支持を得ることはできないかもしれないけども、ヒップホップ的な価値観というものはもっとたくさんあるのだからそこに目を向けていくということも、新しい価値観を育んで新しいものを作っていくうえで大切なのではないか? 押韻みたいな価値観がそうだったように。

古川:あと、社会情勢的な話と絡めるんであれば、3~4年前くらいまでは勝ち組/負け組みたいな構図があったけど、08年以降は総負けみたいになってきたじゃないですか。

微熱:勝ちが無いっすよね。

古川:ちょっと前まで勝っていた人が負けてきているしね。だから、どん詰まり感みたいなものがもっと支配的な空気になってくると思うんだけど、その中でじゃあ日本語ラップが何を歌うかだよね。S.L.A.C.K.あたりはそういった意味でも面白いと思ったんだけど。
 少なくとも08年までは負け組/勝ち組という構図の中でヒップホップは生命力を得ていたところもあるけど、それが08年を境にみんな負け組となって、それじゃあこれからどういうことを歌うのか。

微熱:いまは勝ちを目指すという姿勢そのものに説得力がないですからね。

古川:ファック・ヒルズ!みたいな価値観がもう古くなってきているからね。

微熱:早いですね。

古川:早いよ。でも、実際に社会情勢がそれくらいのスピードで移ってしまったからね。だから、社会的な存在としての日本語ラップが何を表現するのかしばらく注目したいと思っているんだけど。

~おしまい~