Wednesday, June 16, 2010

ECD - TEN YEARS AFTER






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23歳まで万引き常連。37歳まで童貞。コカインはダメで酒にはしって、気がついたらアル中。金はあるだけ遣って、気がついたら貯金ゼロのバイト暮らし。

インタビューでECDは「そういうのがラップなんじゃないか」と言っているけども、50歳のラッパーが力いっぱい声を張り上げてただただどうしようもなかった自分のことをラップしているということがまずアヴァンギャルド過ぎる。割れてひずみながら耳に鋭く差し込むサウンドと、一言一言はっきり力強く進むラップ。そして自分のいままで歩んできた道筋と、現在の自分の生活。そのすべての表現は"ヒップホップ"に他ならないのに、それでも聴いた後に言いようの無いしこりが残るのは、それをラップしている本人があからさまに冷めていて、自己愛みたいなものと全く無縁なところにいるからだろう。自己肯定もなければ、自己否定もない。どこか遠くに放り出されたECDのことを、ECDがラップしている。

サウスを消化した不安定なメロディを持つビートが『TEN YEARS AFTER』が持つ不気味さを引き立てているところも見逃せない。その不気味さの核になっているのは、「とーくには行けないわけがある」("I Can't Go For That")や「軽くしたいとは考えないのは放り出したらまたひとりだから」("Alone Again")や「家から職場職場から家 / その往復は仕事とは言え / あまり楽しくは、ならやめちゃえ」("今日の残高")などの言葉の裏に垣間見れる"すべて投げ出して独りでどこかに行ってしまう"ことへの憧憬だ。妻と子供が支えるECDのポジティブ、そしてその端々に見える生活のリズムの不安定さの絶妙なバランス。なによりECDが表現する家庭の不気味な"重さ"は『TEN YEARS AFTER』に欠けた自己愛の重さに代わり説得力を帯びさせる。

金・仕事・家庭・音楽そして自分の存在――ECDを取り囲むすべての関係と意味合いが大きく変化を遂げた。つまるところ、『TEN YEARS AFTER』の素晴らしさは、過去の自分を冷めた眼で観察し、対比させながら、現在の不安定な環境で懸命にバランスを取っているECDの姿がそこに鮮明にあらわれているところにある。視点の冷たさ。不安定なバランス。生の重さ。それらすべてを描き切るのには、冷徹で、イビツで、荒々しく、重々しいサウンドとラップこそが相応しく、50歳ラッパーのECDは『TEN YEARS AFTER』で音とビートとラップと言葉のすべてを"ヒップホップ"としてハーモナイズさせることに成功している。