Tuesday, August 19, 2008

般若 - ドクタートーキョー & Twigy - Baby's Choice





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般若の"ドクタートーキョー"はアルバム中のほとんど全ての曲で日本語ラップへの想いやシーンに対する不満についてうたっているので、そのまま曲中のあらゆるものが日本語ラップのメタファーなんじゃないかと思えてくる。そうしてみると"月が散りそう"は、KREVAの"音色"のように日本語ラップを女と見立ててうたったラブバラードに映り、「オマエの中に流れる / 不安な夜を終わらせる / オマエといれば笑える / 刻んでくれ俺という名」や「きっといや多分 / また生まれて君に会う / いつか2人宙に舞う / その日のために生きてやる」なんて言葉が実に味わい深く響いてくる。

しかし、Amebreakのインタビューで見れる「シーンの外に出て行かなければならない」という彼のフラストレーションや覚悟を思えば、この作品の狭量具合にどうしても引っかかってしまうというか、言っていることとやっていることがパラノっているように思えてならない。この作品の中で日本語ラップへの愛憎をぶちまける般若は外に向かって突き進もうとしているというより、日本語ラップの中にばかり気をとられてしまっているように見えてしまうのだ。

TwigyはMicrophone Pagerから作り上げた「ハードコアな日本語ラップ像」を自ら破壊し、「こうあるべきだ」というような固定観念的で脅迫概念的なハードコア像とは真逆な、より感覚的で普遍的な像を作り続けてきたことは数年前に「Mag For Ears vol.1」の"余韻"のレビューでも書いた。その「感覚的で普遍的な像」はそれそのものが感覚的で普遍的な「愛のカタチ」をテーマとした"Love or Hate"に最も顕著だったのだけど、彼の作ろうとしていた「感覚的な日本語ラップ像」はどうしても曖昧にならざるを得ず、ビジョンを捉えづらすぎたせいか、普遍的なものとしてはまったく浸透せず、結局Twigy個人のパーソナルな価値観として彼の作品に延々と紡がれてきたのだった。

それゆえ"Baby's Choice"がいままでのTwigyの作品群と一線を画しているのは、この作品に登場するアーティスト達の点を結べば現在のシーンそのものの形が浮かび上がり、更に次の世代・次の次の世代の姿までを巧みに取り込んてしまった点だろう。結果としてこの作品に映し出されるのは「ハードコアな日本語ラップ」とは全く次元の異なる「感覚的な日本語ラップ」へ日本語ラップそのもの全てがシフトしてしまったような景色で、曲の始まりから終わりまでただひたすらゆったり漂う調の裏にはTwigyが今まで一人で延々と繰り返していた「リセット行為」をシーン全てを巻き込んでやってしまった力強さと凄まじさがある。