Monday, December 29, 2008

Lil'諭吉 - Supa Hypa Ultra Fres$shhh






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ユリイカの初音ミク特集号で初音ミクの生みの親の佐々木渉が「ニコニコ動画でキーボードクラッシャーの動画を見て楽しむ感覚と、ノイズビートを聴いて楽しむ感覚の間に大差は無い」と言い、また、「ダウナーな部分に惹かれる日本のオタクにはエレクトロニカやアブストラクトを理解できる素地がある」というようなことを言っていて、それらの発言にとても共感した。

さらに彼の発言をかいつまめば、「誰でも簡単に楽しめる入り口さえ与えれば、音楽は容易に浸透していく」というようなことを言っていて、たとえばニコ動や初音ミクや東方がオタクたちに「ネタ的に音楽を消費する機会」を与えていて、ネタとして何気なく観ている動画の中でハードコアやアブストラクトミュージックが流れ、それを違和感なく聴くようになっていると。そして、そういうサイクルができあがると、いままでは敷居の高かったジャンル音楽も普通にみんなが聴いて楽しめるものになっていき、それまで一般的には理解されにくかった音楽が世の中に浸透していく道筋がけっこうわかりやすく解説されていた。

他にも、「入り口」が変わることで音楽のマーケットが広がり、ジャンルの形や発展の仕方も変わってくるということを別の切り口で説明していたのが08年の春頃に出ていたDJテクノウチ監修の『読む音楽』。この中で書かれているJ-COREというジャンル音楽が形成されるまでの過程もかなり面白い。

「J-CORE」はハードコアがベースになっているジャンル音楽なのだけども、世界中のどこを見渡しても日本にしかない音楽へと発展したもので、このジャンル音楽を作り上げた要素がビートマニアであり、ひいてはドラクエやFFなどの「ゲーム音楽」だということが書かれている。もともとは海外アーティストのベーシックな音楽を提供していたビートマニアが、日本のゲーマーにウケるBPMがやたら早くてメロなビートで作られるようになり、その流れで国産のハードコアミュージックが出来上がっていったというプロセスが紹介されていた。そしてその音楽を作るアーティストも元々はドラクエサントラのブックレットに載っている楽譜からひきなおした楽曲を作っていたような人たちで、そこに日本の独自の要素が盛り込まれていったと。そういった背景が、ビートマニアで流れていたハードコアやガバといった音楽を勉強し、ビートマニアの中にある快楽的な方面を追求していった結果、J-COREに辿り着いたというDJテクノウチの実体験をもとに描かれている。

ビートマニアという「入り口」がハードコアやガバといったジャンル音楽を一般に浸透させ、そのプロセスから「J-CORE」という日本独自の音楽とそれを消費する市場を作りあげた。ここで感動的なのは、佐々木渉のインタビューにあるような「誰でも簡単に楽しめられる入り口さえ与えれば、音楽は容易に浸透していく」ということが昔から普通に起きていたということと、「新しい入り口があれば、そこに新しい市場が開ける」ことが証明されているところだ。

言うまでもなく、日本語ラップは「アメリカのヒップホップを日本語でやってみた」というようなアングラ音楽(≒キワモノ音楽)として出発し、シーン自体も同様にサブカルチャーの方面から発展していった。メジャーフォースやスチャダラパーあたりはそもそもがサブカル出自なのでわかりやすいけども、キングギドラやマイクロフォンペイジャーから始まるハードコアな日本語ラップでさえ、そのベースになるヒップホップを理解でき、それを地で日本語でやることの面白さをわかるごく一部の層だけに支えられ、作り上げられてきたサブカル音楽に他ならない。(だからこそ、地方に住む不良までもがその日本語ラップのバトンを受け取った今の状況になってさえ、この音楽の根底に潜んでいるのは80年代後半~90年代前半の間に培われたサブカルチャーの価値観<押韻、言葉遊び的パンチライン、ハードコア・アングラ主義 etc..>なんじゃないかとも思う。余談だけども)

ということは、サブカルからの入り口ではない、他の入り口が開けたら、サブカルの土台でできた日本語ラップとはまったく別の新しい日本語ラップができることもありえるのではないかと考えることができる。ある意味では、商業的な入り口からつくられた「J-RAP」なんかはそういうものだろう。

さてここまでが前段。この文章で言いたかったのは、07年にらっぷびとがニコ動から発見されて、08年にはミニアルバムまでリリースされたけども、彼によって見つけられた「入り口」の革新性について。

つまり……
1. 「ネタ」を上手く取り込んでいけば、日本語ラップを一般に浸透させることができる
2. サブカルの土台に載らない、オタク的視点の新しい日本語ラップが作られる
3. 新しい日本語ラップのうえに新しいマーケットをつくることができる
というような、既存の価値観をすべて覆すくらい大きい可能性がそこにはあるということ。残念ながら、らっぷびとや他のニコラップアーティスト(タイツォン、アリカetc..)にフォーカスを当てるようなメディアも言説もほとんど無く、らっぷびとのアルバムリリースだけで終わってしまうかもしれないけども、それでもこのような「入り口」と「可能性」は残り続けるということだけは強調しておきたい。

だからこそという訳で、いま敢えて、この新潮流の中でひときわ奇怪な動きを見せているLil'諭吉(Cherry Brown)をプッシュしておく。

Lil'諭吉はニコ動でも南部ヒップホップとアニソンのマッシュアップをたくさんアップしている、一言でいえば「サウス好きでアニヲタのゆとり世代のバイリン」。フリーで彼の楽曲を落としてこれるのだけども、それら全てが「ネタ」の極みで、扱うテーマ全てがナンセンスの極北にある。ついこのあいだ彼の所属するTrill Grillzでインタビューを受けていたけども、いわく「実際今流行ってるサウスっていうのは昔からヒップホップを聴いてる人からみれば軽いからじゃないですか? くだらないとか。まぁ、僕は逆にそこが大好きなんですけどね」とのことで、その発言には「"軽薄さ"こそが正義!」というような正にゆとり世代的独特の新しい価値観が芽生えはじめていることをうかがわせる。そんなゆとり代表のLil'諭吉が手がけるワークは↓のような感じ。

・ ALI PROJECT×Project Pat マッシュアップ(サンプリング)

T-PAIN×幾三 マッシュアップ
Soulja Boy×ハルヒ マッシュアップ
らき☆すたリミックス
Trill Grillzの楽曲での東方アレンジ
・ Trill Grillzの楽曲での初音ミク調教
Lil Wayne "Lollipop"をコピーしたビートの上でホモのギャングスタに金玉を舐められて嫌がる楽曲
・ 好きなアニメキャラのチャームポイントをレペゼンして、ひたすら「俺の嫁だ」と紹介しつづける楽曲(最後には「なぜか画面から出てこねー」と絶望)
・ モニターの前でアニメに萌えている20歳の自分に絶望して、ただ「高校生に戻りたい」と連呼する楽曲
・ クラブにいるビッチに「どけよアバズレ!」「クラブから出てけ!」「この糞DQNがっ!」とか色んな言葉でののしる楽曲(でも女の子をDISる曲ではない。←本人の弁)

この際、このゆとり世代的なリリックと軽薄なサウスはやっぱりすこぶる相性が良いだとか、初音ミクはサウスのためにあるんじゃないか? とか野暮なことはもう言わない。しかし、サウス好きとアニヲタの間にもし溝が無いのならば、「ニコニコ動画でアニソンのマッシュアップを聴いて楽しむ感覚と、日本語の南部ヒップホップを聴いて楽しむ感覚の間に大差は無い」とまで言い切ってしまいたい。もし、その感覚が同じものだと言えるのならば、「ヲタ的日本語ラップ」と「日本語でのサウスラップ」という2重のネジれた革新性を持って、いままで作られたどんな日本語ラップよりもギリギリの先端のほうにいるLil'諭吉にはいずれ大きな福音がもたらされるはずだ。…もしかしたら、それは20年後かもしれないけども。

Sunday, December 28, 2008

Kanye West - 808s & Heartbreak






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「アイデアは出つくしたと言われる時代です。しかし、既にあるものを組みあわせていけばまだ未来は作れるはずです。独創性への幻想は終わっているのだとすれば、誰でも何でも新しいものを作るチャンスがあるはずです」(村上隆「芸術起業論」より)

音楽家として超一流とは言えないKanye Westがそれでも超一流のアーティストたりえるのは、誰よりも明確なヴィジョンを持ち、誰よりも音の必然性を重視しているからだ。2ndでのWestは音楽家/発言家としての深化を装いシリアスぶりたかったからこそJon Brionのオーケストレーションを利用してみせ、3rdでみせたエレクトロ/サウスへの歩み寄りは、「俺はシリアスな話題を啓蒙する優等生なだけでなく流行の最先端がわかっている超クールなヒップスターでもある。どうだ? 俺はすごいだろ?」と言いたいだけの空っぽな内容にぴったりの音だった。

母親が亡くなり、婚約者と別れ、俺は傷心している、お前が悪い、誰にも俺の心のうちはわからない、と独りよがりな気持ちをぶつける"808s & Heartbreak"では孤独、悲しみ、被害妄想、昂ぶりなどの整理されないままの感情をつきつめ、調子のはずれた電子音やトライバルな太鼓、オートチューンでリアリズムを放棄した不安定な歌声をアートにかぶれた凄愴な音像に具体化して、意味づけを行ってみせる。

この作品での最大のはったりは、「安っぽくて誰にでもコピー可能な808の無機質な音にはエモーションを喚起させる普遍性が存在する」というJon Brionの言説に従って、「オートチューンにも同様のエモーションを喚起させる普遍性が存在する」とでっち上げてみせるところにある。「お前らが散々ワックだと騒ぐオートチューンにはお前らごときには理解できない真理がある。それを発見した俺はすごい」といういつもどおりの自尊心に満ち溢れたWestらしいコンセプトだろう。

Westは音楽家としての自分の限界を誰よりもよく理解している。J Dillaのような一つの道を究める求道家でもなければ、Andre 3000のように限界を打破する革新的なアイデアを持っているわけでもない。それでも、ヒップホップの文脈の上で何をやれば新鮮に映るか、冒険的と言われるのかを徹底的にリサーチして、既存のフォーマットを組みあわせることで、「新しいもの」を常に提示することができる。歌を歌うラッパーは今では五万といる。オートチューンや808は氾濫している。内省的なコンセプトにしてもアンダーグラウンドや他ジャンルでは散々やりつくされたことだ。それでも、それらを組み合わせれば誰も聴いたことのない"808s & Heartbreak"を作ることはできる。

別に新しいアイデアも必要なければ、自分だけの力で作品をつくりあげる必要もない。必要なものは、いま求められているものは何か? を肌で感じられるセンスと、音楽シーンにおける"文脈"への理解。古いものと新しいものを見分ける知識と能力さえあればいい。あとは、自分に明確な作品のヴィジョンと莫大なマネーさえあれば、誰にだってこのレベルの作品を作ることができる。"808s & Heartbreak"ではWest自身が何をやっているのかわからないほど、作曲/編曲にJeff Bhasker, Young Jeezy, Consequence, Esthero, Kid Cudi等々、使えるマンパワーとマネーを湯水のごとく総動員し、2週間で作り上げて、それを証明してみせた。

Monday, November 17, 2008

can remix just fuck off and die please

★Lil'諭吉 presents Supa Hypa Ultra Fres$shhh






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★Riz MC - Radar




★Heralds of Change ft. Olivier Daysoul - Bopgunn





★Bullion - Get Familiar




★Rustie - Zig Zag




追記:8tracksはじめました。

Wednesday, November 12, 2008

微熱メモ vol.8 - 10年後のシーンを想像してみた

・「"シーン"とは何だろう?」ということを最近よく考える。Zeebraは日本語ラップ黎明期のころに「"シーン"という存在しないものをあたかも存在するように見せかけていた」というようなことを言っていたけども、その発言はすごく興味深い。

・つまりZeebraたち、黎明期のラッパーは周囲の注目を受けるため、要は小さい活動をより大きくて意味のある活動に変えていくために、「宇多川町で新しいムーブメントが起こっているよ」ということを周りの人たちに示して、まだ何も無かった場をあたかも「何か新しいことが起こっている場」にデッチあげていたという。

・じゃあZeebraの言うとおり、初期の"シーン"がただの「幻想の場」だったとして、その"シーン"の意味が過去と現在でまったく同じなのかといったらそれは違う。なぜなら、その何も無かった場所には歴史が積みあがっていて、そこにコミットしている人たちは基本的にその場の歴史や価値観を共有するようになっているからだ。

・"シーン"にコミットしている人たちはそこに横たわる歴史や価値観――「アーティスト同士の繋がり」や「作品や時代の繋がり」、「リリックやラップ、トラックの発展」や、はたまた「スキルの良し悪しの概念(何がワックなのか?)」というような"文脈"を共有している。逆に言うと、そういう"文脈"を知らない人は"シーン"の外の人となるし、"文脈"をわかる人が"シーン"の中にいる人となる。じゃあ、さらにもっと突き詰めれば、その"文脈"がわかる人たちの集合体こそがそのまま"シーン"と言えるんじゃないか。

・仮に"シーン"を「"文脈"をわかる人たちの集合体」として捉えてみると、その"文脈"を作る「もの」の存在がこれまでになく重要な位置をしめてくることがわかる。なぜなら「アーティスト同士の繋がり」や「作品や時代の繋がり」という情報やそれらの歴史を残すもの、あるいは「何がワックで何がそうでないのか?」というような価値観がなくなってしまうと、皆で共有できる"文脈"がなくなってしまうからだ。それはそのまま「"シーン"の消滅」を意味する。

・日本語ラップにおいて、一番わかりやすい"文脈"は雑誌『blast』上にあったものだろう。『blast』がアーティストや作品の情報を提供して、そこに歴史が残る。『blast』が大きく取り上げたものは日本語ラップでも重要な意味を持つし、取り上げもしなかったものは「ワック(≒シーンの外にあるもの)」だというように、明確で簡単に皆が共有できる"文脈"がソコにあったんじゃないかと考えることができる。『blast』から「クラシック」として位置づけられた曲("証言"や"人間発言所"など)をはじめは理解できなくても誰しもが聴きこんで理解しようと努め、『blast』から扱われなかったアーティスト(ドラゴンアッシュや一時期のスチャダラパーなど)やその曲は「シーンの外のもの」として誰もが見なした。日本語ラップ黎明期からの"文脈"を持つ『blast』はそこにコミットしている人たちの価値観をある程度は収瞼できていた。

・実際、いま日本語ラップで注目を受けているSEEDAにしろ、ANARCHYにしろ『blast』が残した"最後の文脈"上に存在するアーティストだし、『blast』の休刊から08年現在までの間で日本語ラップの"文脈"上にいると"シーン"で認識されているアーティストは、SEEDAやANARCHYからレペゼンされたアーティストと、MCバトルで活躍しているラッパー達、元々『blast』にいたアーティストに繋がっていた人たちで、それ以外で注目を受けているアーティストはほとんどいないと言っていいと思う。

・こういう風に考えてみると、SEEDAやANARCHYを最後に潰えた"文脈"が今後どのように残っていくかを予想することが「"シーン"が隆盛するか? それとも消滅してしまうか?」を見出す糸口になるといえる。「未来は暗くない」とか「シーンが無くなるはずはない」とか言いたい気持ちもわからなくはないし、実際に"シーン"が一切消滅してしまうことは無いのだろうけども、そこでそう言い切ってしまうのは単なる思考停止だ。

・"シーン"の内にいたラッパーが外のリスナーを掴むためにポップになっていったり、または外にいるラッパーのスキルが向上していくような動きの中でJ-POPと日本語ラップの境界線はさらに曖昧になるし、いまの日本語ラップの多様性は"シーン"の内側でもアーティスト同士やリスナー同士の壁を生む。そういう流れを踏まえたうえで今後の「"シーン"の形成」に対してネガティブな可能性のみを2点だけ記しておく。

・まず1つはJ-POP的なラップに日本語ラップが取って代わられる可能性。"文脈"を保つものが無くなって、周りの"シーン"との境界線が曖昧になっていく中で、「これがワックだ」というような日本語ラップ的な価値観が薄れる。また、"シーン"が「集合体」である以上、"文脈"を失って集合体の境界線が曖昧になっていく中で、人数的には圧倒的多数になるJ-POP的なリスナーの価値観が日本語ラップ的な価値観に勝り、主流の"文脈"はJ-POP的なラップが担うようになる。(勿論、旧来の"文脈"は残るだろうけども、海外アングラやウェッサイの"文脈"のようにマイナーな傍流として細々と残っていく)

・そして2つ目は"シーン"の内部が細分化されて、小さな"文脈"しか残らなくなる可能性。皆で共有できる"文脈"が無くなって、日本語ラップの形が多様化する中で、個人個人の「好き/嫌い」の壁が"シーン"の内部を分断していく。ジャジーラップだったり、ギャングスタラップだったり、アングララップだったり、日本語ラップのコミュニティが蛸壺化して、もともとが一枚岩のように見えていた日本語ラップが、リスナーやアーティストによって「自分の好きな"シーン"」の形に分断されていく。それらの小さな"シーン"のなかで個々に"文脈"が作られていくようになる。

・長々と書いてきたけども、これらがこれから10年後くらいの"シーン"の形かもしれない。実際に海外の"シーン"で起こっていたことを踏まえると結構な説得力もあると思う。でも、それらの「可能性」だけでなく、ひとつだけ希望を見出してみれば、過去の歴史や海外ヒップホップ、他の音楽ジャンルの例を見ても、常に"文脈"は新しくて力強いムーブメントの後に出来ていることだろう。アーティストのクリエイティブな動きの後に大多数のリスナーはついて行き、自然に"シーン"は形成されていくのだ。そしていままで"シーン"の中でそれは行われ、"シーン"が牽引されてきたという確かな実績が残っている。

Sunday, October 26, 2008

BES - Rebuild






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いまの日本語ラップで表現されている「リアル」とは「過去の経験のリアル」と、「自分を取り巻く環境や生活のリアル」と、「本音や素直な感情のリアル」の3つに大きく別けられる。たとえばBRON-Kは『奇妙頂来相模富士』で「過去のリアル」をロマンチックに表現したし、MSCは「環境のリアル」を『MATADOR』で見事に描き出し、環境に翻弄され葛藤を抱える不良ラップの礎を築いた。しかし、過去の経験を切り取ることには限りがあるし、自分を取り巻く環境は絶えず変化しつづける。誰もがそんなにドラマティックな経験に満ちているわけでもないし、いつまでもストレスフルな生活を続けることも出来はしない。

自分の生い立ち(過去のリアル)とハスリングライフ(環境のリアル)を「私小説的」な表現方法に昇華して編み出したSEEDAはそれ自体が画期的なことだったのだけども、さらにその後、ただ街中を散歩するような何気ない生活のひとコマを『街風』に取り入れ、『HEAVEN』では自分が抱えている想いや葛藤(感情のリアル)をエモーショナルなフロウと共に盛り込んだ。「普通の生活」を描いていれば自分を取り巻く環境が安定しようが落ちてしまおうがそこにある「リアル」は大きく変わることは無いし、「自分の感情」を表現することにネタの限界は無い。『街風』や『HEAVEN』に見れるこの変化はSEEDAが「リアルでいつづける」ために模索したとても有効な処方で、だからこそこの2つの作品は『花と雨』と同様に素晴らしいアイデアに満ちた作品だと言える。

鬼一家の『赤落』が面白いのは鬼が"小名浜""甘い思い出"で「自分の身に降りかかった不幸や災い」を劇的に演出してみせた後に、"スタア募集"や"見えない子供見てない大人"では政治や上の世代への痛烈な批判を繰り広げるすごく社会派的な一面が見れるところだろう。

これはまるで政治だとか資本主義社会のせいで、絶え間なく災難が降りかかっているとでも言っているかのようだけども、単に自分の「不幸や災い」だけを表現するのではなく、その不幸や災いが「何のせいで生まれているのか?」まで言及することで、「自分の敵の姿」を明らかにして作品が持つメッセージ力をより強力にしているのだ。

このように「リアルの種類」を整理して、「リアルの源泉」を追うことでその作品やアーティストの特性と、その先に広がる可能性までを発見することができる。その好例が前述のSEEDAとBESの作品なのだけど、SWANKY SWIPEの『Bunks Marmalade』とBESの『Rebuild』はその最後の曲に着目すると、それぞれの作品が持つ構造の理由とBESの人間味の深さ、そしてまた違った「リアルの形」までを炙りだすことが出来る。

『Bunks Marmalade』の"評決のとき"はBESが世話になっていたオジさんが抗争に巻き込まれ、挙句に裁判で極刑をくらってしまったことへの不条理と、社会が「敵」だと放逐したオジさんをフォローすることの出来ない自分の無力さを嘆いた曲だ。この曲にあるのは、自分の手が届かない、自分が介在することができない社会だとかルールだとか人間関係のいざこざ(総称して"バビロン")がもたらした「不幸や災い」で、その敵はやはり自分の目には見えない「バビロン」なのだ。だから『Bunks Marmalade』でBESはゲロを吐きつづけ、自分では最早どうしようもない生活や環境の不条理(環境のリアル)を徹底的に描いて見せた。

しかし、それから2年ほど経った『Rebuild』でBESの描く「リアル」の形はまた変わってしまう。『Rebuild』の日本語訳はずばり「子供との関係を修復する」というもので、このタイトルの意味と最後の曲"On a Sunday"を聴けば「懺悔」や「後悔」という言葉にべったり色塗られたこの作品がいったい何を表現したいのか、BESは何に懺悔をしているのかがわかる。

"On a Sunday"でBESはドラッグにまみれて、金を稼ぎ出すことも出来ないダメな生活しつづけた結果に自分の子供へ与えてしまった不幸や災いに懺悔する。ここでの「不幸や災い」は自分が導いてしまったものに違いなく、その「敵の姿」は自分自身の内面にあるのだ。

だからこそ、『Rebuild』の内容は『Bunks Marmalade』のような「環境のリアル」を描いたものではなく、より自分の内面にフォーカスした「感情のリアル」に傾いたものになっている。身内に降りかかった「不幸や災い」のもとを辿れば、自分自身に行き着いてしまった居心地の悪さが作品全体を覆う。

「どうしようもない自分」が引き起こしてしまった不幸や災いの居心地の悪さは、バビロンが引き起こしたものの比ではなく、『Bunks Marmalade』でバビロンに向けられていた視線は全て自分の内面に注がれる。

『恵まれた環境 仲間とBaby / 止めるぜ言い訳、誰かのせいに / 誰もが正義また誰もが悪魔 (略) 上だの下だの金額の違い / 大人の階段登るそれだけさ (略) 増える理想現実の違い / でも噛み締める納得 明日なら見える』


BESは不幸や災いをバビロンのせいにするのは全てお門違いだと切り捨てる。本当の「リアル」は「環境」ではなく「自分の内面」にあると。「リアル」というものに優劣があるかどうかはわからないけども、BESが指し示すこの「リアルの形」はいまある不良ラップの中でも抜きん出て新しく、その方向性には強い説得力がある。

Friday, October 03, 2008

Anarchy - Dream & Drama & NORIKIYO - OUTLET BLUES





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"My Words"のときにも書いたけども、Anarchyのラッパーとしてのエネルギーの源は「夢と現実」のギャップに生じるストレスにあると思う。それは人知れず地方都市で活動することのストレスが"Stilling, Still Dreaming"を生んだみたいなもので、そのギャップが大きければ大きいほどAnarchyというラッパーの魅力が大きくなっていくのではないか、という考えは今も変わらない。

"Dream & Drama"でここまで巧みにストーリーテリングを練り上げて、自分の「夢と現実(=リアル)」をきちんと落としこめていることにビックリしたのだけども、反面、その端々に見えてくるのは「描いている夢のディテール」で、聴いているこっちがドキドキしてしまうほど自信満々で広げていた"Rob the World"の得体が知れない風呂敷のデカさに比べれば、あまりにも地に足着いた「夢のリアルさ」になんだか興ざめしてしまった。

「ただ夢を追い求めることにはいずれ限界がある」ということにすら自覚的になっているAnarchyの「夢を持て」という言葉は魅惑的というより、寧ろ「その為の努力や代償」のプレッシャーのほうが重くのしかかってくる。

「NORIKIYOのラップは単調で、BLのトラックは平坦で面白味がない」という評価をたった1年で、BLは何かに開き直ったかのような悪趣味で派手派手しいギミックと、聴き手の想像の斜め上をいくようなアイデアで、NORIKIYOはその変則きわまるビートのうえでも見劣りしないくんずほぐれずのラッピンフロウで跳ね返した。

"EXIT"での「迷路のような人生のなかでビッコを引きながら出口を探して前進する」姿にブルースがあるというならば、「BIKKO」というワードや「出口を探して前進する」ような描写がほとんど出てこない"OUTLET BLUES"にはハンデキャップを抱えながらも歩みを止めない男の哀愁というよりは、「ラッパーとしてやっていく他ない」という開き直り感のほうが強く打ち出され、そこにはブルースというより、その開き直りの先にある「本当にこれでやっていけるのか?」というような漠然とした不安が靄のようにかかっていて、曲調と相まる躁鬱っぷりがどうにも落ち着かない。

しかし、その「ラッパーとしてやっていく」という開き直りのもとで、ラップスキルが磨き上げられ、プロダクションが飛躍的に向上したというならば、「リリックの面白味」が「作品の面白味」に変わっていく、「リアル志向」が「作品主義」へ移行していく過程を、NORIKIYOの素の想いそのままに見て取ることのできる貴重な作品として大変興味深く聴きこむことができる。

Tuesday, September 16, 2008

Young Jeezy - The Recession






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「ストリートには自分を嵌めようとする奴らがいて、一方ブッシュは執拗に国民を苦しめつづける。アメリカは不景気で無職で溢れ返りこの世は地獄。だが、俺には生き抜く力がある」 たったこれだけのことを75分にも渡ってジージーは叫び続ける。

"不景気"と銘打たれたこのアルバムは、まるで全米がその名の意味を再確認しているかのように堅実に売れ、結果的に08年度ラップアルバムセールス2位を獲得。でもそれは、「リングトーンはどうでもいい。ラジオプレイもどうでもいい。女向けの音楽なんか糞食らえ。内容さえ良ければ人は買う」というジージーの愚直な理想主義の産物だというよりも、あらがいようもなく下り坂を転げ落ちていっているアメリカ全国民が一点の曇りもなくアメリカ全土を照らし出すかのようなジージーの「俺イズム」に何かしら見出すものがあったからだろう。

まるで天から降り注ぐような神々しさを持つジージーの「俺イズム」を彩るのは、高らかに勝利を謳うホーン、敵味方関係なく威嚇する32分ハットと何層にも重なる声のレイヤー。そのカタストロフィックな音の洪水をジージーは自由自在に操ってみせ、ただ自分の力だけを誇示する。小難しい理屈や説教や言葉遊びは地獄では役に立たないし、自己の探求や精神の救済はメシの種にもなりゃしない。不況下を生き残るためには先ず第一に「力」だと言い切ってしまうこの説得力はどうだ?

ジージーのファンだと公言するマイケル・フェルプスに向かって「フェルプスは競泳界のジージーだ」と臆面無く言ってのけてしまう図々しさも、ラッパーなら当たり前のいつものブラフだと笑って切り捨ててしまっても別に構わない。だけど、「俺がこの不景気をなんとかしなければいけない」と勝手に本気で責任を背負い込んでいるこの男がフェルプスと同じくらいアメリカ国民に「希望の光」をともしている事実を否定することもできない。

Saturday, September 13, 2008

Tuesday, August 19, 2008

般若 - ドクタートーキョー & Twigy - Baby's Choice





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般若の"ドクタートーキョー"はアルバム中のほとんど全ての曲で日本語ラップへの想いやシーンに対する不満についてうたっているので、そのまま曲中のあらゆるものが日本語ラップのメタファーなんじゃないかと思えてくる。そうしてみると"月が散りそう"は、KREVAの"音色"のように日本語ラップを女と見立ててうたったラブバラードに映り、「オマエの中に流れる / 不安な夜を終わらせる / オマエといれば笑える / 刻んでくれ俺という名」や「きっといや多分 / また生まれて君に会う / いつか2人宙に舞う / その日のために生きてやる」なんて言葉が実に味わい深く響いてくる。

しかし、Amebreakのインタビューで見れる「シーンの外に出て行かなければならない」という彼のフラストレーションや覚悟を思えば、この作品の狭量具合にどうしても引っかかってしまうというか、言っていることとやっていることがパラノっているように思えてならない。この作品の中で日本語ラップへの愛憎をぶちまける般若は外に向かって突き進もうとしているというより、日本語ラップの中にばかり気をとられてしまっているように見えてしまうのだ。

TwigyはMicrophone Pagerから作り上げた「ハードコアな日本語ラップ像」を自ら破壊し、「こうあるべきだ」というような固定観念的で脅迫概念的なハードコア像とは真逆な、より感覚的で普遍的な像を作り続けてきたことは数年前に「Mag For Ears vol.1」の"余韻"のレビューでも書いた。その「感覚的で普遍的な像」はそれそのものが感覚的で普遍的な「愛のカタチ」をテーマとした"Love or Hate"に最も顕著だったのだけど、彼の作ろうとしていた「感覚的な日本語ラップ像」はどうしても曖昧にならざるを得ず、ビジョンを捉えづらすぎたせいか、普遍的なものとしてはまったく浸透せず、結局Twigy個人のパーソナルな価値観として彼の作品に延々と紡がれてきたのだった。

それゆえ"Baby's Choice"がいままでのTwigyの作品群と一線を画しているのは、この作品に登場するアーティスト達の点を結べば現在のシーンそのものの形が浮かび上がり、更に次の世代・次の次の世代の姿までを巧みに取り込んてしまった点だろう。結果としてこの作品に映し出されるのは「ハードコアな日本語ラップ」とは全く次元の異なる「感覚的な日本語ラップ」へ日本語ラップそのもの全てがシフトしてしまったような景色で、曲の始まりから終わりまでただひたすらゆったり漂う調の裏にはTwigyが今まで一人で延々と繰り返していた「リセット行為」をシーン全てを巻き込んでやってしまった力強さと凄まじさがある。

Friday, July 11, 2008

ラップの「上手さ」とは何か? (そして、そこから見るSEEDA ”HEAVEN”と「勝ち負け」のシーンについての一考察)

古川氏と磯部氏を招いた日本語ラップ鼎談。鼎談時から約半年たって、ようやく公開。例によって非常に長いですが、まとまったお時間のある方は是非どうぞ。



微熱:磯部さんに聞きたかったんですけど、NORIKIYOはどの辺が好きなんですか?

磯部:NORIKIYOは一番初めに聞いたときはフロウに幅が無さ過ぎて面白くないなって思ったんだけど、詞を読んだら「この人、ビッコなんだ!」って気付いて。俺は障害者萌えだから、まずそこにグッと来て、しかも「雨で古傷が痛む」とかそれを文学的表現に昇華しているところに感動したんだよね。そこからのめり込んだ感じかな。今でもラップはちょっと退屈だなって思う瞬間もあるけどね。

微熱:トラックも結構退屈ですよね。

磯部:っていうか、TKCも全く同じなんだよね。ラップが一辺倒で、トラックがローファイ過ぎるっていう。その点、NORIKIYOはかかえているブルースが大きいから聴きがいがある。詞がやっぱ面白いかなー。
 だってさ、バックパック一杯にネタを詰め込んで、終電の小田急線に乗ってそれを売りに行くっていう歌詞があるじゃん?あれ、東京と相武台前の位置関係、ひいてはシーンとSDPの位置関係をすごくよく言い表していると思うんだよ。それは、距離もあるし、終電だから後戻り出来ないって感じとか。SDPの存在を一番初めにうまく説明したのが”EXIT”なんじゃないかな。

古川:SDPは”CONCRETE GREEN”以降のギャングスタ・ラップの中心にいるように見えるけど、NORIKIYOのアルバムが出て、TKCのアルバムが出て、これから出るBRON-Kのアルバムを聴くとよくわかると思うんだけど、実は全然一言で括れるようなグループじゃないんだよね。グループの中でさえ捻じ曲がっているところがある。

磯部:TKCはスチャダラを一番尊敬しているっていうくらいだもんね。
 でもさ、SEEDAもインタビューしたら「ある意味、あの時代(90年代半ば)いちばんリアルだったのはスチャ」って言っていたよ。

微熱:スチャダラの影響力はでかいな。

磯部:だから、スチャがあの時代にああいうことを歌っていたのはやっぱり正しくてさ。SEEDAが「スチャはあの時代の子供の平均的な感覚を歌っていた。今の子は軽いノリでプッシャーとかやっちゃう。だから、自分がそれを歌うのはある意味でスチャの意思を告ぐようなものだ」って言っていたのも印象的だった。

微熱:説得力ありますね、それは。

磯部:今までのスチャのフォロワーって文系であることをアイデンティティとしていたけれども、SEEDAはそうじゃなくて、言わば「スチャ的な表現」をフォローしていて、しかも、その立ち位置が90年代とは全然変わってしまっていることもちゃんと知っているんだよね。

微熱:自分の生活に根付いている部分、それ自体が変わっているってことですね。

磯部:だからSEEDAがいつも言うのが「嘘の無いラップをしたい」ってことで。今まではドラッグのことをうたうのはイキガリだったんだけど、SEEDAの場合はちょっと恥がある感じでしょ。「プッシャーなんてやっちゃってスミマセン」っていうような恥じらいがあるのが凄く自然だと思うんだよ。

微熱:でも、”HEAVEN”ってドラッグディールみたいな話は減りましたよね?

磯部:予想したよりあったけどね。もっと減るかな?と思っていたんだけど。

古川:1曲の半分ドラッグディールのストーリーとかもあるからね。

磯部:でもそれよりビックリしたのは「ラップの上手さ」だな。今日の話のテーマとも絡むと思うんだけど。
 SEEDAのラップ上手さってさ、「最近の娘って、足なげーなー!」っていうような「身体能力として全然違う!」って感じがしたんだよね。例えば、MUMMY-Dのラップが上手いっていう「上手い」という感じと、スタートラインからのレベルの差がある。努力して上手くなったっていうのと違って、生まれながらの素質が違うっていうか。

古川:でも、SEEDAは結構キャリアがあるじゃないですか。

磯部:うん。だからどこからか変わったんだよね。『GREEN』とかではそう思わなかったから。しかも、”HEAVEN”では以前の早口ラップが、格段に上手くなって戻ってきた。

古川:”花と雨”以前のラップスタイルが好きだっていう人は、今回のアルバムはかなり好きみたいだよね。

磯部:でも、以前の早口ラップは詰め込むだけでフロウがなかったじゃん。”HEAVEN”では”花と雨”のフロウを残したまま早くしている。4曲目の”Homeboy Dopeboy”なんて凄くビックリしたな。

微熱:”GREEN”の頃とか日本語の箇所でも何をラップしているのか聴いていて全然わからなかったけど、”HEAVEN”はラップは早いけど何を言っているのかすごく良くわかる。

古川:アメリカでもエモいラップが流行っているけど、”HEAVEN”はそういうエモいとこもあるよね。

磯部:でも、あんなに上手い人いないでしょ。俺はどちらかっていうとSLUGとか向こうのアンダーグラウンドにいるエモいラッパーを思い浮かべた。

古川:そうそう。だからアメリカのメジャーにいるエモいラッパーともちょっと違うと思ったんだよね。

磯部:ラップが上手いっていう部分で見ると、世界レベルでも相当上だと思うんだけどなー。

古川:磯部がここでSEEDAを指して言う「上手さ」ってどういう「上手さ」なの?

磯部:「上手さ」ってことに関しては、オレも凄く考えたんだけどさ、例えばギターの早弾きって個人的な趣味では全く感動しないんだよね。むしろギターの下手さに感動するようなリスナー歴をおくってきたから。メタルよりはグランジのほうが好きなような人間だったからね。ダイナソーJrとかソニックユースとかの味のある下手さが好きだった。でも、ラップに関して言うと、圧倒的に上手い人って本当に感動するんだよね。これってなんなんだろう?ってのは思うよ。この辺が核心のような気もするんだけど…。
 「韻」ということに関してはどうなんだろうね?例えば、走馬党、韻踏って継がれてきたような押韻フェチのようなものって若い子たちの中にまだあるのかな。

古川:まだあるみたいだけどね。「韻を踏むべきだ」という考えと、「韻なんか踏まなくていい」っていう考えが今一番ぶつかっている場所はMCバトルじゃないかな。レポートとかでも今年はGOCCHIが優勝してこれからエモいラップが主流になっていくっていうような書かれ方をしていたから。ただ、逆にそれ以外の場所では単なる棲み分けが進んでいるようにも見えるけど。

磯部:BESはどうだったの?

微熱:BESもフロウでおしていたみたいですけどね。

磯部:でも、BESってラップは上手いけど勝てないって状態がいままで続いていたのに、今回これだけ勝ちあがれたのってなんでなのかな?

微熱:私自身は観にいっていないからちゃんとしたこと言えないけど、レポートとか読む分にはフリースタイルの中にメッセージ性とかパンチライン的なヒネりもかなりあったみたいですね。

古川:客のジャッジという面でも韻を踏めば踏むほど盛り上がるっていうようなことだけではなくなったということは聞いたけどね。

磯部:それこそエモいラップをフリースタイルでやりはじめたのって、般若と漢な訳じゃない。02年のMCバトルの決勝戦から今までのフリースタイルにはなかったエモいオープンマイクが一時期流行りだしたんだよね。降神とかさ。

古川:それが一周まわって韻に戻ったんだよ。で、また一周まわってきた。
  韻ってことに関して言うと、MCバトルの上ではライミングが一番客観的な評価基準になりやすい。極端に言えば、ヒップホップに詳しくなくてもゲーム的に評価できる。だからMCバトルが広がっていったときに一番「韻」がラッパーの特殊技能として認知されていったと思うんだよ。

磯部:面白いのが、あまり韻を踏まないラッパーって「アメリカのラッパーもそうだから」っていうような言い方をするんだよね。アメリカのラップはライミングよりフロウを重視するし、お前らがやっている押韻は単なる駄洒落にしか聞こえないっていう理論を持っている人が割りと多いなぁと思った。
 それが面白いなと思うのは、日本にいながらにして「良いラップ」という基準がアメリカにあって、それに拠っていくべきだっていう言い草に聞こえるところ。だから日本語で押韻するのって、裏返せばすごく日本独自の表現なんだなぁって感じがするね。

微熱:確かに「韻をふまなきゃ全然ダメ」みたいな否定って日本でのみ根強いかんじはするな。アメリカのラッパーで韻を踏まない人っているけど、韻踏まないからってそこまで否定されることはないですからね。

古川:アメリカのヒップホップを聴いてこなかった人たちってのが今の日本語ラップリスナーの中にけっこうな層でいるじゃないですか。「JAY-Zの新譜は聴かないけど、アイスバーンの新譜はすごく聴く」みたいな。そういう子たちにしてみれば、フロウの妙味っていうより韻のほうがアクセスしやすいってことなんじゃないですかね。

磯部:その押韻派の最先端って前は韻踏だったけど、今は誰かいるの?

古川:アイスバーンの評価のされ方を見ていると、特にフリースタイルにおいての彼らのブランドはスゴイんだなぁと思うけどね。

磯部:そこが「押韻の砦」だ。

古川:そんな感じはあるんじゃないですか。だからMCバトルでGOCCHIが勝ったことによって何かしらトレンドに変化があるんじゃないかと思うんだけど。
 前にもBLASTか何かで書いたけど、基本的にMCバトルってデカくなればなるほど矛盾も大きくなっていく、色んな価値観を一つにまとめようとするゲームなんだよ。それが臨界点に来るとまたバラける。だからもうあと1、2年くらいでもう一回バラけると思うよ。

微熱:でも、今回の鼎談にあたって色んな大会のMCバトルをビデオで観てきたんですけど、1つの大会の中にも色んなラッパーがいて、彼らの韻やフロウやエモい部分がオーディエンスからその時々によって色んな評価をされていた。だから1つの大会の中だけでそういう新陳代謝的なバランスを取るサイクルは出来ていそうな感じでしたけどね。臨界点でバラけてしまうというよりは。
私がSEEDAの”HEAVEN”を聴いていて意外だなと思ったところって韻をガッツリ踏んでいるところだったんですよ。”花と雨”や”街風”ってあんまり韻の印象が無かった。だからリスナーを飽きさせないっていう面でそういう韻やフロウのサイクルみたいなのって実は”HEAVEN”の中に意図されていたりするのかなぁと。

磯部:インタビューでSEEDAは意外に「韻は大事だ」というようなことを言っていたね。俺がSEEDAに会う前に決め付けていた「新人類」っていうかそれまでの日本語ラップの基準に則っていないっていうイメージよりかはすごくオーセンティックな感じな人だった。アメリカの伝統と日本の伝統の両方を踏まえてやっている人だった。スチャダラのくだりにしてもそうだけどね。

微熱:話変わりますけど、昔からいるラッパーのラップを今聴いてどう思います?

磯部:昔からいるラッパーのラップで「上手い/下手」の基準って、時代に喰らい付いていこうとしているかどうかだと思うんだよね。例えば、SEEDAの”街風”だと、KREVAはすごく上手いと思ったんだけど、BOSSは全く上手いと思わなかった。BOSSは本当にリラックスしてラップしているじゃん。アレはもう完全に出来上がっているラッパーの姿勢だったけど、KREVAは闘争心丸出しだったでしょ。

微熱:スキル比べみたいなね。

磯部:そうそう。だからKREVAはラップも更新しているし、上手いなぁと思ったね。
 ZEEBRAは上手いんだけど、体が追いついていないって感じがしたな。

古川:また「上手い」っていう言葉の曖昧さにからめとられそうになっているけど、例えばライブでZEEBRAのラップを観るとまだ圧倒的だと思うんだよ。だけど、ことさら上手いラッパーとしてZEEBRAを語れるかっていったら多分そんなことも無くなっていくだろうし…。

磯部:じゃあそのラップの「上手さ」って何に言い換えられるんだろう。ギターの上手さって「ギターの神様」みたいにわりかし限界や頂点が決められているよね。それとはラップの上手さって違うと思うんだけど。

古川:違うと思うよ。今、ヒップホップの中でギターの早弾き的な「上手さ」に近づいているのはスクラッチでしょ。非常に肉体性と不可分じゃないですか。指をどれだけ速く、細かく動かせるか?みたいな。肉体を鍛えていくメソッドってそんなに幅があるわけじゃないから一本道の基準になりやすい。だからスクラッチの「上手さ」ってどういうことかっていったら「速くて、細かくて、正確で」で価値観としては皆が共通しやすいし、事実、ある種の世界共通言語にさえなってるわけでしょう? ユニバーサルなコミュニケーションが成り立ってる……けど、ラップの「上手さ」ってどっちかっていうと文章の「上手さ」に近いと思う。文法的に間違っていても、豊かな情感が伝われば「これは上手い文章だね」って通用しちゃうのと同じで、ラップも単に「早くて、細かくて、正確で」では測れないものでしょ。

磯部:その話を聞いていて思ったのは、ヘヴィメタルにおける早弾きの「上手さ」って「速くて、細かくて、正確で」っていう上手さと、ヘヴィメタルのルーツのブルースに起点を持つ「味わい」っていう2方向の上手さがあるってこと。スクラッチも割とそれに近いと思うんだ。やっぱスクラッチってジャズじゃん、皆引き合いに出すのは。だから「速くて、細かくて、正確で」っていう「上昇のベクトル」から降りてしまう人もいる。そうしてみると、日本語ラップって上昇のベクトル―「上手さ比べ」みたいな志向がまだまだ強いし、「味わい」のあるラップというよりSEEDAみたいな「上手い」ラップが支持されている気がする。アメリカだと違うと思うけどね。アメリカは「上手さ比べ」っていうよりかはラップの個性だったり、味わいの面が評価されているからね。
 SEEDAの”HEAVEN”が出たことでそういう「上手さ比べ」が更に加速するような気がしたな。だから、日本語ラップって「個性」が横のベクトルだとしたら、「上手さ」という縦のベクトルがまだまだ突き詰められていないのかもって感じがした。

微熱:今回の話でラップスキルについては私も色々考えてはみたんですけど、ラップスキルって韻だったり、フロウだったり、パンチラインだったり色々な要素にわけることは出来るんですけど、「作品」としてみたときにやっぱりラップスキルだけのものではないからそこで優劣を付けづらいんですよね。作品としてのラップと内容の良し悪しは整理しなければならないと思うんですよ。私なんかはSEEDAの”HEAVEN”はラップスキルという面ではなくて、リリックの内容のほうを重視して聴いていたので、磯部さんの話で「SEEDAのラップの上手さに感動した」という意見は新鮮だったんですけど、主にどういう点が「上手い」と思ったんですか?

磯部:”HEAVEN”はSEEDAが「ラップの上手さ」を誇示したアルバムだと思うんだよね。例えば、早口ラップが戻ってきたというところや、英語のラップの分量が増えてきたところもある。日本語でリリックも書けるし、英語でリリックも書けるし、早くもラップ出来るし、遅くもラップ出来る。ラップのバリエーションが増えた上に、今まで以上に文学的なリリックも書いている。色んなタイプのラップと色んなタイプのリリックを書いてみせたことで、この人は自分が一番上手いんだということを言いたいんじゃないかなと感じた。”花と雨”のほうが逆に老成しているっていうか、とりあえずリリックを聴かせたいんだと思ったけど。

古川:ラップの音楽的な上手さが何によって拡張したり、狭まったりするかというと、ビートの種類だと思うんですよ。ビートの種類が幅広ければ広いほど、色んなラップのアプローチが出来る人は出来るし、出来ない人はそこで実力不足が露呈する。”HEVEAN”の”自由の詩”ってすごく変則的なエモいビートなんだけど、そこでSEEDAはすごい面白いのせ方をしているんだけど、A-DOGは普通のビートへののせ方をしていて…

磯部:オレ、SCARSの中でA-DOGが一番好き。

古川:「上手い」というより「味のある」ラップでしょ?K-DUB SHINEから脈々と受け継がれるような「味で勝負だ!」っていうようなラップ。
 バンドの話をすると、バンドの良し悪しを決定するのはドラムなんだよ。ドラムが上手ければ上手いほどバンドとして出来る曲の幅も広がるし、色んなアレンジも可能になるんだけど、ドラムが下手だと何も出来なくなる。その関係がラッパーとビートの関係に近いなと思っていて、”街風”ってあれだけプロデューサーを揃えたにもかかわらず、ビートの幅があんまり無くて基本的にはストレートなヒップホップ。それに比べると”HEAVEN”はBLとI-DEAの2人だけ……だからこそなのかもしれないけど、めちゃくちゃ色々なビートがあるじゃないですか。ビートが無い曲もあるし、ブルージーな曲もあるしね。だから「ラップのスキルを見せつけたいんだろうな」っていう話は納得する。

磯部:あと、”HEAVEN” におけるSEEDAのラップの特徴にコード感があると思うんだね。
チョイスされているトラックにもコード感があるけど、SEEDAもそれに呼応するようなラップをしている。R&Bっぽい曲も多いし。これもラップの上手さの一つだよね。ラッパーとしてコードがわかるかどうかってコンプレックスの一つだから。”イツナロウバ”以降のKREVAの上手さの理由の一つでもあるしね。アンダーグラウンドからKREVAに対する返答のようにも聴こえたな。

古川:すごく前にZEEBRAにインタビューしに行ったときにZEEBRAがラップの「コード感」の話をしていた。こないだ士郎さんとのラジオ(ウィークエンドシャッフル)で話していたことでもあるんだけど、トラックとキーがちゃんと合っているかっていうのがラップでは重要で、きちんとコードがあるんだよね。

磯部:西洋的な音階と一致するとは必ずしも限らないけどね。西洋的な音階では不協和音でも気持ちいいこともあるし。

古川:そうそう。大事なのはそのコードがその人の中で一定しているかどうかなんだと。例えば、TWIGYは瞬間だけを取ってみるとバックトラックとTWIGYの声はズレている。だけど、TWIGYのコードは一定しているからそれが全体を通して聴くと不協和音でもまとまって聴ける。上手いラッパーはビートへの入りの和音とビートから抜ける和音の位置が一定しているということなんだよね。その間にいくら和音が変わっていたとしても。だからその人なりのコード感が安定している人を上手いラッパーの一要素として聴いているはずだとZEEBRAが言っていたね。
 だから例えばカラオケ屋でラップすると意外と恥ずかしいことが多いじゃないですか。それはバックトラックのキーと自分のコードがまったく合っていないからであって、リズム云々以前に声の音程がまず合っていないからなんだよ。

磯部:要するにビートも鳴っていて、その曲も知っていて、歌詞も目の前に出ている訳だから楽譜はしっかりあるのに、それどおりにラップしてもコード感が無いと上手くは聴こえないってことね。

微熱:いまの話ってトラックが多彩で、ラップにもコードがあればラップだけでみると作品としてすごく楽しめるということですよね。私がラップ単体で面白かったなと思ったアルバムは達磨様の”HOW TO RIDE”なんですよ。韻の踏み方もそうだけど、フロウもスゴく多彩で安定していて、トラックとラップのコード感から生まれるラップの面白さというものを体現しているアルバムじゃないかと思いましたね。

磯部:簡単に言うとラップの上手さって「音楽的な上手さ」と「文学的な上手さ」に別けられると思っていて、「文学的な上手さ」ってさっき言った押韻だったり、パンチライン的な上手さで、「音楽的な上手さ」ってそれとはちょっと違う気がするんだよね。オレはどちらかというと音楽的な上手さに惹かれる。だから、走馬党はほとんどシックリ来なかったけど、韻踏はOHYAやAKIRAみたいな押韻も面白いんだけど、音楽的にも面白いひとがいるというところが好きで。ひょっとするとRHYMESTERがグッとこないのはそういうところかもしれないし、RHYMESTERの中でも士郎さんよりMUMMY-Dの方が面白いと思うのもそこかもしれない。

古川:しかし君はあの人と一緒に仕事しててよくそういうこと言えるねぇ…

磯部:どっちが悪いってことでもないけどね。

古川:オレが「ラップ上手い問題」について考えるときに一番はじめに思い浮かべるのはKOHEI JAPANなんですよ。

磯部:オレはちなみに良いと思ったことは一度も無い。

古川:オレは結構好きだし、あのラップは「上手い」といって差し支えないと思うんだけど、いま技巧的なラップとして若い子達にプロップスを受けているかというとそういう訳でもない。でも、ある人たちからすれば彼のラップは上手いと言われたりもするしね。

微熱:古川さんと磯部さんの意見の違いみたいに、単純にラップのスタイルだけでそういう真逆の反応が出てくる理由が気になりますね。

磯部:この話をしていくと「どっちが良いか?」って話になって良くないことかもしれないけど、例えばアメリカのオールドスクールのラップを聴いていると音楽的な面白さがラップの基にあるのかなって感じがして。トラックの上でどれだけグルーヴし続けられるかっていう。それこそバンバータのライブのブートとか聴いていると、そういうところでラップしているMCはその場のグルーヴを如何に引っ張り続けられるかというところで勝負していて、オレがラップを聴いていていいなぁと一番初めに思ったのはそういう音楽的なところだった。単純に英語が分からなかったからかもしれないけれど。とにかく、そういうスタートだったから、日本語ラップで重視されている押韻という価値観はいまだにいまいちよく分からないね。

古川:さっき言ったKOHEI JAPANの「純ラップ的な良さ」っていうのは勿論リリックだけではなくて…リリックに偏重したものは僕もやっぱりニガテだったりするし。これはオレの傾向なんだけど、フリーキーなラップがニガテなんですよ。TWIGYは天才だということは良くわかるんだけど、どちらかというと自分の好みではない。寧ろ単純な譜割でシンコペートしているようなグルーブがあるラップがオレの中での基準として高い位置にある。だから結構スタンダードなラッパーが好きだし、そういうラップがしっかり出来る人が「上手い」人なんじゃないかと思う価値観がある。日本人で言うと茂千代とか。安定感があってムリしてラップしているように聴こえないようなものが好きなんですよね。

磯部:ここで、敢えて日本から話題をずらしてみたいと思うんですけど、アメリカで南部のヒップホップが流行りだしたときに東海岸の人たちが言ったのは「あれはラップが上手くない」ってことじゃないですか。「歌詞が幼稚だ」ってこととか、「フロウが良くない」ってこととか。でも、ヒップホップとして「勝った」のは南部の方だし、東海岸の人たちが「上手くない」といおうが皆普通に聴いている。それってなんなんだろうね。オレはSOULJA BOYとかめちゃくちゃ好きなんだけど、あれはいわゆるニューヨーク・ハードコア・ラップが築いてきたラップの上手さの基準からは一切外れたものだよね。でも、ヒップホップだったり、ブラックミュージックの面白さからは全然外れていないと思う。歌詞もフロウも稚拙だけど、グルーブはあるし、すごく面白いラップだと思うんだよね。

微熱:それこそSOULJA BOYなんてNAS的な視点で見たら話にならないですからね。

磯部:そう。だから、ラップの上手さを重視する人の言う「ラップの上手さ」っていうのはヒップホップっていう枠組みの中では物凄く狭い範囲の話なのかなっていう。ヒップホップというピラミッドの中にあるもっと小さいピラミッドの中の話なのかなと思う。

微熱:物凄く主観的な価値基準ってことですよね。別の視点で見ると上手くも下手にも見えるっていう。

磯部:「ラップの上手さ」って、SCRIBBLE JAMのヴィデオとか観てると、技術的にはもうこれ以上上手くなりようがない限界まで達してしまっているのかも、とも思うしね。

古川:そして、「上手い」ってそんなに良いことなの?っていう疑問が生まれる。

磯部:そう。それこそギターの早弾きを聴いているような感じ。Busdriverとかさ。
 そう考えるとギターと同じでブルースみたいに「味のある」方向に逸れて行かざるを得ない感じがする。やっぱり「上手さ」ってある程度の限界がある。限界までの競争は面白いけど、皮肉っぽくいえばその先にあるのは「味」っていう横並列の世界――”世界にひとつだけの花” みたいな「みんな綺麗だね」っていうような話なんじゃないの。

古川:もともと音楽であって、スポーツじゃないから単純に「上手い/下手」を問うている訳じゃない。そもそも音楽に「上手い/下手」を持ち込んでいる時点でダブルバインドになっている。本来、エンターテイメント、もっと大きく言えば芸術にとって、「上手い/下手」は「手段」の話に過ぎない。スポーツだったら「上手い/下手」っていうのは優劣を競う「目的」になる。スクラッチが完全に開き直ったのは、「これは音楽以外の何かである」ということがこれ以上ないくらい分かりやすい方向に進んでいって──DMCとかの大会のことね──、未だにずっとやり続けているし、片やそこから逸れた人は音源制作に走ったりする。いまだにスクラッチ・ヒエラルキーの頂点にいるD-STYLESにしたって、Qバートと昔からずっとやっていたのに、Qバートはまだバトル(あるいは曲芸?)の方にいるけど、D-STYLESはもう完全にバトルからは降りちゃった。

磯部:唯一、Qバートは上手さを極めすぎて頭がおかしくなった。

古川:そうそう。音楽か何なのかわからないっていうところまで行って、ギリギリ成立している。でも、じゃあ技術的に上手い映画や文章に皆が感動して、売れるかって言ったら決してそんなことは無い。だから、「ラップの上手さ」っていう話はヒップホップの中でも凄く小さいものだとは思うんだけど。

磯部:「ラップの上手さ」という基準を作って、競争することによって「シーン」を作りたいってことだよね。スポーツだってオリンピックが何故あんな競争をするかって言ったら要するに世界平和のためでしょ?

古川:理念だけで言うとね。

磯部:それがうまく行っているかどうかはわかんないけど、世界中の人と1個の基準を作って盛り上がりましょうっていうことをやっている訳でしょ。だからラップもそうだと思うんだよね。ロックはもう全くそれが成り立たなくなっている。味っていう方向に行くと、それぞれがそれぞれの好きなことをやるっていうことになるんだけど、ヒップホップはただのおべんちゃらかも知れないけど一応「シーン」というものがあって、皆が共同体ですよという意識はある。だからそれを成り立たせるための「上手さ」なのかなという気はする。

古川:さっきも話していたMCバトルっていうのは「1個の価値観に収束させましょう」という装置なんだよね。ただ、それはさっきも言ったとおり根本的にムリがある。色々な価値観がある中で、擬似的に一回その価値観を収束させて比べっこしようぜっていうもので、それが皆の共通認識としてある内は成立するけど、それが段々マジになってくると…。
 B-BOY PARKのMCバトルが失敗したのは、バトルの場があそこしかなかったから、あの場所のステータスが高すぎたためなんですよ。要は本来ムリがあることをしているのに、「これは単なる遊びですよ」っていう感じでやっているならともかく、1位になったらディールが取れたり、負けると本当に悔しくなるっていうのがどんどんシリアスな状況を作っていってしまった。その為に、本来多様な価値観を観て遊べる品評会みたいな空気が失われてしまった。

磯部:そこで飽和状態になって終わっちゃうのかと思っていたら、意外に皆は競争好き。

古川:拡散と集合は必ず定期的に行われるものなんですよ。

磯部:でも、拡散した状態で好きモノが集まっているっていうような状態でもないじゃん。やっぱりULTIMATE MC BATTLEの中でもそれなりの基準――シーンがあってアレに優勝したものが一番優れているっていう感覚はあるわけじゃない。

微熱:いま、他のジャンルの話とかも出ていたんで思ったんですけど、やっぱりヒップホップって「勝ち負け」の音楽なんですよ。「勝ち上がって成り上がっていくものだ」っていう。だから皆、やっている側も観ている側もMCバトルみたいなものは好きだし、それが無くなることは無いと思うんですよね。シーンによって「上手い/下手」の価値観がリスナーに刷り込まれていくっていう話もありましたけど、ヒップホップって勝ち負けの音楽である以上はそういう「刷り込み」は無くならない。そういう風に考えると、今のアメリカだって、東海岸や西海岸や南部でいろいろ価値観も変わってきていますけど、そういう「勝ち負け」の基準って言うのは根強く残っていると思うんですよ。

磯部:アメリカって「ラップの上手さ比べ」は崩壊したと思うけど、「セールスの勝ち負け」の勝負は残っている。だから、セールスを上げていくために何を武器にするかっていう比べあいになっている。

古川:カニエと50 CENTのセールス勝負みたいにね。

磯部:実はヒップホップの中に根強く残っているのは「勝ち負け」であって、「ラップの上手さ」では無いのかもしれないね。

微熱:SOULJA BOYだってあれはあれで勝ち組ですからね。

磯部:MYSPACEを使って、メディア戦略の方向で勝ったわけだね。

微熱:これまでの話から全然外れてしまうんですけど、私はTKCの”百姓一揆”が好きなんですよ。NORIKIYOの”EXIT”ははじめラップとトラックが単調でなんでこれが売れているのか全然わからなかったんですけど、さっきの磯部さんの話にもあるようにリリックの良さに気付いて、今のストリートヒップホップに近い感じが受けているんだろうなってようやく理解できた。逆にTKCを聴いていて私が独特だなって思ったのは、「彼がヒップホップをやっている」ということ自体に関してなんですよ。ヒップホップってさっきも話したとおり「勝ち負け」の音楽じゃないですか。だけどTKCって別にそんなに勝ち負けを重視しているわけでもない。でもSDPというストリートヒップホップに近い、常に勝ち負けを意識するようなところに身をおいていて、勿論「勝ち上がりたい」っていう意識も持っている。そこら辺の自分の環境と自分の意識とのギャップや矛盾が作品に良い形で落とし込まれている感じがして、すごく面白いなって思ったんですよ。

古川: TKCは勝ち負けの彼岸にいるわけではないと思うんですよ。寧ろ勝ち負けに対する意識は彼の内部にたっぷりとあって、その中であえて負けている方を選んでいるというのが、彼の凄く捻くれたヒップホップ的立ち位置になってる。ある意味、ヒップホップの価値観の犠牲者というかね。

磯部:要するにベスト・セラーのタイトルじゃないけど「負け犬の遠吠え」だよ。「負けるが勝ち」ということを彼は作品の中で訴えているわけでしょ。

古川:そうそう。だからそういった意味でいうと、彼は従来のヒップホップの系譜や日本語ラップの系譜に位置していて、そこに僕はすごく親しみを覚えるけどね。

磯部:だから今度オレが書く日本語ラップ本の要になると思うけど、最近よく考えるのは日本語ラップって「新自由主義の権化」っていうか今の世の中の良くも悪くも象徴だと思うのね。
 本当に「勝ち負け」のベクトルで動いていてさ、SEEDAが”HEAVEN”で「オレは勝つんじゃなくてドロップアウトするんだ」っていうことを言っているじゃん?あれもそういうところからくる発想でしょ。「スローライフ」っていう言葉がリリックにも入っていたけど、スローライフって新自由主義の中の一つの選択肢にすぎないしね。

古川:勝ち負けを意識していないわけでは無いからね。勝ち負けを意識した上でやることだから。

磯部:スローライフって元々はイタリアで始まったスローフード運動からきているんだけど、案外新自由主義と結びつきやすい考え方で。

古川:そうそう。だから別に眠たい話じゃないんだよね。

微熱:格差社会って言葉もありますけど、社会全体にそういう「勝ち負け」がしっかり出てしまうような枠組みが作られてしまっていて、その中で勝ち負けの音楽をやるっていうことに対して、TKCの曲の中でもありますけど「あせりを感じつつも自分のペースを守りたい」っていう感覚は同世代としてもすごく共感できるんですよ。

古川:「オラが畑に手を出したら殺すぞな」とか言っているしね。

微熱:しかも鬱になりながら言っているわけじゃないですか。

磯部:だからすごく皆とらわれているよね。彼らが新自由主義者かどうかはともかくとして、そういう枠組みの中でやっているんだなって思う。

古川:でもそれが「今ヒップホップを聴いているな」っていう感覚にもならない?「勝ち負け」という意識が背景に出ている音楽を聴いていると「あぁヒップホップっぽいな」って思うことがある。

磯部:そういう風に思うし、やっぱヒップホップってずっとそういうものなんだよ。”HIP HOP GENERATION”っていう本が今出ているけど、あそこに書かれているような「反アメリカとしてのヒップホップ」だったり「新しい思想としてのヒップホップ」みたいなお題目にオレは結構ひいちゃうタイプで。ヒップホップって汚い部分だとか矛盾があるからこそ面白いものだと思うんだよね。

微熱:あぁそれはすごく共感できるな。

磯部:大体が、アメリカ自体矛盾の国なわけで、最悪な国ではあるけど、今でも世界で一番リベラルな国だと思うしね。オバマとヒラリーが選挙戦で戦うとかそういう国は他に無いから。そういう良い面もありつつ、最悪な面もある。そういう両面を体現しているのがヒップホップで、それは昔からずっとそうだったと思うんだよね。
 日本のヒップホップもきっと同じで、日本という国の最高な部分と最悪な部分を同時に抱えて体現している。オレがダースレイダーの意見に対して最初から今に至るまで賛同できないのは、彼は「ヒップホップこそ未来である」というような言い方をするでしょ。そういう風には全く思えないというか、本当に日本を良い国にしようと思うのなら「ヒップホップなんて聴かない方がいい」とまでオレは思うんだよね。

微熱:今、日本語ラップってすごく面白いと思うんですよ。ラップスキル的な話とは別なんですけど、リリックを今までに無いくらい重視して聴くようになっている。その上で面白いと思うのは、今の日本の社会の流れと日本語ラップの流れがマッチしているからなんですよね。だから彼らが言っていることはよく判るし、実際に身近に感じることもできる。それは今までに無かった日本語ラップの面白さの一つだと思いますね。

磯部:オレが一回ヒップホップから離れた理由として、MSCに対してアンダーグラウンドやインディペンデントな精神を託していたのに、彼らは「成り上がりたい」とか「金を儲けたい」というようなことを実は言うということに気付いたからなんだよ。でもあれから5年くらい経って、実はそういうダメさも含めてヒップホップなんだなと思うようになった。
 D.OのBOOT STREETだとか、SEEDAのディールのやり方とか見ていても思うけど、要はみんな金儲けしたいわけじゃない?金儲けするならインディーでやったほうが金が儲かるからインディーでやっているわけで、やっぱりそのタフさは肯定するべきなんだよ。オレはどちらかといえば左翼だから左翼の綺麗ごとから言えばそんなことは否定しなければいけないんだけど、こんな時代を生きている若者の力強さはどう考えても面白い。

古川:ICE DYNASTYを聴いていると、その若者のタフさみたいなものは感じるね。「金を稼ぐ」っていうことに対して全くけれんみが無い。今の時代のネガティブな空気を思いっきり吸い込んでいるけど、ポジティブな面もあるというか。
 今、話を聞いていて思ったのは、自分の話になっちゃんうだけど小林大吾のこと。彼のアルバムを人に渡す時、「ラップに聴こえるかもしれないけど、ラップじゃないんですよ」っていう説明をしてたんだけど、聴いた人に「普通にラップに聴こえたよ」と言われることが多くて。いま思うとそりゃそうなんだけど、じゃあなんで最初に俺が彼をヒップホップではないと思ったか。今の話を聞いていて、小林大吾は日本社会の中にある「勝ち負け」という価値観からは全く離れているから、「ヒップホップ」のカテゴリの中に入るものではないように聴こえたんじゃないかなぁとは思った。
 オレがヒップホップを聴く中で何を求めているかというと、良いことも悪いことも含めて「今、起こっていること」や「今、感じてしまうこと」を何らかの形で示しているものなんだよ。

微熱:私は2ndの”詩人の刻印”より1stの”1/8000000”の方が好きなんですよ。もっと言えば、”1/8000000”よりも前の曲の方が好き。それは何故かってことを考えていたんですけど、彼のリリックって基本的に身の周りに色々なモノを置いて、リスナーがぱっと聴いて想起できる「空間を構築していく」んですよ、ずっと前から。例えば、ネット上にアップされていたすごく前のmp3の曲(http://www.asahi-net.or.jp/~cq2k-ktn/mp3/daigo.mp3)もそう。リスナーの身の周りに狂った時計を配置して、「箱を探すための空間」を構築している。”1/8000000”の頃まではその空間がすごく寂しくて閑散とした冷たいものだったんだけど、”詩人の刻印”になるとその空間が騒々しく賑やかな温かいものに変わっていた。それまで物体が主に置かれていたのに、色んなキャラクターが配置されて描写される世界が広くなった。これは多分、彼の実生活の変化が影響していると勝手に思っているんですけど、つまりそれだけ「楽しい生活」に根ざした曲になってきたと思っているんです。
 だから、古川さんが言うような「小林大吾の曲がヒップホップに聴こえてしまう人がいる」という話で、前作よりかは”詩人の刻印”のほうに多くなるのはわかる気がするんです。実際すごく音楽的になっていますけど、それ以上にリリックとして身近で、リアルで、実生活に根付いた表現に近くなった気がするんですよね。

磯部:結局、「ヒップホップが聴きたい」というのと、「ラップが聴きたい」というのは全然違うものなのかもね。

微熱:それは最近、常々思いますね。

磯部:ヒップホップって週刊誌を読んでいるのに近いところがあるもんね。音楽的に面白くないと思っても、やっぱりハイフィとか買っちゃうもんねぇ。

微熱:日本語ラップも、リリックをこんなに注意して聴くようになったのは最近ですからね。どんなにラップがへたくそでもリリックを聴くためにラップを聴きますから。

磯部:歌謡曲には別に音楽的な面白さはそんなになかったと思うんだけど、ちゃんとその時代、その時代の空気が反映されていたというか、俗的な面白さがあったじゃない。でも、最近のJ-POPは俗性を排除して、悪い意味での「癒し」みたいなものを、ただの逃避の場として提供しているというか、そこには俗的な面白ささえない。一方で、アンダーグラウンドな音楽は音楽的には面白いけど、やっぱり浮世離れはしているよね。
そういう意味で、「音楽的な面白さ」と「俗的な面白さ」が両立している音楽はなかなかないなと思っていたんだけど、意外に日本語ラップがそれだったんだなということに最近、ようやく気付いて。それが、オレが日本語ラップについてもう一回書き始めた理由でもあるかも。

微熱:いつも思うのが、本当に「勝ち上がりたい」と思うなら、ラップ以外の仕事ほうがぜったい確実。それでもやっていること自体に矛盾があってそこがすごく好きなんですけど。

磯部:AMEBREAKがサイバーエージェントと組むとか本当にわかりやすすぎる図式だからね。新自由主義の象徴でしょ?

古川:君もそこで仕事してるじゃない!

磯部:スポンサーですから。
 でも、藤田社長が日本語ラップ好きとか本当にわかりやすいよなぁ。

古川:こじつけっぽくなるけど…。今の若い子達って言語的な空間にいることが非常に多くなってきていると思うのね。例えば、今ってブログをやっている子がすごく多いじゃないですか。
 で、すごいバカが書く文章ってこれまで読む機会があったかっていうと無かったと思うんですよ。バカは文章を書かないことになっていたでしょ。

磯部:極度のバカは書くけどね。

古川:(笑)そうそう。極度のバカくらいしか書かなかったわけ。でも最近はライトなバカも文章を書くようになっていて、そういう文章に触れる機会が増えたなぁと思っていて。
 よく冷静になって考えると、深夜のクラブチッタとかに100人以上も少なくとも1曲分以上の歌詞を書いている人間が集まっているのって実はとってもおかしなことだと思うんですよ。

磯部:でもラップに関して言うと、だからって何か弊害があるってものでもないと思うけどな。表舞台に出てくる人は上手い人でしかないわけでさ。例えば『恋空』なんてその弊害の極地じゃん。バカが書くっていうか、読み手もバカだしさ。皆バカだからバカが重なってあんなものが一番売れちゃうからね。あれはもう末期症状だと思う。ラップはそれと比べれば芸術の域がまだ保たれていると思うよ。

古川:いや。別にバカが文章を書くことに関しては、悪いとは言ってなくて。むしろいいことだと思ってるけどね。ただ単純に数年前と比べたら若者達が文字にさらされる機会なり空間なりが圧倒的に増えたと思っていて、ひょっとしたらそういう現象もラップの何かとシンクロしているのかなぁと思ったりするんだよね。

微熱:ハスリングしているような文字から遠い連中があんなに文学的な詞を書くこと自体がまず驚きですよね。

古川:それは前に磯部も言っていたし、オレも書いたことあるけど、「絶対この人、漢字とか知らなかったはず!」というような人がすごくグッとくる詞を書いたりするよね。

磯部:それはあれですよ、「無知の涙」ですよ。こんな機会が無かったら文学に触れることなんて無かった人たちが書いているわけだから。

古川:磯部はトコナに関してそういうこと書いていたよね。オレはRINO聴いたときにそう思った。

微熱:SEEDAにしろ、NORIKIYOにしろ、本当に感動するようなフレーズがバンバン出てくるじゃないですか。アレなんなんだろうなぁと思って。『恋空』みたいなケータイ小説のような文章が氾濫して、バカな文章に接する機会が増えてきている中で、あれだけ練られたリリックが書けて、しかもリスナーもしっかり付いていくシステムがよく生まれたなぁって感心しますよね。

古川:『SSWS』というSLAM形式のイベントにずっと係わってきたんだけど、あの場でフリースタイルをやるラッパーが多くてね。5分間フリースタイルをやるわけだけど、バトルでもない、相手もいない、そんな中でフリースタイルをやるというのははっきり言って地獄なんですよ。やっている側も、観ている側も。もう「言うことがない」というようなことを延々フリースタイルしている子が結構な数いて、それは観ているのもツライんだけど、その場で思ってもない面白い言葉がポロっと出てくることが往々にしてあったんですよ。そういう「何か言わなければいけない」というような逆境、もしくは「形式」によって生まれる面白い表現が生まれることがある。「韻を踏まなければいけない」だとか、「面白いことを言わなければいけない」だとか、勝手に色んなプレッシャーを作り出した場でこそ、出来る「面白い表現」というものがあるんだよね。

磯部:『しゃべり場』と逆だね。

古川:アレはしゃべりたいことがあるけど、形が追いついていない。
だからオレはバトルじゃないフリースタイルも好きだしね。あと知り合いの笑い話だけど、彼女と遊びでフリースタイルバトルしていたら思ってもいないヒドイことを言ってしまって彼女を泣かせちゃったというのがあるけど…。

微熱:ははは

古川:だから、「形式」が先導している状態も別に嫌いじゃない。余談だけどね。

磯部:さっきの話に戻すと、『恋空』は社会学的に分析すると確かに面白いんだよ。面白いんだけど、面白さの中で一番勝っている要素は「ヒドさ」じゃない。日本語ラップも世の中の「ヒドさ」は体現しているんだけど、それ以上に音楽的にも文学的にも面白いし、やっぱり普通に「良い」んだよ。だから、この世の中の「ヒドさ」をはからずも体現しているとは言っても『恋空』と日本語ラップは全然違う。

微熱:ヒップホップで勝ち上がってセールスを伸ばしていくために必要なものって「自分の話題作り」だと思うんですよ。で、今までの日本語ラップって実際に注目されるものは大体何かしらの「ドラマ」がある。例えば、”証言”だったり、”人間発電所”におけるBUDDHAの帰国だったり、BIG JOEの投獄だったり。ああいう話って予期せずに出来たものもありますけど、自分から行動して「ドラマ」を身につけていくもので、ある意味でそういう逆境に身を置く「行動力」みたいなものが日本語ラップの表現に深みを与えているのかなって思いました。

古川:「私小説」って日本特有のジャンルと言われるけど、BIG JOEも”証言”も極めて「私小説」的な構造だよね。

磯部:さっき読んでいた坪内祐三の『本日記』で、孫引きになっちゃうから出展は良く判らないんだけど、明治時代の論文で「若い評論家はその作品の持つ芸術性の有無ではなくて、その裏にある政治性で作品を評価するからダメだ」ということが書かれていて、坪内祐三が「いつの時代も同じですね」って書いているんだけど、それを更に物凄く反転して解釈すると、「ラップの場合はその裏にある政治性を読み取らなければ意味がない。だからこそ表現として若くて楽しい」という風に捉えることも出来るかもね。
 いまはまだ芸術性だけでラップを評価できないわけじゃない?どういう文脈で、どういう立ち位置で、どういう人間が発表した作品なのかというものが物凄く大きいわけでさ。それは「表現」としては映画とか文学に比べて未熟だとは思うんだけど、でもそこが面白い。

古川:言い方を変えると、それこそ「シーン」だよね。作品単体では成立しえない、「シーン」という情報網があって成り立つものでしょ。「彼の身にこういうことが起きたらしい」という情報や「彼はこんなに悪い人らしい」という情報が張り巡らされている場所そのものが「シーン」なわけ。そうすると、そのシーンの中にいて作品単体を評価すること自体が逆に不自然じゃないの? やっぱりシーンに多少なりとも触れてる人なら、BIG JOEやMSCのバックボーンの情報は入ってきちゃうものだし、そこを排除して評論するのは不自然でしょ。「シーンに入る」ということはそういう「情報網にアクセスする」ということと同義だと思うな。
 勿論、そういう情報を踏まえて評価するということと、情報を切り離して評価するということは冷静に切り分けてやっていかなければいけないけどね。

磯部:日本語ラップがバブル化してメジャーからアルバムが出ていた時期って、みんな定期的にアルバム出さなければいけないから、1年に1回とか作品が出ていたけど、その前年に出した作品とどう変わっているか?っていったらあんまり変わっていない。その作品を出した理由って契約上の理由でしかないわけだから、どんどん芸術的な方向に偏っていく。「次はどういう表現をするか?」「次はどういう手段で行くか?」というようになっていって、何かに怒っているから出すとか、他のヤツに焦らされたから出すとか、政治的な理由が無くなっていく。RHYMESTERもそうだし、ECDだってそうだしね。RHYMESTERもECDもヒップホップゲームからは降りているから、純粋に音楽的な理由で作品をつくっている。でもそうすると、今話していたようなヒップホップ的な面白さからはズレてきている。やっぱSEEDAとか般若とかそういうストレスフルなところで活躍している人のほうがヒップホップとしては面白かったりするしね。だからヒップホップっていう音楽はそういう政治的な面を面白がるという部分も絶対にあるでしょ。

微熱:THA BLUE HERBの”STILLING STILL DREAMING”って結果的にすごく評価されたわけじゃないですか。それは前の対談でも古川さんが言っていたとおり「北海道という場所にいてドラマが作りやすかった」というところがあると思うんですけど、その後の2NDアルバムを出す前に「海外に旅をしに行く」という行動自体こそがそういう「ドラマ」を身に付けに行く行動だった訳ですよ。彼はヒップホップアーティストとして何かしらの話題やドラマを身につけなければいけないと無意識に思っていて、ああいう行動に出たんじゃないかなと思っているんです。

古川:THA BULE HERBはあまりに圧倒的になりすぎて、肩をならべる仮想敵がいなくなってしまったためにマッチポンプをずっと繰り返していたわけだよね。自らに負荷を与えてそれでドラマを抽出しようとしていたんだけど、でもそれもだいぶ飽和しちゃったっていう印象はある。逆に他人のドラマに利用される立場になったきたよね。「SEEDAは”MIC STORY”でBOSSを完全に殺しに行った」って磯部も言っていたけど。

微熱:本当にそうだと思いますよ。だから”LIFE STORY”の中でも自分で言っていますけど、自分で仮想敵を作ることくらいでしかモチベーションを上げれないという状況はあれはあれで可哀想だと思いますね。
 それに日本語ラップってこれまでBOSSのような「自己肯定」でゴリ押しするスタイルが主流だったけど、SEEDAのような「自己否定」的なスタイルが出てきたせいで単純なセルフボーストはすごく古臭くなった感じがするからなぁ。

磯部:SEEDAの”HEAVEN”を聴いて思ったけど、SEEDAのラップの基となっているのはBOSSとZEEBRAなんだよね。

古川:ほほう。というと?

磯部:BOSSのラップの面白さと、ZEEBRAのラップの面白さが共存しているんだよ。
BOSS THE MCのラップの面白さってわかりやすいから、野田(努)さんみたいなヒップホップ外の人たちが評価したのもすごくわかるんだけど、腑に落ちなかったのは彼らがZEEBRAのラップ――ヒップホップがアメリカからの輸入文化で日本語ラップはそれのモノマネだっていうところを全部自分で背負っているZEEBRAのラップ――を嫌うからなんだよ。SEEDAはそのZEEBRAのラップすらも受けとめていて、BOSSの要素だけではなく、ZEEBRAの要素まで持ち合わせているからオレはSEEDAが好きなんだと思ったね。
 BOSS THE MCやSHING02は両手離しで好きとはいえなかったけど、SEEDAは今までのラッパーの中で一番好きかもって思ったもんね。

古川:日本社会が抱えている「滑稽さ」まで体現しているということね。アメリカという国にどうしようもなく支配されてしまっているのに、そうされていないフリをしている。あるいは、それが意識にのぼることさえなくなっているという。

磯部:西洋のサブカルチャーが好きな人って「日本ってやっぱダメだよね」っていう結論に落ち着く人が多いんだけど、そんなこと言っていてもしょうがないでしょ。でも、その対極としてオタク的な人は「日本の良さ」みたいなことを言い過ぎるじゃん。東浩紀が「おまえら洋楽聴きすぎ」とか言うのってコンプレックスでしかない。そういうのどっちもイヤなんだけど、SEEDAはその両者から否定されてしまうものを両面持っている。

微熱:さっき話していた「韻至上主義」じゃないけど、「日本語でラップしないと意味が無いだろ」というような思想と、「そうはいってもアメリカからの輸入文化なんだから影響受けないわけないだろ」というような思想の両方をうまく内在できているのがSEEDAだ、ということですよね。

古川:日本語ラップにスリルが発生する一つの要素として、「アメリカとの距離をどのようにはかるか?」という部分がずっとあると思っている。やっぱりこれは日本でヒップホップをやる上で絶対に意識をしなければいけないところなんだよね。

磯部:00年代に入って、政治的に世界をリードしてきたのはブッシュだけど、音楽的にはヒップホップだよね。かつてのメッセージ性は拝金主義の権化みたいな形に変貌を遂げたけど、音楽的には文句のつけようがない。音楽が好きな人なら本気でも皮肉でも「面白い」としか言えない。SEEDAはそういった全てを受けとめていると思うけどな。

古川:日本でももう「ヒップホップをやる」っていうことを自然なこととして受け止めているよね。『リンカーン』で中川家のお兄ちゃんがラップしたときのあの会場の反応って、ラップには「上手い/下手」という基準があるという全津で「ラップの上手さ」の話をしていた。10年前から比べると、日本語ラップが格段にスタンダードなものになっている。

磯部:RUN-DMCの前でタモさんがラップしていたころとは全く違うものだよね。

古川:そうそう。でも未だに「日本人がラップをするのは無理だ」という意見も当然のようにある。日本の中のヒップホップでさえも人によって距離感が違うし、アメリカのヒップホップに対しても人によって距離感が全然異なる。アメリカナイズされた日本語ラップを「滑稽だ」という人もいれば、あれこそが「我々の縮図だ」と思っている人もいるし、逆に「自然なもの」として見ている人もいる。

微熱:いまニコニコ動画でラップしている子とかいるじゃないですか。彼らって、いわゆるJ-RAP的な商業的なラップも聴いてきたし、アンダーグラウンドな日本語ラップも聴いてきたような、普通に「日本のラップ」に接して暮らしてきたような子なんですよ。でも、ああいう子たちってアメリカのヒップホップをあんまり聴いてきていないみたいで。そういう人が今後どんどん増えてくると、さっき言っていたような「面白さ」を持つSEEDAのようなラッパーはあんまり出てこないのかもしれないとは思いますね。アメリカナイズなヒップホップと今まで培ってきた日本語ラップの文脈の両方を内在しているラッパーはもう出てこないかもしれない。

磯部:だから、”HEAVEN”の最後の曲が全部英語のリリックだというのが、「いまだにアメリカが上位に立っている」ということを象徴しているような気もするけど…どうなんだろうね?サブプライムローンの話じゃないけど、アメリカの力が弱まっていく中で、僕達が愛するバタ臭い日本語ラップ、USヒップホップの舎弟としての日本語ラップもあれで最後なのかもしれないって感じはする。究極の形なのかもね、アレが。

古川:さっきの東浩紀の話ともリンクするけど、「日本のオタク文化が世界を席巻している」という話があるけれど、「どうもそうじゃないらしい」という話がポツポツ出てきているみたい。アメリカでも日本のアニメのDVDのセールスは落ち込んで来てるらしいしさ。イギリスに行っても「日本のアニメなんかガキのジャンクカルチャーだ」という意識は全然あったりするから、みんなが言うほど日本のオタク文化が優位かっていったらそんなことは無い。ぼちぼちその辺が日本の中でも明らかになっていくと思うんだけど…。

磯部:それは何に移り変わりつつあるの?

古川:どうなんでしょうね?ゲームもアメリカとヨーロッパに完全に負けているからね。日本のオタクカルチャーで世界に誇れるものってだいぶ無くなって来ていると思うんだけど。アニメ離れも進むだろうしね。

磯部:00年代の前半がオタク文化の臨界点だった感じはするからね。文学でもライトノベルが注目を浴びて、オタク的なものがメイン・カルチャーに侵食したのももう限界にきているじゃん。

古川:桜庭一樹が直木賞獲ったしねぇ…。

磯部:まぁでも00年代前半の空気を象徴していたのは、メジャーならお笑いと格闘技で、アンダーグラウンドなら日本語ラップだったと思うんだよね。受け手側の欲望はみんな一緒で「誰が一番なんだ?」ということを知りたがるという。アートの中にエンターテイメントと競争性を持ち込むという意味ではその3つは殆ど同じだと思うね。

古川:そう。他者にコミットする上で大切なのはそのふたつなんだと思うよ。競争性って言い換えれば「物語性」ってことだし、「エンターテイメント性」の中で最も即興性があって瞬発的なものは「笑い」でしょう。日本語ラップにしたって、ディスだとかバトルのような勝ち負けの場でも、競争性だけでは無くて、必ず片側に何かしらの「ユーモア」が含まれていることが大きい。「競争性」だけ、「ユーモア」だけでは限界が出てきてしまう。単一的になってしまうと、価値観がどんどん一つに集約されてしまってつまらなくなってしまうのだけど、理念として「他者へコミットできなければ意味が無い」という意識を持って、その2つが常にお互いに対してチェック―自浄作用を起こすことで、バランス良く他者へコミットできる力を持てるんですよ。だからそういう意味ではその2つの要素を持っている日本語ラップはとても健全なものだとも思うんだよ。

微熱:周りとの「協調」を意識しつつ、勝ち負けのような「競争」のメカニズムがきちんと出来上がって、常に新陳代謝を繰り返しているってことですね。

古川:その中でみんなが共通認識として持っている基準が「ラップの上手い/下手」。だから「ラップの上手さを競う」という価値観がシーンに根付いているのはそういったバランスを取る意味でも良いことなのかもしれない。

磯部:ハードコア・パンクにはそういう競争的な価値観はないからなぁ。オレはどちらかといえば「勝ち負け」っていうベクトルはアートにはないほうがいいとは思うんだよね。例えば、お笑いでいったら「M-1」という価値観が入る前の方が漫才も面白かったから。そういう競争原理に全て組み込まれてしまうと単一化されてつまらなくなってしまう部分は絶対にある。でも、「誰が一番か決めよう!」という欲求が生じるのはとても自然なことだとも思し、その中でも常に抵抗する逆のベクトルは発生するわけだしね。

古川:日本経済の中でも本当のトップ集団は結局外国に行っちゃうわけじゃないですか。

磯部:SEEDAもそういうことを示唆しているよね。「オレは競争からも抜け出す」って。

古川:でも、向かう先はアメリカ。アメリカが持っている利便性というのもそういうところなのかもね。未だに勝ち上がりゲームの行き着く先はアメリカだったりするし…。競争から逃げてもアメリカっていう。

磯部:とりあえず日本語ラップに関して言うと、さっきも言ったとおりまだ「上手さ」は飽和していないから、今後もしばらく競争は続くだろうね。
 
古川:それがアメリカのヒップホップのように飽和するかどうかだよね。まずは。

磯部:”HEAVEN”でまた「上手さ」を追い求める風潮になりそうな気はするけど。

微熱:日本ではヒップホップで勝てている人っていないじゃないですか?経済的な意味で。JAY-Zみたいに一街区を買い取っちゃうくらいの存在は日本にはいないのに、「勝ち負け」のシステムが出来上がっているのが興味深い。

磯部:いまで言えば日本語ラップで一番勝っているのはKREVAなんだろうけど、意外にみんなKREVAを目指していないよね。他のラッパーの子たちはKREVAを意識していないけど、逆にKREVAがアンダーグラウンドのラッパーを気にしているっていう図式になっている。だから、日本のシーンには経済的な競争が意外と持ち込まれていないのかも。

古川:寧ろ逆転している。金を一番持っている人が金を持っていない者を意識している。

磯部:経済的な格差より技術的な格差のほうが重要視されているっていう意味では健全な状態ともいえる。

微熱:でもそれはKREVAの作品の内容のせいだと思いますよ。KREVAのいまの作品って20代OL向けのような作風だから。少なくともB-BOYに向けて作っているようには思えない。だから自分と日本語ラップを繋ぐライフラインとしてアンダーグラウンドのラッパーとのコネクションを持っているような戦略的な意味合いが強い気がします。

磯部:戦略的だし、そういうのを極度に気にする人だからな。

微熱:ラッパーがみんな下層にいる状態で、一人頭が抜けているKREVAが下に目を向けているのは自然なことだと思いますね。

古川:今どんなに売れてるラッパーでも、「上手いラップなんて知ったこっちゃない」って言いきれる人っていない気がする。その上「上手いラップ」というものが実は結構曖昧であるがゆえに、ラッパーにとってそれが強迫観念にも繋がっている気がするんだよね。「オレのラップは上手いラップなんだろうか?」っていう。

磯部:SOULJA BOYは自分のラップスキルなんか全然気にしていなさそうだけど、日本でそういう価値観から自由な人っているのかな?

古川:YOU THE ROCK★なんて、本当は「ラップ下手でも売れているんだからいいじゃん」というようなことを言いたい人だと思うんだけど。

磯部:あの人は気にしているよね。

古川:凄く気にしている人だと思う。

磯部:本当はGAKUとかがそういうところにいくはずだったのに…。

古川:いかなかったですねぇ…。

微熱:結局、みんなはセールスには結び付かないから、技術のほうで勝負するしかなくて、そっちのプライオリティがいやがおうにも高まってしまうってことですよね。その流れにKREVAも巻き込まれている。純粋にヒップホップ的な表現をしていて、しかもそういう「上手さの競争」から逃れているのってRHYMESTERじゃないかな?ZEEBRAは飲み込まれているでしょ?

古川: RHYMESTERはともかく、ZEEBRAは凄くトレンドを意識してるでしょうね。

磯部:そういう意味だと、彼らがいま何を想ってラップという表現をやっているのか重要な気もするけどね。RHYMESTERの”HEAT ISLAND”もストリクトリーヒップホップだったからねぇ。

微熱:いま時点でいうなら、敢えてここで日本語ラップの文脈から外れようって動きはしないと思うんですけどね。BLASTやSOURCEが休刊になったり、レコ屋が潰れていっている中で、逆に内のほうに固まっていく流れが出来ていっているんじゃないかと勝手に思っていたんですけど…。

磯部:…いま店にMISSYのPVが流れていて思ったけど、アメリカのヒップホップってファンクだったり、ソウルだったりのブラックミュージックの歴史に拠り所を求めることができるけど、日本語ラップの場合は日本語ラップの歴史そのものに比重を置きすぎているんじゃないかな。

古川:それは日本語ラップが過去の音楽の系譜と断絶しているからじゃない?

磯部:断絶はしていないかもしれないけど、「日本語ラップからはじまった」という意識の方が強い。そこがキツイところなんじゃないかと思うね。
 ひょっとすると、TIMBERLANDやMISSYがやっているような音楽から考えると、イルリメとかのほうが純粋なのかもしれないね。イルリメは日本語ラップの歴史も意識しているけど、それ以上に過去の日本の音楽の歴史を重視しているし。逆に言うと、いま日本語ラップの歴史に固執している人たちのほうが相当特殊な考え方だよね。こんな若い音楽を「歴史化」するなんてさ。

微熱:「音楽ルーツ」の話で言えば、アメリカのヒップホップはそれまでのブラックミュージックとの親和性が高い分、ソウルやファンクに回帰したようなヒップホップを聴いてもまったく違和感が無いですよね。逆に日本語ラップでJ-POPやテクノやロックにアクセスしている曲を聴くとすごく違和感あるんだよな。イルリメもそうだけど、MCUとか、アルファとか。だから、日本語ラップは他の音楽ジャンルと断絶しているというのは自分的にはすごく説得力がある。ジャンルがミックスされたときに、ルーツで繋がっていれば自然に聴こえるし、断絶していれば違和感が生じるという。
でも、そうだとすると日本語ラップとJ-RAPを普通に並列で聴いてきたような下の世代が出てくると、ゆくゆくは自然にそこも繋がりそうな気もするけど。

古川:その可能性はあるよね。

磯部:例えば、NASに対する日本の幻想って物凄いけど、NAS本人がそこまでストリクトリーヒップホップかというとそうでも無い部分もあるじゃん。TOTOの”AFRICA”をサンプリングした”NEW WORLD”とかもそうだけど、そこまでヒップホップのことを考えていないフシがある。寧ろ、NAS好きの人のほうがそういうヒップホップ像を意識している感じがあるよね。

古川:JAY-Zのラップって、アメリカの中でも相当ユニヴァーサルだと思っていて。例えばヒップホップ・ジャーゴンだったり、ヒップホップ以降の価値観が相当含まれているにもかかわらず、幅広い世代の人に共有されてるでしょ。それはやっぱり黒人音楽文化の流れをアメリカ中でシームレスに共有できているからなんじゃないかな…日本って世代ごとに文化が切れちゃっているじゃない?

磯部:TOKONA-XやSEEDAは日本語ラップを知らない人もわかる良さを持っていると思うんだけど、本人が拒絶している感じもあるし、シーンが拒絶している感じもあるし…。

古川:逆に言うと、50代・60代の人はそこにアクセスできないものだと思い込んでいるところもあると思う。

磯部:「アクセスのしやすさ」っていうとBOSS THE MCがアクセスしやすかったからこそ、ジャンルレスに広がっていった。SHING02とBOSS THE MCは日本語ラップの文脈も押さえているけど、外から出てきたから色んなジャンルの人に受け入れられやすかったという面があるかもしれない。

古川:BOSS THE MCの書く「私小説」は他のジャンルの人にも乗りやすかったということだよね。

磯部:日本語ラップはもともとホコ天の流れとMAJOR FORCEの流れがあって、前者はディスコからの、後者はYMOスクールからの伝統を引き継いでいるんだけど、冷遇されてきた前者が90年代半ばに「逆転勝利」したことで、「自分達が作り上げてきた日本語ラップ」という物語が強調され、それまでの流れとは切り離されてしまったんじゃないかな。
RHYMESTERは比較的「外部の人間と接続しているんだ」ということを打ち出している人たちではあるかもね。ECDやRHYMESTERのような今は本筋から外れた人たちのほうが「外部との繋がり」を意識している気がするな。

古川:本人達の意識としてもおそらく、日本語ラップの中で「上手い」と言われたいというよりかは、あらゆるエンターテイメントやあらゆる音楽と比して「面白い」と言われたいというのがどこかにあるんじゃないですか。
 でも、日本語ラップは外部の評価がジャッジとして入ってこないイメージがあるな。

磯部:オレがZEEBRAの”THE NEW BEGINNING”を執拗に「良くない」っていう理由はそこかな。あの人は外部と繋がってこそ意味があったんじゃないの?っていう。

微熱:でも、そういう日本語ラップの呪縛から一番自由であるはずの日本語ラップを作った世代がなかなかそこから抜け出せない理由ってなんなんでしょうね?さっきの「違和感」の話もそうですけど、きっとそこから下の世代は既に作られたシーンの中でやっているわけだから、なかなか抜け出すことは難しいと思うんですよ。

磯部:「日本語ラップは日本語ラップだ」という風に決め付けているのはいわゆる「さんピン」世代なんじゃないかな。彼らがジャンル外から入ってきたのにも係わらず、「日本語ラップ」というジャンルを成り立たせるために外部との繋がりを遮断したんだよ。YOU THE ROCK★なんて「ハードコアヒップホップの権化」みたいに言われるけど、もともと須永辰緒のボーヤで、しかもMAJOR FORCE直系の人だったわけだからさ。それにも係わらず、一旦外部を遮断してジャンル内の純度を高める作業が90年代半ばに行われたんだよね。

古川:日本語ラップの「冬の時代」と呼ばれている時期がそういう時期だったんだよね。外部へアクセスできないというフラストレーションが、内部の純度を高めるに至った。

磯部:ジャンルの純度が高められることによって、日本語ラップの「ルール」が形つくられるようになった。そのときのコンセンサスとして「押韻」というものがあったのは間違いない。

古川:そういう話しをしていると、TWIGYって昔っから結構自由だったなぁと思うね。AUDIO SPORTSとかさ。

磯部:オレもTWIGYの全作品レビューで書いたけど、あの人こそMAJOR FORCE的な価値観をずっと持ち続けていた人だから。
 …でも、YOU THE ROCK★の”GRAFFITI ROCK 98”なんてのも結構そういう頭のおかしい感じのアルバムだったんだけどね。そう考えると、「さんピン」世代そのものは、「日本語ラップはこういうものだ」と決め付けておいて、実は意外と無茶苦茶やっていたんだけど、その下の世代がお題目の方を真に受けて、日本語ラップのピュアリストになっていったという傾向はあるかもしれない。それこそいま日本語ラップのDJをやっている人たちだとか。

古川:日本語ラップのピュアリストを想像すると、さんピンCAMPの客席の絵面が…。

磯部:STERUSSとかダースレイダーのような「ヒップホップは自由だ!」といっている人こそがピュアリストなわけでしょ。

微熱:じゃあ、そういう呪縛から本当に自由な人っているんですかね?

磯部:サイプレス上野とかは自由だと思うけど、その「自由さ」を打ち出すために、ラップバトルにも出たりして今までの日本語ラップの歴史もちゃんと踏襲していることをアピールしなければならないような風潮はあるかもね。90年代前半にキミドリがやっていたような無茶苦茶なやり方で「ヒップホップです」とはもう言えないだろうね。イルリメだって、日本語ラップシーンからは認められていないわけだから。
 …でも、そういう意味では、サイプレス上野には「不自由さ」を感じるけど、SEEDAには「自由さ」を感じるかな。サイプレス上野は「自由さ」に立脚してルールに縛られているけど、SEEDAはルールに立脚して「自由な表現」をしている感じがする。

微熱:根本的な問いになりますけど、ここでいう「自由」ってどういう状態を指すんでしょうね? SEEDAが自由ってことや、J-RAPを聴いて育ってきたの下の世代がその日本語ラップの枠組みから自由な表現を出来るっていうのはなんとなくわかるんですけど、それこそさんピン世代やさんピンのリスナーだった世代が「自由」だという状態がどういうものなのか想像できない。…ECDが自由だっていうのはわかるな(笑)

磯部:自由っていうか、ECDの場合はヒップホップやる前から音楽をやっていたからそこに戻ればいいだけなんじゃない。ECDだってロックから自由になれるかっていったら難しいわけだから。

古川:あの人はアンダーグラウンドカルチャーから自由になることは出来ないわけでしょう。

微熱:もはやカルマの話だな…。

磯部:だから、別に自由なのがいいとは言ってないよ。不自由な面白さもあるし。
あともうひとつ、「日本語ラップの歴史」を重視しているか、「アメリカのヒップホップの歴史」を重視しているかって別け方は出来るかもね。サイプレス上野はどちらかといえば日本語ラップの歴史を重視しているし、SEEDAはアメリカのヒップホップの歴史を重視している。

古川:「アメリカのヒップホップから日本語ラップに翻訳する作業」というものを考えると、いま日本語ラップをベースにラップをしている人って、その翻訳作業をやっていないわけだから自家中毒に陥りかねない感じはするね。日本での新しい表現というのは、常に欧米文化を参照・翻訳した末にあると思うから。

磯部:”HEAVEN”の中に入っている”MARY MARY”って曲聴いてビックリしたんだけど、さっきまで付き合っていて喧嘩して別れた彼女をビッチ呼ばわりしているんだよね。J-POPしか聴いてこなかった人がこれを理解できるかっていったら理解しづらい曲だと思う。あれはアメリカのヒップホップの文脈を押さえていないと出来ない表現だよね。日本の歌謡曲の文脈からは全く外れている。

微熱:日本語ラップにもないかもしれないですね。

磯部:ないでしょ。アレを聴いて、「この人は本当にアメリカのヒップホップばかり聴いてきた人なんだな」って思った。倫理的には理解できないけど、情緒的には理解できるっていうか。そして、あの曲はすげえ個人主義的な曲なんだよね。彼女がどうこういうよりも、「オレ自身が悲しい。でもオレはオレだし、頑張るよ。」っていうような。バイリン云々以前に、ここまで日本的な価値観から断絶してこういうリリックを書いていることにビックリした。

古川:でも、あの人に日本的情緒が欠けているかっていったらそういうわけでもないじゃん。”街風”とか”花と雨”というタイトル自体が日本的情緒を漂わせているよね。

微熱:あのお姉さんに宛てた曲も死には直接触れずに、情景だけでそれを匂わせていて、その手法自体がとても日本的な情緒に則ったものだと思いましたけどね。

磯部:例えば、ロックンロールが日本に持ち込まれたときに、「それまでの日本的な情緒」に加えて、「ロックンロールによって開放された情緒」というものが若者にもたらされたはずでさ。SEEDAを聴いていると、「ヒップホップによって開放された情緒」というものがあるんだなって思うのね。
社会主義のはずの中国がどんどん資本主義に近くなってきているけど、それを「開かれていくベクトル」として感じるのか、「落ちていくベクトル」として感じるのかは人それぞれだけど、オレはやっぱり否定できないな。アメリカによって開放される側面があるということを。

Saturday, July 05, 2008

6 months into the year

□ 仄暗く模索する上半期10



Lil Wayne
"Tha Carter III"

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Santogold
"Santogold"

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Gnarls Barkley
"The Odd Couple"

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Erykah Badu
"New Amerykah Part One (4th World War)"

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Flying Lotus
"Los Angeles"

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Benga
"Diary of an Afro Warrior"

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DJ Blaqstarr
"King of Roq"

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Cuizinier
"Pour Les Filles Vol.III"

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SEEDA
"HEAVEN"

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北関東スキルズ
"Illakanto Vol.1"

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Sunday, June 29, 2008

Lil Wayne - Tha Carter III






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やる気が無いのでもなく、だらしないわけでもない。プロメタジンとコデインに溺れたWeezyのラップはただただテキトーなだけ。どんな誰よりテキトーにラップに向き合っているくせに"I control Hip Hop"と自慢げに語ってみせ、実際小憎らしいことに99%のラッパーは彼に敵わない件。

あっさりと作り上げたミックステープやネット上に流出されるMP3の出来栄え、その数とクオリティの凄まじさにWeezyのアルバムへの期待は天井を知らず上るだけ上った。しかし、当の本人は「忙しいので歌詞なんて書いている暇がない」と言い張り、渡されたビートを初めて聴いてから30分で録音を終え、どこへともなく消えていく。「もっといい曲にできたはずだ。アイツはただフリースタイルしただけだ。Lil Wayneじゃなかったらラジオでオンエアなんかされなかっただろう」とは"A Milli"を作ったBangladeshの弁。

Kanye Westが2小節のループだけ作り、あとはDeezleがドラムだけ足した、なによりも手抜きだということだけはひしひしと良く伝わってくるビートに何かを閃き、そのからっからなビートの情熱を更に下回るほどの気力が加えられたフリースタイル曲"Let the Beat Build"こそが本作の目玉。「俺は火星人だ」とのたまい、「クリシェにだけはなりたくない」、「あれは一度やったからもうやらない」と偏執的なほど他人と同じでいたくないと願うWeezyが地球上の万物の期待を残念な形で裏切ってようやくたどり着いた高度な結論。

しかしこの曲を聴いていると、こないだのトップランナーでのKREVAへのインタビュー、そのなかでの「ヒップホップの魅力とは?」というベタな質問に対する回答「曲を聴いて、『こんなんでいいのか?』と思えるところが魅力」という言葉にすごく共感できる。

訳判らんリリックやパンチライン(MF DoomとかNippsとか)、ビートでいえば"Come Clean"や"Laffy Taffy"もそうだけど、音楽の革新性は常に「テキトーさ」の中に多分きっとある。なぜなら「テキトー」なものこそが「想像の余白」を生み、「想像の余白」こそが「作品の面白味」を生むから。そしてLil Wayneはビートやリリックだけでなく、ラップスタイルでもテキトーなものが面白いと教えてくれた。きっと、どんなものでもテキトーなものが一番スキルフルなんだろう。なんか天啓を受けた心持ちだ。私も今後ずっとテキトーに働いていこうと思った。

Thursday, May 29, 2008

微熱メモ vol.7

本ブログのBRON-K "奇妙頂来相模富士"のレビューに対するアンサー(と思われる)レビューがとても良い内容だった。

このアルバムを単に「懐古趣味的なもの」としてではなく、「自分の"現在"を見つめなおすもの」として捉え直し、一つの曲("何ひとつうしなわず")の受け止め方次第で作品そのものの印象がガラリと変わってしまうことを指摘している。この「"過去"を見つめている」のではなく、「"自分の将来"を見据えようとしている」という見方は私が書いた文章よりも全然ポジティブなものなので、私自身もどちらかといえばこちらの見方のほうを支持したい。

しかし、「"将来"を見据えている」のではなく、「"将来"を見据えようとしている」というところがこの作品、ひいてはSDPの面々のアティテュードのポイントだろう。NORIKIYOにしても、TKCにしても、このBRON-Kにしても、「現在の環境」に翻弄されるだけされて結局は「将来への道筋」を見つけることをできていない。彼らのアティテュードがいかにポジティブなものであっても、これらの作品を聴くことはその作品に共感する人たちにとって「人生の苦しさ」を再確認するマゾ行為なのには相違無い。

Saturday, May 24, 2008

Sunday, May 11, 2008

History of Ying Yang

Wednesday, May 07, 2008

BRON-K - 奇妙頂来相模富士






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『(桜坂洋の"All You Need Is Kill"と、麻枝准の"ONE"は)なにかを捨てないと決してなにも得ることができない、そのような喪失の感覚を主題として抱えている。』

『(舞城王太郎の"九十九十九"を参照して)二人目の九十九十九はゲームの中に止まることを選ぶ。  (略) 「一度愛して手に入れたものを自意識のために捨てるのは愚か者」だと考える。』 (東浩紀 "ゲーム的リアリズムの誕生"より抜粋)

「成長する」ということは、「選択する」ということ。「選択する」ということは「喪失する」ということ。こういう主題を抱えるエンタメってわりと多いけども、ある種のセンチメンタリズムがつきまとうこの主題がエンタメ界隈に多いのは、それだけサブカル/ヲタ野郎がこの手のテーマに感じ入り易く、要は「繊細」だからだろうと勝手に考えている。別に「成長」にまつわる青くさい話をこの場で語るつもりはさらさら無いのだけども、「何かを失ってでも、前に進まなきゃいけないのか?」というこの「選択」が、最近の日本語ラップのテーマとしても浸透してきていて、それがいまの日本語ラップに「繊細さ」をもたらしているのではないかと考え付いたので、BRON-Kの"奇妙頂来相模富士"のレビューとしてそのとっかかりを書いてみる。

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NORIKIYOの1STアルバム"EXIT"はその名のとおり、迷路のような人生のなかでNORIKIYOが「出口」を探しつづける過程を綴った作品だった。前に進むための分岐点すら見つけられずにいるなかでも「我が道」を選択しようとするNORIKIYOのポジティブな姿勢が心に残る作品で、彼は路頭に迷いながらも「次のドア」を見つけてアルバムが終わる。

『あきらめる前にまたペンを走らす 手段は選ばず いや選べねぇ (略)
 親方も嫌がる障害じゃリーガルで何できる?ってRAPを杖に立つ
 夢と反比例 減った紙切れ 蹴っ飛ばす未練 何処が分岐点』 ("RAIN" NORIKIYO)

『此処から抜け出すのはいつになる? ポリの赤灯に手が汗ばむ 安らぐ場所は何処にあるんだ? (略)
 アスファルトに吐く唾がシミになる 何処に向かう? それでも地球はまわる』 ("2 FACE" NORIKIYO)

『よぉ開けなよ次のドア 目前さ明日じゃねぇだよ 今日じゃあね
 時間だよもう行くよ どこ?って知らねぇんだが 向こうの方? (略)
 未だハンチクな半端小僧は しぶとくこの街を這って生きる
 大丈夫俺たちならきっといける』 ("NEXT" NORIKIYO)


そして「選択」には「喪失」が付き物であるが故に、NORIKIYOは「何かが欲しければ、何かを捨て」なければならないことを自覚していて、あらゆる場面でそのことをラップしていた。SDPクルーの他の作品を聴けばよくわかるのだけど、例えばTKCなんかはこの類の「選択」を目の前にして頭を悩ませてフリーズしていたわけで、この「選択」を目の前にしてなお「前に進もうとする姿勢」こそがNORIKIYOのラッパーとしての特徴と言える。


『ホテル街、古びたネオン、たんぼの焼け跡、橋の上はにかむ中坊の娼婦
 コンクリート東京サバンナ、旅行けば、道はスクランブル』 ("WORLD GO ROUND" BRON-K)

『Rollin' down 調整地区ストリート トタンに沈む赤錆の太陽
 月は雲間に見え隠れ 淡く足元を照らす 時は川の流れように
 いつまでも Bas and good 湛え 流れ 大海へそそぐ』 ("大海へそそぐ" BRON-K)


BRON-Kの"奇妙頂来相模富士"の中には、80年代的な空気に覆われた郊外の団地が奇妙な形にデフォルメされて、建ちならぶ。団地の斜に相模富士が光化学スモッグに覆われて聳え立ち、相模リバーがトタン屋根を縫いながら流れるこの情景は、きっとその時代に生きた人であれば誰でも目の裏に映るようなものに違いなく、ここで描かれる「相模シティ」はさながら20代後半~30代前半に向けての「20世紀博」(@オトナ帝国の逆襲)や「夕日町三丁目」(@三丁目の夕日)のようだ。

「失ってでも前に進もう」とするNORIKIYOや、「誰かを蹴落としてまで進みたくない」というTKCと比較して、BRON-Kの特徴は「喪失したもの」を言葉の力で再現してみせる姿勢にあると考えてみる。この懐古趣味的な世界を緻密に構築する姿勢を、「喪失の恐怖」または「成長への恐怖」の裏返しとしてみてみれば、「何かを失ってでも、前に進まなきゃいけないのか?」という問いへの子供じみた回答もすんなり胸に落ちてくる。「現在~過去への執着」と「選択(成長)へのためらい」がお互いに絡み合って、この曲("何ひとつうしなわず")をひねりだし、作品内のいたるところで奇妙で懐かしい「相模シティ」を産み落としているように見えてくるのだ。


『Baby Thank you so much 何ひとつうしなわず
 すべて手に入れたいと思うことはわがままかい?
 Homie Thank you so much 誰ひとり欠けず
 いい景色を見たいと思うことはきれい事かい?』 ("何ひとつうしなわず" BRON-K)

Wednesday, April 30, 2008

微熱メモ vol.6

・流行から3歩くらい遅れてMUXTAPEなるものを作ってみた。昔つくったMDもそうだけど、ばらばらな曲を一つの媒体にまとめるという行為は、一つの曲やアルバム単体などでは表せられない何かしらのメッセージを生じさせるもの、のような気がする。

http://smokingradio.muxtape.com/
☆アンダーグラウンドヒップホップ編「消されるな、この想い」

http://debumegane.muxtape.com/
★日本語ラップ編「忘れるな、我が痛み」

・Gnarls Barkleyの2ndアルバムは、50年前のアートをベーシックに作り上げたというBuck 65 "Situation"と雰囲気が極似だけども、あまりに白黒な質感すぎてブルージーというかとらえどころが無さすぎる。カラフルな色感のフレンチエレクトロや80'sビートなんかが流行った07年の反動と言うには極端すぎて私の鈍い感性ではまだ追いつけない。

・「消されるな、この想い」を作成しているときに、ChromeoのヴォーカルであるDave 1はCannibal OxやThemらに紛れてアンダーグラウンドヒップホップ・コンピアルバム"Coast II Coast"に曲を提供しているObscure Disorderのトラックメイカーだったということがわかった。Non Phixionの"Future Is Now"にもトラックを提供しているらしい。アンダーグラウンドヒップホップの「先鋭性」がいまの先端のダンスミュージックに通じているという一つの証拠みたいなものを垣間見た気がする。

・Rick Ross "Luxury Tax"(→youtubeで聴く)は、おそらく今一番日本語ラップに酷似している曲。Lil WayneとYoung JeezyがSEEDAっぽいのはいつものことだけれども、空気を読んでかトラックもBLみたいだからSEEDAファンは要チェック。

・D4LのShawty Lo "Live My Life"(→youtubeで聴く)は、hueのコンピに入っていてもおかしくないナードヒップホップ。ということはTeki LatexやDizzee Rascalを瞠目させたスナップミュージックの先にあったのがナードラップだったということになるけども、そうなると「全ての音楽のベーシックは同じだ」という陳腐な結論にたどりつくような気がして、とても震えた。

Saturday, March 29, 2008

Neon Neon - Stainless Style






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前衛的なことをやるのはもうダサい。「今はダサいことをやってる奴がカッコいいんだよ」というアクロバティックな価値観の転覆から現在のムードが紡がれて5年は経ち、いまではWileyが80'sのダサさだけを掬い取るばかりかダンスまでもが革命的にダサい"The Rolex Sweep"を流行らせようと企み、Crime MobのPrincessが"Pretty Rave Girl"の上でラップするなどロリコンコミュニティ内で各々が切磋琢磨し対象年齢を下げ合うかのようにダサさを改新し続けている。そんなチャーミングなコミュニティに「俺はショタもいけるけど?」と殴りこみに来たのがBoom BipとSuper Furry AnimalsのフロントマンによるNeon Neonである。"Stainless Style"は、現在のディストピアが遂にはAnticon直近をも射程圏内に捉えたメルクマールだ。

Boom Bipは2000年にDose Oneと"Circle"を作り、2002年にエレクトロニカに傾倒したソロアルバムを作っていることから判るようにいつだって流行りから半テンポ遅い。遅いかわりに、全体を俯瞰して的確に求められているものを見抜いてその美麗さと醜悪さをえぐり出す。このアルバムで彼がやっていることは、5年前にやっていたことと真逆なように見えるけど、実のところ「キラキラして大味でダサい」という点では全く同質の不穏な空気を醸しだす。この普通じゃない空気を偏愛する性質こそが「Boom Bip=アブノーマル・ショタ野郎」たる所以だ。

80年代のシンセサイズされたポップミュージックを今の視点から再構築したChromeoを手本としながらも、Chromeoの命綱となるヒップな黒人音楽の基盤を削ぎ落とすことで、さらなるダサさの臨界点を目指すところからNeon Neonははじまる。80年代の音楽の中でもただダサいだけの黒歴史のカケラを広い集め、Cut CopyやHot Chipみたいなディスコロック、Italians Do It BetterからCool Kidsのような勢力まで、根こそぎクールさを剥いで大仰なダサさだけを加味していく。そして、世の大勢がまだ心の準備ができていない90年代ブリットポップのダサさまでもをGruff Rhysのメロディーによって武装することで決定的に格の違いを見せ付ける。

思い返せば、00年前後のアンダーグラウンドヒップホップはダサさを削いで、スノビズムのカケラを繋ぎ合わせて出来ていたもので、当時はそれが「前衛的だ」と評価されていた時代だった。それこそHoodなんかがAnticonの力を頼って前衛性を獲得しにいったところから21世紀がはじまったはずなのに、気付けばヒップホップの人が前衛性を捨ててダサさを得るためにロックに擦り寄るようになったことには隔世の感を拭えない。

Monday, March 10, 2008

TKC - 百姓一揆






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多くのラッパーやトラックメイカーをフックアップしてシーンに多大な貢献をし、自身のブティック運営のみならず、NYの一街区を買い取ってレジャー施設をつくり、世界一強い女をプライベートでメロメロにしているJay-Z元社長は、「勝ち上がり」を絶対的な価値とするヒップホップの"象徴"といって過言ではない。もう私の頭のなかでは「Jay-Z=HIP HOP」の純然たる公式が刷り込まれているので、作品で彼のありがたい声を聴けただけでも涙が自然に流れてくる。「彼のラップが"上手い"から頂点にのぼりつめた」のか、「頂点にいるから彼のラップが"上手く"聴こえる」のか、これは目下最大の考察テーマだ。

07年の日本語ラップ作品は総じてレベルが高かったとは思うけども、「ナンパしたけど他の男に取られちゃったよ~」とか、「ウィード吸いたいけど手元に無いな~」とか、ボンクラな生活の中にたえず転がっているモヤモヤをストレートに作品に落とし込んだTKCの"百姓一揆"こそが一番のフェイバリットだった。

"百姓一揆"はとても奥が深い。ナンパネタやウィードネタのモヤモヤも根本はそうなんだけども、「人間なんて生きているだけで地球の害だ」という辛辣な極論をふりかざす環境問題のテーマや、「自分が生き残るためにはどうしても他人を蹴落とさなければいけないんだ」という熾烈な競争社会にちなんだテーマも含めて、TKCがこの作品で表現しようとしているのは「この世の矛盾」に他ならない。誰かがおいしい思いをしている陰には誰かが犠牲になっている、ということを色んな視点から飄々と描く。

それこそ「ヒップホップ」という枠組みのなかにいる以上、「勝ち上がりの欲望」を抑えこむのは難しいことだけど、TKCが"百姓一揆"で抱えている「矛盾」の根本はまさにソコにあって、「誰かを犠牲にしてまで本当に勝ち上がりたいのか?」という自問自答が作品の中で延々と繰り返され、答えの出ない問いかけの先で鬱にまで陥っていく。

「彼が生きると俺が死ぬると、俺が生きるには彼が死ぬるの二者択一。
 "目指せ!博愛精神"に矛盾が走る。"正しい"は虚しい。悲しい話ジャスタウェイ。」("Another Tension")

「テンパってるとか言われるかもな。『限界です』って言ってもムダだろ。
 待ってくれねぇな時間だけじゃねえ、友情、愛情、当然じゃねぇか。
 わかっているのよ、わかっちゃいるのと裏腹、心が病気になるの。
 できれば闇、心の病みが晴れない明日ならこの際いらねー」("U2")

結局、TKCは「勝ち負け」をベースにしたヒップホップ的な競争社会で私利私欲のために闘って勝ち上がっていくことよりかは、みんなが幸せに過ごせるような環境でのんびり好きなことだけをやっていたい人なんだろう。しかし、現実には「のんびり好きなことだけをやる」ためには先ず勝ち上がってそういう環境を作らなければならない。こんな「欲望の矛盾」をはらすかのように彼が描き上げる「ユートピア」の絵は人によっては甘ったるく見えるかもしれないけども、私には切実な想いが込められているように見えてならないのだ。

「必要以上の争いはなく、全ての者に平等。平成はやっと元年を迎えそう。
 満ち足りているなら欲しない、欲しないなら取り合うことはない。
 寧ろあげましょうか? 何が足りない?一杯あるから持って行きなさい。
 君も一杯に持って行き、足りない誰かにあげなさい。
 それを条件としているなら限りなど最早いらない。ここはユートピア。」("Utopia")

"競争"というどうしようもないプレッシャーにさい悩まされるTKCは、それでもその自問自答の果てに"協調"という一つの対抗手段を見出す。しかし、その"協調"の先にも"競争"は生まれてしまうし、"競争"があるからこそ生まれる"協調"もある。こんな「矛盾」をも"百姓一揆"は見事に描き出している。

Saturday, February 16, 2008

Various Artists - Once a Hue, Always a Hue






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4月くらいにはこのブログにアップできると思うけども、ついこのあいだ古川耕氏と磯部涼氏の3人で日本語ラップに関する鼎談を行った。彼らの話を聞いて、改めて思ったのは「ヒップホップは"矛盾"の上に成り立っている音楽で、自分はその"矛盾"に惹かれてこの音楽を聴いている」ということだった。その場では、アメリカからの輸入文化を日本で表現するというときに生じる「矛盾」について話し合っていたけど、もっと身近にフトその「矛盾の魅力」を感じるときがある。

「スポーツが自分のエゴをむき出しにするのが美しいなら、文章は自分のエゴを隠しとおすのが美しいとおもう。」

例えば、いつも巡回しているブログで見たこんな思いつきの中にでさえ、時には他人を蹴落とす「ゲーム」として成り立ち、時には身の周りのことを描写する「文学」として成り立つヒップホップの矛盾について考えることができる。「日本語でのラップ」や、「ITを駆使したヒップホップ」、「商業主義的なラップ」など、ある種の人が目を伏せたくなったり、ファックサインを送りたくなるものを「矛盾」としてそのまま成り立たたせてしまおうとする意志がそこら中に満ちていて、しかもそれを内包できてしまうヒップホップの懐の深さに絶えず興味を惹かれているのだ。

"微熱メモ VOL.5"に表したとおり、いまや「先鋭的」と称されるヒップホップは新しいリズムの解釈やいままでに無かった音色を曲に持ち込んだもので、それは常にメインストリームの中で発っせられている。コマーシャルなヒップホップに対抗して、「インディペンデント」の看板を掲げて、その安定感を売りにすればもてはやされる時代は終わったし、なにより「リズムの解釈」という点において今のアンダーグラウンドヒップホップには何のアイデアもない。

アンダーグラウンドヒップホップを聴くときは、いつだって「メインストリームへのカウンターの音楽」として作品に接してきた。だからこそ、メインストリームでは生まれ得ないEl-PやLab Waste、MuallemやNobodyが持つような「逸脱したクリエイティビティ」に注目してきたのだけども、果たして彼らの持つクリエイティビティはメインストリームへのカウンターとして機能するものだったのだろうかと疑問に思うようになってきた。重戦車のように圧倒的な存在感を持って突き進むメインストリームヒップホップに竹槍のようなクリエイティビティの切っ先をいくら突き刺したところで何のカウンターか。いや、そもそも今のアンダーグラウンドはメインストリームの何にカウンターしているのかもわからない。

「(hueは)ビートやリズムに対して無自覚/無知だった僕らの劣等感から出発している」

hueレーベルに深い関わりがある一本道ノボル氏の発言。もしかしたら、流行のヒップホップの持つ「面白さ」とは全く無縁のナードラップに惹かれてしまう理由は、ナードラップこそがいまのメインストリームのカウンターになっているからだと明確に言い切れるからかもしれないと気付いた。hueの発信するアーティスト達は、先鋭的で、スリリングで、面白くて、しかも完成度の高いメインストリームヒップホップの完全に対極に位置しているけども、それでもそれは紛れも無く「ヒップホップ」と呼ばれるもので、彼の言う「リズムに重点を置かないでヒップホップを再構築する」という一点において真にメインストリームのカウンターといえる。

結局、リズムやビートを基礎として成り立ち、だからこそリズムの解釈やビートの鳴りを重視するヒップホップに対して「音楽的なリリシズム」を吹き込もうとする行為そのものに「矛盾の魅力」を感じてやまないのだ。彼らが鳴らす清廉なメロディやその特殊性だけに着目するのではなく、その行為の「野蛮さ」にこそ先ず気付くべきだったと誰にともなく反省してしまった。

Sunday, February 03, 2008

らっぷびと






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近所の洋食屋にひさびさに昼ごはんを食べに行ったら、メニューにチャーハンが増えていて思わず白目を剥いた。店主の味覚ではこのチャーハンは洋食的な位置づけなのだろうか? それならなぜギョーザやラーメンが無い? などと、いろいろ考えていたら食後に出されたサービスのコーヒーが冷めていた。チャーハンにもこのランチサービス・コーヒーは付くのだろうか? 今日は眠れそうにない。

WEBマガジン、THE SOURCE JAPAN ONLINEが閉鎖した。まぁそのこと自体には別に何の感慨も無い。多くの人に有用なものが残り、無用なものがなくなる、それだけのこと。潰れゆくレコード屋の件も同様で、レコード屋が潰れていくことに対して何か物言いをするまえに、デスクトップ上にあるMP3ファイルを全て削除して、i-PODを海に沈めて、CDを空に投げた後、全てをレコードに換えれば多くの店が救われる。

話がそれたけども、SOURCE JAPANやAMEBREAKなど、どのWEBマガジンにも大抵存在する「リンク」というもの、これが個人的には本日見た洋食屋のメニューくらいにどうしてもシックリこない。おそらくはユーザへの親切心から何も考えずにアーティストのブログへリンクを貼っているだけなのだろうけども、このリンクに加われる条件って何なのだろう。もしかして「売れていないラッパーは入れません」とか「シーンに属さないラッパーは入れません」とかの条件があるのだろうか。ヒップホップシーンを盛り上げよう! という意図でのWEBマガジンなのか何なのかは知らないけども、盛り上げる前に自分で村の囲いを作ってどうする。この世にはチャーハンが洋食として扱われる店もあるのだ。

この前の対談で、Boss the MCが「ドラマ」を作るのが上手いという話があったけども、今まで話題になった作品は大体その後ろに「ドラマ」があることに気付いた。"証言"然り、Buddha帰国然り、Big Joeの投獄然り、Ill Slangの全国一周然り。中にはショボい物語もあるけども、ある程度のドラマがリスナーに共有されることでヒットが生まれるという見事なこの方程式を見つけた自分を誉めてあげたい。(そういった意味では、Bossが2ndアルバムを作る前に世界へ旅をしに行ったのは必然の行為だったのかもしれない…)そしてこの私の勘が正しければ、わざわざネタ作りの為にニューヨークのゲットーに苦行のようなラッパー修行をしに行ったYing Yangこそがそのドラマの力で「売れる番」だと予想できそうな気もしないではない。

ニコニコ動画にてアニソン上でラップするらっぷびとは、別名義でも曲を作っている。「尊敬する人」をRhymesterとして、「夢」を「Rhymesterと同じステージに立つこと」とする割には、laica breezeを彷彿とさせるラップスタイルと、そのJ-RAP的な曲の嗜好が妙味なのだけども、更にはインターネットを使って人脈を広げ、PC上でマイクリレーをしていくというその次世代思考が、インターネットで全米~カナダを通じてアンダーグランドヒップホップシーンを築き上げたAnticonを髣髴とさせた。そういった意味で、「自分たちはヒップホップ素人だ」という嫉みや僻みを入れながらインターネットの可能性だけをひたすら賛美する別名義曲の客演ラッパーたちのくだりが素晴らしい。

「これが俺たちのビギナーズラップ ユノウ? 聞いてこなかったビギーや2パック
有能無能集まる烏合の衆 玉石混合 そっからスタート」

「有機栽培ラップ土臭ェ 外じゃヘタレ ウェブ内 内弁慶
うち出ねェがまたマイク掴む リプリゼント送るアット自宅自室」

「"現場"以外の"本場"なんてのは存在次第
こいつは"ネットラップ進化論"と題したい
達したい次の開かれたステージ WWW.netイッツイットイージー!」

アニメ~ゲームの音の上で、ラップをのっけていくその姿はマッシュアップ的なイリーガルさも含めてニコニコ動画にこそ相応しいが、そこに流れるコメの応援やらツッコミを眺めていると、彼のスゴさはアニメやゲームが持つ「ドラマ」を韻などのテクニカルな面を押さえつつ、リリックに落とし込めているところにあるとも言える。アニメやゲームの物語が展開されたラップへ大勢のリスナーが共感している様子に、インターネットの可能性の他に、「物語/ドラマを作る」ということに対するもう一つの可能性が見えてくるのだ。

インターネットの可能性とアニソンラップの可能性、そして日本語ラップとJ-RAPを横断するスタイルと嗜好、その全てにおいて今までの価値観から大きく外れたらっぷびとは、中華料理屋になってしまうかもしれないウチの近所の洋食屋以上には「これから先」への期待がもてる。

Friday, January 04, 2008

2007 juked and observed

□ 2007年 定点観測15
ベスト的側面と観測的側面をあわせもった万能リスト



El-P
"I'll Sleep When You're Dead"

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「あらゆるジャンルの音楽を自分流に咀嚼して吐き出す」という面で、M.I.A.やTTCと同じ方面にいるはずの人だけども、「我」の強さにおいては他の追随を一切許さずはばたいているので、結果的に誰もいない座標に独りポツンと位置していた。とことん煮詰められた作品の核に「ミドルスクールヒップホップ」が根強く鼓動を打っていることを確認できるだけでもヒップホップファンに大きな安心感を与えてくれそうだけども、反面、模倣すら困難なこの作風には誰もついていくことはできないだろうという不安な気持ちにもさせてくれる。おそらく、この先にも後にもEl-P以外誰もいない。究極のオリジナリティ一点突破作品。




Burial
"Untrue"

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グリッチ・ノイズを嫌い、エレクトロニカは全てゴミだと言い切る。Basic ChannelもPoleもUK的なヴァイブスがないからというだけで嫌う排他的で視野狭窄なUK至上主義者の音楽がなぜこうも支持される。雨の音、ライターの音から、ヴィン・ディーゼルの映画、メタルギアソリッドで銃弾がコンクリートに当たる音などなどをシーケンサーも使わずに波形で貼り付けていく。インターネットも特にはせず、自分の生活圏に入ってこない音は一切自分の音楽に取り入れない。純粋にイギリス的な音楽の意思を亡霊のように紡ぐ行為が雑食的な音楽が当たり前な世の中で気高く映る。




soso
"Tinfoil on the Windows"

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去年聴いたカナディアンナードラップはそのルーツを辿ることができなくなるくらい異形に進化していてどれも大変面白かった。しかし、確かに面白いことは面白いのだけども、もはや異形すぎていまやその聴き手の顔が一切わからないというなんともいえない不気味なオーラをも身に纏っていた。そんな中、「静かな狂気」という言葉が似合う前作"Tenth Street and Clarence"の「到達点」を軽々しく突き破り、その世界を塗り固め続けているsosoの孤高で高潔な姿勢を見て、畏れと恐れを抱かないはずがない。彼の音楽の先に広がるのは異界、聴き手の正体は不明。これはまさしく「ホラー」だ。




UGK
"Underground Kingz"

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[UGK濃密度UGK]




M.I.A.
"Kala"

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「使い捨てで、海賊版的で、移民的。」というM.I.A.の言葉以上にこの作品をうまく言い表せるスキルがないのが残念でしょうがありません。00年代のヒロインはこれから先も辺境に立ち上る音楽を貪り喰い、自己破壊と自己再生を繰り返すことでしょう。そのサマはまるでインフルエンザのウイルスのようでもありますが、辺境音楽をポップに昇華してリスナーに感染させるという意味においては言い得て妙かもしれません。




Prefuse 73
"Preparations"

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TTCにしても、Jay-Zにしても、El-Pにしても、このPrefuse 73にしても、サイトが出来た当初からずっと何かを書き続けている気がする。要は、時間の流れと共に音楽の主流が変わり、ヒップホップも相応に変化しつづけているけども、これらのアーティストの作品の「軸」は全くブレていないのだろう。うわべの音楽(器)やそのムードやリリック(中味)が時流に合わせていかように変化しようとも、自分自身の「音楽観」と何の為に音楽を作っているかという「目的意識」がブレていなければ、聴き手に対してファーストインパクトをずっと維持して与えつづけられるということなのかもしれない。振り返ってみれば"Vocal Studies + Uprock Narratives"からだいぶ遠いところにたどり着いた感もあるけども、その「軸」はブレずに更に先の道へ続いていることが感じ取れるはず。たとえその道が「ヒップホップ」から離れているように見えたとしても。




Jay-Z
"American Gangster"

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ハイパーセレブビューティフルプレイヤースーパースター。ヒップホップにまつわるある種のプロップスは「ストリートたりえる」ことで手に入れられることに気付いたJay-ZとNasはその後競い合うように「ストリートっぽさ」を加味したアルバムをリリースするようになりました。しかしともすれば、「ただタイトなだけ」の退屈な作品になってしまうところへ忘れずに煌びやかな装飾を施すこのサービス精神とバランス感覚はやはり一流のわざと言えましょう。このダウンロード時代にあって、身の回りに転がっている曲を詰め合わせて出来合いのアルバムを作るのではなく、ごく短期間で一貫した作品コンセプトを明確に打ち立てて、良曲をピックアップし、曲数を含めてコントロール出来ているのは、彼のアルバムを「作品」として聴くリスナーの姿がきちんと見えている証拠であり、すなわちJay-Zこそが正真正銘のヒップホップクリエイターだということの証明でもあるのです。




Kanye West
"Graduation"

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往々にして人は何かを得るためには別の何かを捨てなければならないケースがままある。両方とも救ってみせる! という幼稚な態度は少年漫画の主人公にのみ許された特権だけれど、エゴが肥大化した今のカニエ先生のスーパースターぶりは少年漫画の主人公などとっくに凌駕しているので平気で全てを救ってしまう。どさくさに紛れてNas, KRS-One, Rakimとともに"Classic"に参加し、Commonのアルバムの大部分を荷うヒップホップの良心としてのポジション、50とバトルして一週間に90万枚を売り上げる商業ヒップホップのど真ん中を背負うポジション、myspaceや海外のブログで大人気のKid Sisterのシングルにめざとく参加してしまう(というかFool's Goldのオーナーが自分のバックDJだ)新しいもの好きなミーハーさ。どう考えても矛盾した八方美人的な立ち振る舞いを捨てる気はさらさらないどころか、どのポジションの人にもアピールできるエクレクティックな音を提示してしまうので、アルバム一枚延々と「俺はすごい」としか言っていなくとも、たしかにすごいよと誰しもが納得してしまうのだろう。




TTC
"3615 TTC"

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よく考えたらメンバー6人中4人もトラックを作れるという時点で何かがおかしい。ATKやKlub Des Loosersからメンバーが電撃移籍! とかメタルバンドじゃあるまいし。




Durrty Goodz
"Axiom"

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そもそもグライムの美しさとは何の音楽的バックグラウンドもないティーネイジャーが人生の中でわずか数ヶ月だけ熱心に音楽を作ってはやめていく儚さの中のエネルギーの発露にあるわけで、クレジットもあやふやな音楽がMP3として霧散していくアートフォームに「音楽的完成度」は無縁のものだった。だからこそ、今日までまともにCDとして作品化されたものに名作はほとんどなく、あったとしてもWileyやSkeptaのように失くしたグライムの歪さをUSヒップホップで補ったものか、JMEのようにイギリス的な作風を突き詰めたものしかなかったわけだけれど、古参のDurrty Goodzはこの作品でその狂乱のイメージを失わずパッケージング化することに初めて成功したと言っていい。Afterlifeの喧騒的なライミング、Rubberoomの突き刺すようなフューチャリスティックさ、Ward 21の強迫的でマッドなリズム、20世紀末~21世紀初頭の精神錯乱した宿痾の妄想から生まれ落ちたアンダーグラウンドのクリエイティビティーは何処かへ消えてしまったかのように見えたが、まったく関係のない文脈の此処で確認することができる。




Federation
"It's Whateva"

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一昨年の"18 Dummy"はジャンルに振るい落とすなら確実にSpank Rockと同じ枠にぶち込まれること必至の西海岸一しょうもない音楽を作っているFederation。これでも西海岸のギャングスタラップは大して聴いてなくて、Heltah Skeltahなどの東海岸のリアルヒップホップに入れ込んで育ったと言う。音だけでなくメンタリティもDiplo周辺の人たちと同じでブーンバップでコンシャスなものに限界を感じてしょうもないことをやっているのか? と一瞬疑いたくもなるが、「俺は半猿半哺乳類!」とか叫んでるので素で頭が悪いだけに違いない。




South Rakkas Crew
"Mix Up"

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ニューレイヴという言葉もなんだか懐かしい気もするがそんな言葉ができる昔からそんな音を作っていた人たちにはドフォーレ商会を無料で買収できるくらいの時代の風が来ている。




らっぷびと
"らっぷびととみくすびとの憂鬱"

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SOURCE JAPAN ONLINEにもいろいろ書いたけども、日本語ラップにおいて07年は「革新の年」という言葉がピッタリ合う。だから「新しさ」という観点で見ると、あらゆる作品がフレッシュに映るので、一概にどれが良かったかと選ぶのはなかなかに難しい。そんな中でも「突出している」と感じたものを敢えて選出すると「リアル」という言葉を一から考え直したくなるThug FamilyはTOPの"Street Tale"と、「汚らしい」という言葉こそ相応しい"JP State of Mind"に登場するFRGのラップスタイル、そしてこのらっぷびとだろう。
「アニソンの替えラップ」と言って一蹴してしまえばそれだけだけど、ニコニコ動画を介して延べ100万回以上再生されたり、「ヒップホップを聴いたことないけどラップをしてみた」という人が彼の後ろにぞろぞろ出てきたり、その影響力は本物。黎明期のヒップホップならびにマッシュアップのイリーガルな痛快感を、現代のヒップホップでは蔑まれ絶滅したHeartsdales~laica breeze的なスタイルで体現している倒錯感だけでも瞠目すべきだけども、加えてKick the Can Crewや韻踏合組合などを愛聴し日本語ラップ正当のライミングテクニックを理解しているという事実がこの作品に二重にも三重にもねじくれたラディカルさを与えている。それらを踏まえると、彼が集約して拡散させたモノの大きさというか、「日本語ラップの可能性の広がり」を感じずにはいられない。




MP2
"XXX-File"

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NOT USE P2Pの文句にどれほどの意味があるのかわからない限りなくイリーガルに近いリーガルミックス。違法なことをやっている奴が勝手に合法的に配ってるんだから俺は白だ! という拡大解釈した法律の隅を突くようなダーティーさに富んでいる。




Justice
"†"

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特にラップ向きの曲でもないのに、なぜか大勢がこぞって"D.A.N.C.E."でラップしたがっていた現象やKanyeやSwizzがDaft Punkをサンプリングした現象を見ると、フレンチエレクトロがヒップホップ界を席巻しているような錯覚を覚えるが、「Para Oneのことが好きだ」というラッパーの話は一切聞かないので、JusticeとDaft Punkの過去の曲を掘り起こすサンプリングアティテュードがヒップホップサイエンスからも理解しやすいというだけのことなのだろう。そう考えると、マイケル・ジャクソンの"P.Y.T."に捧げられた"D.A.N.C.E."と"P.Y.T."をサンプリングしたKanyeの"Good Life"のPVが両方ともJonas & FrançoisとSo-Meの仕事なのは必然というか、アーティスト側から音楽像をわかりやすく噛み砕いてくれているとも言えるのではないか。