Saturday, February 16, 2008

Various Artists - Once a Hue, Always a Hue






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4月くらいにはこのブログにアップできると思うけども、ついこのあいだ古川耕氏と磯部涼氏の3人で日本語ラップに関する鼎談を行った。彼らの話を聞いて、改めて思ったのは「ヒップホップは"矛盾"の上に成り立っている音楽で、自分はその"矛盾"に惹かれてこの音楽を聴いている」ということだった。その場では、アメリカからの輸入文化を日本で表現するというときに生じる「矛盾」について話し合っていたけど、もっと身近にフトその「矛盾の魅力」を感じるときがある。

「スポーツが自分のエゴをむき出しにするのが美しいなら、文章は自分のエゴを隠しとおすのが美しいとおもう。」

例えば、いつも巡回しているブログで見たこんな思いつきの中にでさえ、時には他人を蹴落とす「ゲーム」として成り立ち、時には身の周りのことを描写する「文学」として成り立つヒップホップの矛盾について考えることができる。「日本語でのラップ」や、「ITを駆使したヒップホップ」、「商業主義的なラップ」など、ある種の人が目を伏せたくなったり、ファックサインを送りたくなるものを「矛盾」としてそのまま成り立たたせてしまおうとする意志がそこら中に満ちていて、しかもそれを内包できてしまうヒップホップの懐の深さに絶えず興味を惹かれているのだ。

"微熱メモ VOL.5"に表したとおり、いまや「先鋭的」と称されるヒップホップは新しいリズムの解釈やいままでに無かった音色を曲に持ち込んだもので、それは常にメインストリームの中で発っせられている。コマーシャルなヒップホップに対抗して、「インディペンデント」の看板を掲げて、その安定感を売りにすればもてはやされる時代は終わったし、なにより「リズムの解釈」という点において今のアンダーグラウンドヒップホップには何のアイデアもない。

アンダーグラウンドヒップホップを聴くときは、いつだって「メインストリームへのカウンターの音楽」として作品に接してきた。だからこそ、メインストリームでは生まれ得ないEl-PやLab Waste、MuallemやNobodyが持つような「逸脱したクリエイティビティ」に注目してきたのだけども、果たして彼らの持つクリエイティビティはメインストリームへのカウンターとして機能するものだったのだろうかと疑問に思うようになってきた。重戦車のように圧倒的な存在感を持って突き進むメインストリームヒップホップに竹槍のようなクリエイティビティの切っ先をいくら突き刺したところで何のカウンターか。いや、そもそも今のアンダーグラウンドはメインストリームの何にカウンターしているのかもわからない。

「(hueは)ビートやリズムに対して無自覚/無知だった僕らの劣等感から出発している」

hueレーベルに深い関わりがある一本道ノボル氏の発言。もしかしたら、流行のヒップホップの持つ「面白さ」とは全く無縁のナードラップに惹かれてしまう理由は、ナードラップこそがいまのメインストリームのカウンターになっているからだと明確に言い切れるからかもしれないと気付いた。hueの発信するアーティスト達は、先鋭的で、スリリングで、面白くて、しかも完成度の高いメインストリームヒップホップの完全に対極に位置しているけども、それでもそれは紛れも無く「ヒップホップ」と呼ばれるもので、彼の言う「リズムに重点を置かないでヒップホップを再構築する」という一点において真にメインストリームのカウンターといえる。

結局、リズムやビートを基礎として成り立ち、だからこそリズムの解釈やビートの鳴りを重視するヒップホップに対して「音楽的なリリシズム」を吹き込もうとする行為そのものに「矛盾の魅力」を感じてやまないのだ。彼らが鳴らす清廉なメロディやその特殊性だけに着目するのではなく、その行為の「野蛮さ」にこそ先ず気付くべきだったと誰にともなく反省してしまった。

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