Tuesday, January 01, 2008

MINT - AFTER SCHOOL MAKIN' LOVE



 5 年ほど前のアンダーグラウンド日本語ラップの特徴はなんといってもBLAST誌の一コーナー"HOME BREWER'S"が発信元となっていたことです。韻踏合組合やMSCを筆頭に固定観念に捉われないバラエティに富んだ新しい才能を発掘していくことによって多くのリスナーを生み、いわゆるアンダーグラウンド日本語ラップの土台を築きました。要するにシーンというものが音楽ライター視点で作られていた時期で、韻などへのこだわりだったり、緩やかに下っていく時代性の反映だったり、はたまたヒネくれた姿勢のような日本語ラップが内在するあらゆる歪さがバラエティ豊か且つセンシティブにリスナーへ提示されていた時期なのです。(それは"HOME BREWER'S"のコンピレーションに象徴的です。)

 しかしそれから数年経ち、"HOME BREWER'S"は影も形も無くなり、次は"ストリート発のMIX CD"がアンダーグラウンドの船頭を担うことになります。Seeda & DJ Issoの『CONCRETE GREEN』が、そこに内包する様々な楽曲のクオリティの高さと日本語ラップでは珍しい媒体の新鮮味でもって多くのリスナーの支持を受けたのです。そこからSeedaやNorikiyoのようなスタイルが注目を受けることになる訳ですが、今度は彼らのスタイルによってアンダーグラウンドのカラーが統一されていくことになります。Seedaたちが提示したストリートっぽさがラップスタイルやトラックの形式を含めて記号化され、誰でもひとつの曲調を想起できるくらい集約されはじめている。この集約は雑誌発信から現場発信へバトンが渡った故の現象でしょう。

 また、Norikiyo『EXIT』のレビューでも書いたように日本語ラップの認知度があがっていくことによってラップスタイルも変化していっていますが、それはリスナーの聴き方の変化をも促すものになります。いまトレンドのラップは単にフロウや音だけを聴かせるものではなく、リリックの隅から隅まで注意して聴き取らせるものになっていますが、それはこれまでの日本語ラップの聴き方とはまた異なった新しい感性を要する、つまりただラップスキルの良し悪しをわかることより、彼らが伝えようとしている物事を受け止めることのできる感性が必要なのです。

 これらのことより、5年前と現在のアンダーグラウンドは別物と言えます。だからこそ5年前の曲は理解できても現在の曲は理解できないということや、その逆のギャップが発生しうる。そしてこの感性のズレを考えると、この企画が求めるような'07年視点で一昔前にアンダーグラウンドの中心にいたラッパーたちの作品を普遍的に並列に評価するということはある種とても難しいことだと思います。いままでの日本語ラップには無い、わかりやすい新しさがあればいいのですが。

 さて、『AFTER SCHOOL MAKIN' LOVE』です。この作品、紛れも無く"南部ヒップホップのモノマネ"ですが、そうやってバッサリ切り落とすのはあまりにもセンスが無い。なぜならトラック・ラップ・リリックどれをとっても徹底して"ダーティさ・フリーキーさ・ナスティさ"が追求されている超高完成度の"モノマネ作品"だからです。例えば、10人の女子が聴いたら8人は「キモッ」って言って確実にヒくようなリリック。「アイツなんかに絶対負けねえ!!なんて熱い話は抜きにして」や「まぁどうせJay-Zには勝てっこない」など無用な向上心をゴミ箱に放り投げたようなライン。金をかけれらない環境で、飽くなきこだわりのみを胸に構築されたであろう質の高いバウンスビート。そのビートを効果的に聴かせる間を持ったラップスタイル。"ごめんねG.O.D"でひたすら「G.O.D」で韻を踏み続けるところなど、要所要所でとてもスキルフルだと思うのだけどもその凄さが全然伝わってこない砕けた雰囲気。誰が喜ぶのか良くわからないオマケのスクリューMIXなどなど。徹底されたクオリティコントロールと音楽的着眼点・センスの良さ、そして何より消費音楽への迎合という思い切りの良さがいまの日本語ラップにあるトレンドよりも頼もしくすら見えます。本場のHip-Hopの歴史をなぞれば、リリシズムの台頭の後は"バカ&クール"がくるはずですが、この作品の面白さはそういった先端の部分に足を突っ込んでしまっているところにあるのではないでしょうか。

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