Friday, January 04, 2008

Greetings

08年の幕開けと共に、ときチェケ♪のバナーが産声をあげた。これはいい読者プレゼント。
恥ずかしがらずに自分のブログに貼ってみればいいじゃない。さぁホラ。ホラ!!

Tuesday, January 01, 2008

NORIKIYO - EXIT



 同じ時期のインタビューで「もう日本語でラップすることなんて誰でも出来る」という内容の発言をメインストリームではZeebraが、アンダーグラウンドではNorikiyoがしていました。そしてまるでその発言を証明するかのように、テレビでは芸人がたった数週間の練習でタイトでハーコーなライミングを披露してみせ、インターネット上では数日前までヒップホップなんか聴いたことなかったような素人が自宅でマイクをパソコンに繋げてニコニコ動画に自作のラップを配信しています。こういった発言や現象を実際に見られるようになったという意味で'07年ほど"日本語ラップは変化した"と思った年はありません。

 KRS-ONEが「ヒップホップの黎明期にリスナーは特徴的な声を持つラッパーを好んで聴いていた。しかし、しばらく経つと声だけではなくラップの上手さが注目されはじめた。さらに時代が進んで皆のラップが上手くなってくるとリリックの内容が重視されるようになった。」という風にアメリカのヒップホップの変遷を語っていたようですが、まさにその歴史をなぞるかのように日本の新進気鋭のラッパー達は単純にラップスキルを競い合ったりだとか、ただカッコいい言葉を操ろうとするのではなく、自分達が生活して実際に見ているストリートの風景をリリックに落とし込み、リスナーとその風景を共有しようとするのです。

 彼らが無邪気にラップの良し悪しで優劣を決めようとするのではなく、聴き手をストリートに引き込むようなラップのスタイルに変化しているのは、前述のラップの一般化に対するカウンター的なもの、もうどこの誰でも出来てしまう日本語のラップを敢えて、ラッパーとしてやっていることへの問い、すなわち" ラッパーとは何者か?"という根本的な問いかけへのスタイリッシュな一つの回答と言えます。ストリートを知らなければ描けないモノが確かにあるのです。

 このNorikiyoの『EXIT』はラップにもトラックにもさしたる特徴や起伏があるわけでもない、そこだけで見るととてもフラットな内容の作品です。それ故、日本語ラップをあまり聴いていない人へ「この中にはストリートからのメッセージが詰まっている」と声高く訴えてみたところで一笑に付されてしまうのも仕方のないことなのかもしれません。しかし、どうにもこうにもうだつのあがらないクソな生活の上にこそストリートが広がっていることを知り、そんな場所で生きていくためにハスリングしているB-BOYたちがその情景を誰よりも巧く詞として紡ぐことが出来ると知ったとき、このアルバムに詰まっているメッセージのおもしろさに気付くはずです。

「ネオン街眩しい夜の蝶 / こっちゃ電灯集っちゃバタつく蛾のよう / 日銭、飯の種足んねぇや万券 / 腹空かす野良犬が街を彷徨う / STRAID UP! プロミス調子はどう? / 金ならまだだよ許しを請う」

MINT - AFTER SCHOOL MAKIN' LOVE



 5 年ほど前のアンダーグラウンド日本語ラップの特徴はなんといってもBLAST誌の一コーナー"HOME BREWER'S"が発信元となっていたことです。韻踏合組合やMSCを筆頭に固定観念に捉われないバラエティに富んだ新しい才能を発掘していくことによって多くのリスナーを生み、いわゆるアンダーグラウンド日本語ラップの土台を築きました。要するにシーンというものが音楽ライター視点で作られていた時期で、韻などへのこだわりだったり、緩やかに下っていく時代性の反映だったり、はたまたヒネくれた姿勢のような日本語ラップが内在するあらゆる歪さがバラエティ豊か且つセンシティブにリスナーへ提示されていた時期なのです。(それは"HOME BREWER'S"のコンピレーションに象徴的です。)

 しかしそれから数年経ち、"HOME BREWER'S"は影も形も無くなり、次は"ストリート発のMIX CD"がアンダーグラウンドの船頭を担うことになります。Seeda & DJ Issoの『CONCRETE GREEN』が、そこに内包する様々な楽曲のクオリティの高さと日本語ラップでは珍しい媒体の新鮮味でもって多くのリスナーの支持を受けたのです。そこからSeedaやNorikiyoのようなスタイルが注目を受けることになる訳ですが、今度は彼らのスタイルによってアンダーグラウンドのカラーが統一されていくことになります。Seedaたちが提示したストリートっぽさがラップスタイルやトラックの形式を含めて記号化され、誰でもひとつの曲調を想起できるくらい集約されはじめている。この集約は雑誌発信から現場発信へバトンが渡った故の現象でしょう。

 また、Norikiyo『EXIT』のレビューでも書いたように日本語ラップの認知度があがっていくことによってラップスタイルも変化していっていますが、それはリスナーの聴き方の変化をも促すものになります。いまトレンドのラップは単にフロウや音だけを聴かせるものではなく、リリックの隅から隅まで注意して聴き取らせるものになっていますが、それはこれまでの日本語ラップの聴き方とはまた異なった新しい感性を要する、つまりただラップスキルの良し悪しをわかることより、彼らが伝えようとしている物事を受け止めることのできる感性が必要なのです。

 これらのことより、5年前と現在のアンダーグラウンドは別物と言えます。だからこそ5年前の曲は理解できても現在の曲は理解できないということや、その逆のギャップが発生しうる。そしてこの感性のズレを考えると、この企画が求めるような'07年視点で一昔前にアンダーグラウンドの中心にいたラッパーたちの作品を普遍的に並列に評価するということはある種とても難しいことだと思います。いままでの日本語ラップには無い、わかりやすい新しさがあればいいのですが。

 さて、『AFTER SCHOOL MAKIN' LOVE』です。この作品、紛れも無く"南部ヒップホップのモノマネ"ですが、そうやってバッサリ切り落とすのはあまりにもセンスが無い。なぜならトラック・ラップ・リリックどれをとっても徹底して"ダーティさ・フリーキーさ・ナスティさ"が追求されている超高完成度の"モノマネ作品"だからです。例えば、10人の女子が聴いたら8人は「キモッ」って言って確実にヒくようなリリック。「アイツなんかに絶対負けねえ!!なんて熱い話は抜きにして」や「まぁどうせJay-Zには勝てっこない」など無用な向上心をゴミ箱に放り投げたようなライン。金をかけれらない環境で、飽くなきこだわりのみを胸に構築されたであろう質の高いバウンスビート。そのビートを効果的に聴かせる間を持ったラップスタイル。"ごめんねG.O.D"でひたすら「G.O.D」で韻を踏み続けるところなど、要所要所でとてもスキルフルだと思うのだけどもその凄さが全然伝わってこない砕けた雰囲気。誰が喜ぶのか良くわからないオマケのスクリューMIXなどなど。徹底されたクオリティコントロールと音楽的着眼点・センスの良さ、そして何より消費音楽への迎合という思い切りの良さがいまの日本語ラップにあるトレンドよりも頼もしくすら見えます。本場のHip-Hopの歴史をなぞれば、リリシズムの台頭の後は"バカ&クール"がくるはずですが、この作品の面白さはそういった先端の部分に足を突っ込んでしまっているところにあるのではないでしょうか。

KREVA - よろしくお願いします



 『新人クレバ』、『愛・自分博』ときて、『よろしくお願いします』と3作品揃って揺るがずに"レペゼン自分"の精神をタイトルに記すKrevaにとてつもない"自信の大きさ"を感じて、恐れおののいた。しかし、この尊大なる"レペゼン自分"の精神を持ちながらにしてなぜか全く嫌味がない、そしていまや20 代OLに絶大な支持を受けているKrevaほど"オトナのオトコ"という言葉が似つかわしいラッパーもいない。

 本作でのKrevaは「他人は他人、オレはオレ」という当たり前だけど忘れがちな考えを軸として持ち、オレの考えを微塵も押し付けようとしない。代わりに、意気消沈している娘を見れば「嫌なものは全部吐き出してしまえばいい」と励まし、大切なパートナーには「You are my sunshine. 代わりはいない」とまで言ってのける。この作品全体を覆うムードは、他人の弱さを認めて自分が強くなってそれを包容しようとするようなもの。もう自己犠牲の精神にまで達している。

 振り返ってみれば、『新人クレバ』の頃はピンでメジャーフィールドにカチコミに行くということへの気負いをも感じるくらい、日本語ラップ的な作法にきちんと沿ったセルフボーストをシニカルな視点のラップで聴かせていた。それはまるでキックから続く"カンケリ小僧感"を一人でしょいこんだような内容だったのだけども、『愛・自分博』になるとガラリと変わる。自分中心視点の小僧的なラップはほとんど見られなくなり、成長への努力を怠る人に向けて「一歩ずつ進むことの大切さ」を説くようになるのだ。いまや彼の楽曲には、他人に賞賛をせがむようなセルフボーストも無ければ、ボンクラめいた女や金の妄想も無い。常に前向きの姿勢で「人は必ずどこかに弱い部分を持っている」ということを真摯に受け止めて、地に足の着いたメッセージを中心に投げかける。そこらを見渡せばごまんといた"カンケリ小僧"は作品を重ねて、いつのまにか"オトナのオトコ"に成長していた。
 すでに彼には、堅実なラップスキルと卓越したトラックメイキング能力が備わっている。しかしそれだけでなく、不特定多数の人に聴かれる音楽を作る中で「自分はどういう人間になるべきか」ということを考え、そこに向かって人間性の面まで切磋琢磨していたのだ。まったく非の打ちどころがない。『よろしくお願いします』を聴いていると嫉妬と劣等感で気が狂いそうになる。

 しかしこの嫉妬の原因は、いまの彼の視点に"同性のリスナーの存在"が決定的に欠けているからではないのか、とも思うのである。完璧と言っても過言でない"オトナのオトコ"のメッセージを聴いて、嫉妬でのた打ち回る男は星の数ほどいそうだけど、ケツ振って喜ぶ男が一体どれだけいるんだ? では、日本語ラップリスナーの中では? 嫉みや妬みや怒り、得たいの知れない自信や焦燥、ヒップホップが持つ中坊的な歪さを"オトコらしさ"のフレグランスで完全消臭したKrevaには『新人クレバ』のときにあった類の"おもしろさ"までもが消臭されている。いまの彼の視界には「日本語ラップリスナー」の姿なんか入っていない。(まぁ彼の目指している方向を考えれば、そんな必要ないのだけども。)
 しかしこうやって見てみると、これほどクリエイティブなKrevaを「なんだかPOPだから」という理由だけで認めないヤツの了見の狭さは尊敬に値する、という言い分と同様に、まったく疑問を持たずに日本語ラップだと受け入れるヤツのケツの穴の広さも同じくらい尊敬に値する、という言い分もわかるはず。

Friday, December 28, 2007

Anarchy - My Words






listen here

今年もたくさん日本語ラップを聴いてきたけども、その中でもThug Familyは突き抜けていた。「これは事実」、「真実をライムする」としつこく念を押しつづけるのだけども、その先のリリックが「裏切り者を暗殺」とか「ナイフを隠して街角に立つ」とか「敵を見つけて銃弾を撃ち込む」という内容。スキットでも「アイツはThug Familyを裏切ったから頭を一発で撃ちぬかれた」などと不吉な発言が飛び出しているので、こんなのが"真実"なら犯罪者だぞ!!と独りで突っ込んでみたら、曲中で「俺達は犯罪者」と名乗りをあげていた。リアルすぎてまるでファンタジー。Thug Familyには決して近寄らないことを08年への抱負とした。

RYUZOのアルバム"Document"はトラックもラップもリリックも07年を象徴するかのような内容で、つまりは見事な「不良ラップ」だった。「07年っぽさ」という観点で見れば、意図的にトレンドを外したSEEDAの"街風"や、リリックに説得力が無いZEEBRAの"World of Music"よりクオリティが一段上。にもかかわらず自分にどうにもハマらないのは前にも書いた「ヒップホップに対する距離感」のせいだろう。ヒップホップへのどっぷりの「愛」と「救いを求める姿勢」がどうにも鼻につく内容で、それを取っ払って裏返してしまうと醜悪な「ナルシズム」というか「自己憐憫」が姿を現して、聴き手に「哀れみ」を植え付けにきているかのように見えてしまう。

ところで「ヒップホップに対する距離感」という話では、いま一番特別な位置にいるのは、その「距離」を「逆境」と言い換えて、"仮想敵"として闘っているANARCHYだと思う。

ガキの頃から「ブリンブリンに着飾るM.O.B.の財布の薄さに気付」き、「貧乏だらけ しょうもないやつだらけ」の団地の一角で本物のスーパースターになるために「冷たいアスファルトはいつくば」ってラップする。「寒くて寒くて眠れな」く、「不安で不安でまた寝付けない」日々も夢が実現することを信じてラップする。

「音楽で飯を食う」ということ自体が馬鹿馬鹿しく見えてしまうこの時代に、「夢」という言葉を多用するANARCHYのラップには北の僻地で逆境に耐え忍んだBOSS THE MCや、新宿の路上で閉塞的な環境に耐え忍んだMSCと同じ「重み」を持つ。彼はヒップホップを強烈に愛し、スーパースターになることを熱望する。だけども、彼が恋焦がれるヒップホップとそのスターダムは果てしなく遠いところにあり、「逆境」の壁は途方も無くぶ厚い。しかし、その壁が厚ければ厚いほど、距離が遠ければ遠いほど、比例して彼の「夢」という言葉の重みが増していくのだ。

本作でもANARCHYは全ての曲で「逆境」と闘っている。アルバムの曲だけで彼のバックグラウンドをわかった気になっている私も私だが、彼の「闘う理由」を知った気になっているだけでも、作中のどれもが同じような内容である意味がわかり、リリックの響きもガラリと変わってくる。「ヒップホップスター」になるという果てしなく遠い夢への「闘いの音楽」――"My Words"の魅力が存分に伝わってくる。

だからANARCHYの隣で、漢が「Thug My Life!!」とか「争う! 時にどつきあう!」などと似たようなラップをしていると、そのあまりの得体の知れなさと、敵の見えなさに鼻水が止まらなくなってしまうのだ。ある意味、この曲にもSEEDAの"Mic Story"と同じで、いま誰の手にコインが渡っているのか如実にわかってしまう物悲しさがある。