微熱メモ vol.8 - 10年後のシーンを想像してみた
・「"シーン"とは何だろう?」ということを最近よく考える。Zeebraは日本語ラップ黎明期のころに「"シーン"という存在しないものをあたかも存在するように見せかけていた」というようなことを言っていたけども、その発言はすごく興味深い。
・つまりZeebraたち、黎明期のラッパーは周囲の注目を受けるため、要は小さい活動をより大きくて意味のある活動に変えていくために、「宇多川町で新しいムーブメントが起こっているよ」ということを周りの人たちに示して、まだ何も無かった場をあたかも「何か新しいことが起こっている場」にデッチあげていたという。
・じゃあZeebraの言うとおり、初期の"シーン"がただの「幻想の場」だったとして、その"シーン"の意味が過去と現在でまったく同じなのかといったらそれは違う。なぜなら、その何も無かった場所には歴史が積みあがっていて、そこにコミットしている人たちは基本的にその場の歴史や価値観を共有するようになっているからだ。
・"シーン"にコミットしている人たちはそこに横たわる歴史や価値観――「アーティスト同士の繋がり」や「作品や時代の繋がり」、「リリックやラップ、トラックの発展」や、はたまた「スキルの良し悪しの概念(何がワックなのか?)」というような"文脈"を共有している。逆に言うと、そういう"文脈"を知らない人は"シーン"の外の人となるし、"文脈"をわかる人が"シーン"の中にいる人となる。じゃあ、さらにもっと突き詰めれば、その"文脈"がわかる人たちの集合体こそがそのまま"シーン"と言えるんじゃないか。
・仮に"シーン"を「"文脈"をわかる人たちの集合体」として捉えてみると、その"文脈"を作る「もの」の存在がこれまでになく重要な位置をしめてくることがわかる。なぜなら「アーティスト同士の繋がり」や「作品や時代の繋がり」という情報やそれらの歴史を残すもの、あるいは「何がワックで何がそうでないのか?」というような価値観がなくなってしまうと、皆で共有できる"文脈"がなくなってしまうからだ。それはそのまま「"シーン"の消滅」を意味する。
・日本語ラップにおいて、一番わかりやすい"文脈"は雑誌『blast』上にあったものだろう。『blast』がアーティストや作品の情報を提供して、そこに歴史が残る。『blast』が大きく取り上げたものは日本語ラップでも重要な意味を持つし、取り上げもしなかったものは「ワック(≒シーンの外にあるもの)」だというように、明確で簡単に皆が共有できる"文脈"がソコにあったんじゃないかと考えることができる。『blast』から「クラシック」として位置づけられた曲("証言"や"人間発言所"など)をはじめは理解できなくても誰しもが聴きこんで理解しようと努め、『blast』から扱われなかったアーティスト(ドラゴンアッシュや一時期のスチャダラパーなど)やその曲は「シーンの外のもの」として誰もが見なした。日本語ラップ黎明期からの"文脈"を持つ『blast』はそこにコミットしている人たちの価値観をある程度は収瞼できていた。
・実際、いま日本語ラップで注目を受けているSEEDAにしろ、ANARCHYにしろ『blast』が残した"最後の文脈"上に存在するアーティストだし、『blast』の休刊から08年現在までの間で日本語ラップの"文脈"上にいると"シーン"で認識されているアーティストは、SEEDAやANARCHYからレペゼンされたアーティストと、MCバトルで活躍しているラッパー達、元々『blast』にいたアーティストに繋がっていた人たちで、それ以外で注目を受けているアーティストはほとんどいないと言っていいと思う。
・こういう風に考えてみると、SEEDAやANARCHYを最後に潰えた"文脈"が今後どのように残っていくかを予想することが「"シーン"が隆盛するか? それとも消滅してしまうか?」を見出す糸口になるといえる。「未来は暗くない」とか「シーンが無くなるはずはない」とか言いたい気持ちもわからなくはないし、実際に"シーン"が一切消滅してしまうことは無いのだろうけども、そこでそう言い切ってしまうのは単なる思考停止だ。
・"シーン"の内にいたラッパーが外のリスナーを掴むためにポップになっていったり、または外にいるラッパーのスキルが向上していくような動きの中でJ-POPと日本語ラップの境界線はさらに曖昧になるし、いまの日本語ラップの多様性は"シーン"の内側でもアーティスト同士やリスナー同士の壁を生む。そういう流れを踏まえたうえで今後の「"シーン"の形成」に対してネガティブな可能性のみを2点だけ記しておく。
・まず1つはJ-POP的なラップに日本語ラップが取って代わられる可能性。"文脈"を保つものが無くなって、周りの"シーン"との境界線が曖昧になっていく中で、「これがワックだ」というような日本語ラップ的な価値観が薄れる。また、"シーン"が「集合体」である以上、"文脈"を失って集合体の境界線が曖昧になっていく中で、人数的には圧倒的多数になるJ-POP的なリスナーの価値観が日本語ラップ的な価値観に勝り、主流の"文脈"はJ-POP的なラップが担うようになる。(勿論、旧来の"文脈"は残るだろうけども、海外アングラやウェッサイの"文脈"のようにマイナーな傍流として細々と残っていく)
・そして2つ目は"シーン"の内部が細分化されて、小さな"文脈"しか残らなくなる可能性。皆で共有できる"文脈"が無くなって、日本語ラップの形が多様化する中で、個人個人の「好き/嫌い」の壁が"シーン"の内部を分断していく。ジャジーラップだったり、ギャングスタラップだったり、アングララップだったり、日本語ラップのコミュニティが蛸壺化して、もともとが一枚岩のように見えていた日本語ラップが、リスナーやアーティストによって「自分の好きな"シーン"」の形に分断されていく。それらの小さな"シーン"のなかで個々に"文脈"が作られていくようになる。
・長々と書いてきたけども、これらがこれから10年後くらいの"シーン"の形かもしれない。実際に海外の"シーン"で起こっていたことを踏まえると結構な説得力もあると思う。でも、それらの「可能性」だけでなく、ひとつだけ希望を見出してみれば、過去の歴史や海外ヒップホップ、他の音楽ジャンルの例を見ても、常に"文脈"は新しくて力強いムーブメントの後に出来ていることだろう。アーティストのクリエイティブな動きの後に大多数のリスナーはついて行き、自然に"シーン"は形成されていくのだ。そしていままで"シーン"の中でそれは行われ、"シーン"が牽引されてきたという確かな実績が残っている。
11 comments:
「文脈のサバイブ=希望」という前提に基づくと思しき議論を展開されていますが、音楽(エンターテインメント全般)のあり方が時々刻々と変化しているこのご時勢に、それがどこまで通用するのかは、かなり怪しいと思います。
特に2つめの可能性に関しては、言うほど「ネガティヴ」な絵面だろうか、という気がするのです。あるジャンルの音楽について「皆で文脈を共有する」という事には、今でも大きな意義があるのでしょうか?
文章全体から並々ならぬ「文脈」への愛着が伝わって来る様で眩暈がするのですが、その「文脈」の形成に貢献したという『BLAST』の休刊という契機を迎えて尚、「文脈」の継続に拘るのは、いささか非生産的であると感じざるを得ません。
むしろ、作品やアーティストの活動に先立って雑誌がそれを作っていたという、その特異な状況下で作られた「文脈」が、呪いのように今後のアーティスト達に付き纏うなんて明らかに避けるべき事です。それが、「新しくて強いムーヴメント」の出現を妨げないとは、誰にも言い切れないからです。逆に、それがシーンだとか、体系だとか、文脈といったものを、木端微塵に粉砕するようなムーヴメントでなければ、一部の人にとってはもはや毛ほども面白くない。
10年後、ブラストの休刊を11年前の出来事として聞き知っている若者がマイクを握り、ステージに踊り出た時、果たして"文脈の共有"がどれだけ、アーティストとリスナーの音楽体験に対して実質的な意義を持つのでしょうか?
ああ、ごめんなさい、大規模な読み落としがありました、『「文脈のサバイブ=希望」という前提に基づくと思しき議論を展開されてい』るのが貴方だというのは、正確に言えば濡れ衣のようですね。
ただ、どちらにせよご自身の立場についてはかなり慎重に表明を控えていらっしゃる様に見受けられるので、その辺も気になるところです。
シーンなるものを被告とするなら、上の書き込みでギャーギャー言う検事がいたとして、微熱教授は弁護士なのでしょうか、それとも裁判官なのでしょうか。
新たなムーヴメントが興る過程においてもテイストメイカー(文脈メイカー?)は必要だと思います。
アメリカではDJ/ラジオ局が新人のレコードをブレイクさせますが、
日本ではその役目を主に雑誌が担っていましたからねぇ…。
ご指摘もらった点は文章に書けなかったところで、いつか補足しようと思っていたのでありがたいです。
文章力がないので、なんでもかんでも盛り込んでしまうと、文章の焦点がぼやけてしまうもので。。。
この文章には一応前提みたいなものがあって、それは「"文脈"の消滅は必然的なこと」だということです。
まぁ言ってしまえば『blast』の休刊はレコ屋がつぶれていっているような「時代の流れ」の一貫ですし、リスナーに興味を持たれなかった故の「休刊」で、どっちにしろあの雑誌には力が無くなっていたので、「"文脈"の消滅」という現象自体は「『blast』休刊」と実はあんまり関係ないものだと見ています。象徴的でイメージつきやすいのでとりあげていますが。
で、なんで"文脈"がそんなに重要なのか?なんでそんなにこだわるのか?ってことですけど、そもそもこのテーマは私が日本語ラップの文章を書いているが為に問題として認識していることです。直面しつつある問題は大きく2つあるので分けて書きます。
まず1つは、私が日本語ラップの文章を書くうえで、読み手の対象として置いているのが「"文脈"を理解している人(≒シーンの中の人)」なので、まず"文脈"が無くなってしまうと(今までのは無くならないもしれないけど、今後無くなってしまうと)、文章が非常に書きづらくなる。
これは書き手側の1つの問題にすぎませんが、私の予想だと"シーン"に深くコミットしている人ほど似たような問題に直面すると思います。
(私なんか"シーン"へのコミットという点だとめちゃめちゃ浅いですが、それでも「"文脈"の消滅」には不自由さを感じるので。)
そして2つめは、自分が培ってきた価値観が通用しなくなることを恐れています。
"文脈"が細分化されると、個人個人の「好き/嫌い」の価値観が非常に重要になってきます。
で、自分が「好きなものだから良い」だとか「嫌いなものだから良くない」という形で"シーン"が分断されてくると、自分が培ってきた価値観が通用する範囲が非常に狭くなる。あるいは、通用しなくなる。
例えば、「"証言"って曲はすごくいいよ!」と言っても、「ハァ?あんな曲の何が良いの?っていうか俺は好きじゃなし、糞でしょ」とあっけなく返されるようなことをイメージしてもらうとわかりやすいと思います。これを言い換えれば「書き手としての寿命」なんですけど、私だけではなくてアーティストや他の書き手含めていっせいに迎えるものじゃないかと懸念しているのです。
この説明でこの文章上での私のスタンス(「希望」という言葉の使い方や、"文脈"にこだわる姿勢)がおわかりいただければと思います。
あと、せっかくなのでこれらの「問題」のほかにこの文章の裏テーマも挙げておきます。
まずアーティストでよく「"シーン"を壊したい」みたいなことを言っていた人がいたけど、それが現実としてこういう形であらわれてきているけど、本当にそれを喜んで受け入れられていますか?と問い正す。
次に「音楽はジャンルをこだわらずにいろんなものを聴くべきだ」っていう人がいますけど、貴方が聴いているのは「好き/嫌い」で作ったジャンルでしょ?それはジャンルとしては横断的かもしれないけど、「好きなもの」だけで作り上げた狭い世界なんじゃないの?ということを問い正す。
あと、この話を考えると、アーティストの動きとかもいろいろ整理してみえてくるからレビューを書くうえで便利なんです。たとえば、MicrophonePagerが復活するってことでも、いままで「"シーン"から脱却」しつづけてきた人がなぜこのタイミングで「王道楽土」とか言ってアルバムを作り出しているのか?ってこととか(脱却する"シーン"がなくなってきているからとも読める)、般若が「"シーン"の外に目を向けなければいけない」といいつつ、なんであんなに"シーン"のことばかりうたうのか?とかいろいろ見えてくる。
(私の予想だと『王道楽土』はゲストをたくさん盛り込んだ「ノアの方舟」的な作品か、「ハードコア」みたいなテーマ一つに集約されたプロパガンダ的な作品になると思います。)
「シーン」と私の関係をその例えでいうなら、「被告の妻」みたいなもんでしょうかね。被告がいないといろいろと困るんですよ。
確かに海外と日本での"シーン"の作られ方はぜんぜん違うので、その根本を考えてみるのは面白いかもしれませんね。
いままでの日本語ラップもなんかそういう細かいところでいびつな「面白さ」が出来ていたので。
話しが変わりますが、「J-POP的なラップ」に日本語ラップが取って代わられる可能性って、現実にアメリカでおこっていたことだから自分的にはすごく信憑性があるんですよね。南部ヒップホップが主流になってイーストコーストの連中がついていけなくなるっていう図式やアングラがメインストリームに飲み込まれるっていう図式とか。
hiphop内での大きな(小さな)物語によって、hiphopの公共性・倫理を築くのは、もう無理なのではないかと思います。結果論のようですが。しかし、hiphopを担っている人々がポストモダンに生きている以上、この流れは避けられないのではないでしょうか。
2つ目の可能性こそが、ill-bosstinoの予言した「シーンはどんどん小さく・・・」にあたるような気がします。公共性が無くなるのだから、好き嫌いによる判断は正しいのではないでしょうか。むしろそれにより、(その前提になりますが)すべてのものの価値をゼロにし、シーンの外とも同じ水平にしてしまい、そこで、1つ目の可能性として再生するのではないでしょうか。つまり、音楽の全体性を回復させ、そこから構築された"hiphopであったもの"としてしか生き残らない。それこそが今のUSのhiphopだ、といわれたらそこまでですが・・・
でもこれってシーンの支えを失った状況で、zeebraのような闘いを強いているような、相当過酷なもののような気がします。
歪rさんのコメで「アーティストの活動に先立って~」っていうのがありましたが、そこにきちんと返答しておくと、アーティストが新しい活動を行おうとすることは意思の問題なので、"文脈"に縛られるようなものではなく自由ですし、既存の"文脈"を超えるようなことをすることも自由です。というか、基本的に「クラシック」って呼ばれるものはそういうことを達成できた作品と認識しています。
ただ"文脈"を木っ端微塵に粉砕しようにもその"文脈"がなかったり、あるいは新しいムーブメントが起きたときにそれを支える「土壌(≒シーン)」すらなくなってしまうことに問題があるんじゃないでしょうか。
私はHeartsdalesやGashaanやLil諭吉や北関東スキルズみたいなしょうもないものだったり、ニコラップとかも好きなんですけど、そういうことを書くことが数年前には"シーン"のカウンターになっていたのに、最近はレビューにすること自体が「空気読めていない」感じになっている気がするようになってきたのです。(でも、書きますが。)
kskさんが言うような話には同感ですね。土壌が失われていく中でのアーティストの活動はよりシビアなものでしょう。「シーンが大きくなる」ということは1つ目の可能性とほとんどイコールだと思っているので、「シーンを大きくしたい」というようなアーティストの発言に最近はいらだつことがあります。「シーンが大きくなる」ということは私があげた可能性を内包するということだと思っているので、そういうような覚悟が無い発言には何の共感も受けません。
いつも楽しく読ませてもらってます。
僕はただのリスナーですが、文脈はすごい大切にしてます。それは、音楽的にどうのってより、背景を踏まえて聞く方が好きだからです。
一時期、音楽的にどうかって追求して聞いてみた時期がありましたが、つまらないんですよね。だから、背景のないレビューとかホントきな臭くて嫌いです。なんだよ。テメエの耳の好き嫌いだけで書くなよって。あえてそういう姿勢で書いてますってのも、輪をかけて腹が立つ。なんて。
金曜山梨見てstillichimiya買っちゃって、向山君のお父さんがカッコいいから友達に金曜山梨見ろよって薦めちゃうみたいな。そういう面白さがなくなっちゃう気がするんですよね。上手く言えないけど。
最近、色々な日本語ラップcdがたくさんリリースされて、CD買って2, 3回聞いてまたCD買って...なんで俺ヒップホップ聞いてるんだろうって考える時があって。昔と買ってる量が劇的に増えた訳じゃないけど、ただただ浪費してるような気がして。
会社じゃhip hop聞いてるなんて白い目だし。自分の置かれてる環境が変わっちゃったのかなぁ...
う〜ん。とってもこの話は感慨深いです。
ていうか、僕が高校の時に出会ったヒップホップは、他の音楽に比べて文脈があったからこそ好きになったのを思い出しました。(わたしが勝手に思ってるだけかな...)
>テメエの耳の好き嫌いだけで書くなよ
私も好き嫌いで書きますけどね。
古川さん・磯部さんとの鼎談でも言われていましたけど、日本語ラップは"シーン"の構造からして他の音楽シーンより独特だという言葉は説得力ありますね。だからそこに魅かれて聴き始める人は普通にいるんじゃないかと私も思います。
「ただただ浪費してる~」状態ってのも感覚的にわかります。"シーン"が盛り上がっていないと聴き手も熱中できないですから。私にとって00年中盤の海外アングラがそんな感じでした。
いつも楽しく拝見しています。
HeartsdalesやGashaanやLil諭吉や北関東スキルズ>>>
この4組の中に北関東スキルズが入ったのが意外でした!前々から微熱さんの北関東スキルズに対しての見解やレビュー是非教えて欲しいです!確か上半期で取り上げてましたよね?seedaはうなずけたとは言えそこで他では唯一の日本人アーティストが彼等でしたよね?その辺良ければ聞かせて欲しいなぁ???
HeartsdalesやGashaaanとかもそうですし、あとアルファやテリヤキとかもだけど、ああいう他とは毛色が違った(あるいは間違った)音楽が好きなのです。しかも、趣味が悪くて、ラップがダサいのも重要。北関東はグライムだとかバイレに影響受けたのはいいけど、消化しそこなった感じがとても好きで良く聴いていたので上半期に挙げました。術の穴の環ロイの方が作品としての出来は全然上だけど、やっていることは予定調和。作品の出来云々じゃなくて何かいままで聴いたことないものが聴けたので良いなと思いました。
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