Tuesday, August 19, 2008

般若 - ドクタートーキョー & Twigy - Baby's Choice





listen here
& here

般若の"ドクタートーキョー"はアルバム中のほとんど全ての曲で日本語ラップへの想いやシーンに対する不満についてうたっているので、そのまま曲中のあらゆるものが日本語ラップのメタファーなんじゃないかと思えてくる。そうしてみると"月が散りそう"は、KREVAの"音色"のように日本語ラップを女と見立ててうたったラブバラードに映り、「オマエの中に流れる / 不安な夜を終わらせる / オマエといれば笑える / 刻んでくれ俺という名」や「きっといや多分 / また生まれて君に会う / いつか2人宙に舞う / その日のために生きてやる」なんて言葉が実に味わい深く響いてくる。

しかし、Amebreakのインタビューで見れる「シーンの外に出て行かなければならない」という彼のフラストレーションや覚悟を思えば、この作品の狭量具合にどうしても引っかかってしまうというか、言っていることとやっていることがパラノっているように思えてならない。この作品の中で日本語ラップへの愛憎をぶちまける般若は外に向かって突き進もうとしているというより、日本語ラップの中にばかり気をとられてしまっているように見えてしまうのだ。

TwigyはMicrophone Pagerから作り上げた「ハードコアな日本語ラップ像」を自ら破壊し、「こうあるべきだ」というような固定観念的で脅迫概念的なハードコア像とは真逆な、より感覚的で普遍的な像を作り続けてきたことは数年前に「Mag For Ears vol.1」の"余韻"のレビューでも書いた。その「感覚的で普遍的な像」はそれそのものが感覚的で普遍的な「愛のカタチ」をテーマとした"Love or Hate"に最も顕著だったのだけど、彼の作ろうとしていた「感覚的な日本語ラップ像」はどうしても曖昧にならざるを得ず、ビジョンを捉えづらすぎたせいか、普遍的なものとしてはまったく浸透せず、結局Twigy個人のパーソナルな価値観として彼の作品に延々と紡がれてきたのだった。

それゆえ"Baby's Choice"がいままでのTwigyの作品群と一線を画しているのは、この作品に登場するアーティスト達の点を結べば現在のシーンそのものの形が浮かび上がり、更に次の世代・次の次の世代の姿までを巧みに取り込んてしまった点だろう。結果としてこの作品に映し出されるのは「ハードコアな日本語ラップ」とは全く次元の異なる「感覚的な日本語ラップ」へ日本語ラップそのもの全てがシフトしてしまったような景色で、曲の始まりから終わりまでただひたすらゆったり漂う調の裏にはTwigyが今まで一人で延々と繰り返していた「リセット行為」をシーン全てを巻き込んでやってしまった力強さと凄まじさがある。

44 comments:

Anonymous said...

twigyのゲスト(に限らず、服装、思想とかも)って、計算して狙ってるのか、天然な人なのか?ってずっと謎でした。「その先の向こう」のプロモみたいに煙に巻かれるというか。nippsは意外と仕事選んでそうな気もしてます。

Anonymous said...

人によっては意外に思うかもしれませんが、UGKのヒット曲をそのままパクった"Rap Shit"やら、Lil Wayneにあきらかに影響受けたようなムードを見てもだけど、TWIGYの価値観自体は結構わかりやすく、ずっと変わっていない印象です。


それはおよそ7、8年前のベスト盤が出たころのblastの鼎談(私・磯部氏・古川氏による)でも語られていたのですが、「既存のヒップホップの枠組みを壊したがる意識」や「南部ヒップホップなんかを参照するようなスノッブ的精神」などで、そのころから今に至るまで彼のインタビューでもその辺はしっかり垣間見れたりします。


NIPPSは…やる気ないのだけはよくわかります。

Anonymous said...

プレフューズと一緒にインタビュー受けてる映像で、サウスは感覚的なもの、とか言ってたり、ギャングスタが流行ってるから、もっとアートなものを(D.Oは?)とか言ってたり。やたらにゲストで「コレは…」っていう人を招いたりだとかあったりするので。スノッブ感は本人は自覚してなかったりするのかなとか思ってました。アングラ信者的な、DQNをバカにするスノッブ感は全くないですよね。

前の記事で、不良ラップの源流はトコナってあって、文学に触れなそうな不良が~。ってありましたが、古いファッション雑誌を読んでたら、トコナが載ってて、結構難しそうな時代小説を読んでるみたいな記事が載ってました。
蛇足ですが「ファッションにやたらこだわる奴は中身が無いからだ」的なことを言ってて(笑)、らしいなって。

Anonymous said...

プレフューズと一緒にインタビュー受けてる映像で、サウスは感覚的なもの、とか言ってたり、ギャングスタが流行ってるから、もっとアートなものを(D.Oは?)とか言ってたり。やたらにゲストで「コレは…」っていう人を招いたりだとかあったりするので。スノッブ感は本人は自覚してなかったりするのかなとか思ってました。アングラ信者的な、DQNをバカにするスノッブ感は全くないですよね。

前の記事で、不良ラップの源流はトコナってあって、文学に触れなそうな不良が~。ってありましたが、古いファッション雑誌を読んでたら、トコナが載ってて、結構難しそうな時代小説を読んでるみたいな記事が載ってました。
蛇足ですが「ファッションにやたらこだわる奴は中身が無いからだ」的なことを言ってて(笑)、らしいなって。

Anonymous said...

>アングラ信者的な、DQNをバカにするスノッブ感は全くないですよね。

あぁそういう風潮はときたまある感じしますね。そもそもアメリカナイズ的なものが受け入れられづらい理由が良くわからない。
特にジブさんなんかは、REMIXやらロキノンの読者やアングラ信者に受け入れられないだけじゃなく、ニトロみたいに同じようなことをやっているひとにもディスられたりするからなー。
いつか「ジブラはなぜ嫌われるか?」みたいなことでも掘り下げて書いてみたいですね。


>「ファッションにやたらこだわる奴は中身が無いからだ」的なことを言ってて(笑)、

らしいですね笑。良い話だ。

Anonymous said...

ゼブラ氏個人に関しては、ドラゴンアッシュの件とかで単に人望が無い、って事なんではないですかね?あとUS→日本への翻訳作業が直訳過ぎだし。
ストリートドリームスのプロモ見ても、未だに「さんぴん史観(笑)」を引きずってるのか、と思ったし。あのプロモは歴史修正主義ですよ(笑)都合の悪い、ニトロ、ECD、キングギドラ、BLUE HERB、スチャとかは全く登場しないという。

トコナは逆に言うと、中身さえあれば、アメリカナイズだろうがなんだろうが、表現としてカッコよければ何でもいいって事を思ってたんでしょうね。

Anonymous said...

うーん。トピック面でトコナのアルバムの中身がジブさんのアルバムの中身に勝っているかっていうとよくわからんですねぇ。
US⇒日本への翻訳が安直なのひとはMOSAD周辺にも一杯居ますし、ライムアニマルはイルマリアッチの1stと同じくらいオリジナリティのある中身だと思うし。
ていうか、向こうのヒップホップの翻訳ってことだと、ジブさんの姿勢ってBOSSの姿勢とあんまり変わらんとずっと思っているのですよ。それなのに見せ方だけで、こんだけプロップスに差があるのは面白い。


DAの件もそうですけど、ボンボンな出自だとか、なんだかんだでメジャーの象徴だったりするところとか、ディスられやすいところ満載なのはよくわかるので、そのディスられ体質を他の人と比較して見つめなおしてみたいですね。

Anonymous said...

>アメリカナイズ的なものが受け入れられづらい理由が良くわからない

http://www.jarchive.org/journal/2008/07/asian_spirits.html

ここでばるぼらさんが書いてるように
「嫌儲」的価値観に共鳴しやすい
「無職!ニート!学生!」な人が
日本での主なhiphopリスナーなんじゃないかなと思います。
自分も「メジャーは敵だ!アングラ最高!」
な思考になりがちなので。良くない考え方
だと認識してはいるのですが。

Anonymous said...

ナンシー関(R.I.P)は日本人は不良好きな民族だって言ってたんですけど、それって、更生した不良だけなのかなって。当時ゼブラさん出た時、現役で不良がラップやってる、って思って。
裏付けのないセルフボーストが=DQN、って受け取られたのかと。BOSSは日本語でのラップに興味はあるけど、ゼブラさんみたいなのばっかだと、共感できないって人の期待を背負わされてた感がありました。ロッキンオン的には、リリシストBOSSがたいして考えもなくラップしてる人達をやっつけてくれるみたいな。
ヒップホップは「差別受けた黒人の魂の叫び」っていう、誤ったヒップホップの認識も関係してるのかもしれないですね。

Anonymous said...

自分のコメント読んでて思ったけど、きちんとした返答になっていないな…。誰もトコナがジブさんより良いなんて話していないし。すんません、ちゃんと読んで返事書きます。



まぁ「無職!ニート!学生!」な日本のhiphopリスナーがアングラ好きって思考に陥りやすいっていうか、「無職!ニート!学生!」なオタクがDQNやヤンキー(死語)を嫌いすぎるって気もするんですけどね。アングラ最高!っていう人はなぜか音楽オタクに多いイメージがある。


そう考えるとそこのブログに書かれているような「嫌儲」的価値観って、純日本的な価値観っていう高尚なもんより自分の思考に凝り固まるプライドが高いオタクの持つ価値観な感じもする。実はすげぇ排他的な面も持っているって点で。もちろんこの辺、全部自分にも当てはまるのも否定はしませんがね笑


アンチジブラな人を10人くらいあつめていろいろ意見を聞いてみたいなー。

Anonymous said...

最近のBOSSを見ると背負わされているものの重さがかわいそうでなりません。


BOSS自身別にそんな偉大な考えがあるわけでもないのに。。彼ももっと掘り下げて考えられる人だと思うんですけどね。

Anonymous said...

ジブさんについてずっと考えてたんですが、単にあの人個人の問題な気がしてきました(笑)でもクルーのAKITONの本とか読んでると、笑えないんですよ…。機会あったら見てみて下さい。

不良がアメリカ文化取り入れるっていうのは、昔からあったっぽいですよね。何故ヒップホップに限って欧米の模倣って言われるのか謎ですね(歴史的に若いから?)。でもよく考えると、ホワイトミュージックだってクラシックでストップしてるんですよね。欧米文化に対して、オタクカルチャーを持ち出す右的なオタクはバカなんだなーって思います。その点ヒップホップはどんなDQNでも信頼できるんですよね。「欧米の模倣をする振舞い」こそが日本的なんではないか?っていうトコナの思想は学問的には正しいですよね。

何を書こうとしてたんだっけな…スイマセン。

BOSSの主なメッセージって、I'm still no.1って事で良いんですかね??

Anonymous said...

最近のBOSSの主なメッセージは「I'm still no.1」もそうだけど、「I'm Here」の色合いも強い気がしてます。


あの人は北海道から成り上がるために必要だったとはいえ、シーンからの自分の位置を離しすぎたと思います。Shing02もそうだけど、他ジャンルで受けが良い人に限ってシーンとの協調やらフックアップの精神が無いんだよな。そのお陰でDQNから切り離されてオタ受けしているのかもしれないけど。


>「欧米の模倣をする振舞い」こそが日本的なんではないか?

正にそうなんですよね。また「欧米の模倣から逸脱しようとがんばる」姿勢も日本的ではあるし、それが面白いのも否定はできませんが。これだけは確実に言えるのは「欧米の模倣だからダメだ」という批判をするやつは作品そのものだけではなくて、ヒップホップという音楽自体をきちんと整理して考えられていない阿呆だということです。少し前までならいざ知らず、今の日本語ラップの文脈上否定しようがないでしょう。最近のMusic Magazineのレビューでもありましたが(笑)
(関係ないですけど、今年は日本語ラップの黄金期として後々語られる年だと思います。)

コメント読んでAktionの本買おうと思いましたけど、近所に売っていなかったので近々買います。

Anonymous said...

Akitionは、良いから読んでみてください、っていうより、ヒドイなーって感じで言いました;スイマセン(笑)
でもUBG辺りの価値観が分かると思います。
最後にジブさんとの対談付きです。

日本的=日本人が現にやってること、ですからね。近年のネット右翼みたいに、架空の日本像を作って、それが日本的だっていうのは間違ってますよね。政府ですら日本を称賛するために、アニメとかを持ち上げるのは気持ち悪いです。あれはポルノみたいなものだし(笑)アナーキーとかマッチョとかクレバとかMINTがいることの方が誇らしいですよ!

俺はもともと右翼的価値観を持ってて(それゆえにネット右翼を必要以上に嫌います)、日本語ラップはそれと同じ議論がされてると感じます。三島由紀生は「歌舞伎」とか「着物」とかを日本的って考えることを否定しました。じゃあ逆に、何が日本的なのか?っていうのがリアル右翼のテーマでした。
ホント、SHING02が表現する「日本」ってハラキリ、カブキ、ゲイシャ、と変わらないですよ。mixiでSHING02に信者が質問できるコーナーがあるんですが、彼は何故か日本のラッパーに言及することを意図的に避けてます。

Anonymous said...

アニメを単に「ポルノ」と見做してしまうのは日本語ラップを「DQNの音楽」と見做すのと同じくらい気持ち悪いです。まぁ政府がどの程度真剣に「アニメは文化だ」と見ているかは知らないけど、金銭面でアテにしているならアニメをたくさん消費している人の生活を先に豊かにしてほしいものです。ちなみにMINTはアニメ消費者らしいですね(とは言っても紅を観てるってことしか知りませんが)。


Shig02に関しては、ずっと考えても全然彼の立ち位置がつかめない上に、彼の音楽や発言で共感できる面がほとんど無いのです。私はヒップホップとそれにまつわる色々を「エンターテイメント」としてしか見ていないので、彼の音楽観とはまったく合わないから理解できないんだろうなとは漠然と思います。彼の発言や活動を見るに、「ヒップホップの力」、「音楽の力」、「言葉の力」を他の誰よりも信じている印象なのですが、そういう思想や価値観をヒップホップに託す神経がまずよくわからない。そもそも人間って誰しもがそんなに高尚な精神を持っているものじゃないだろうってのが私の見方なので。だから彼のやろうとしていることは尊敬しますが、理解しようとはなかなか思えないのかもしれないですね。


だから逆にエンターテイメントを理解して、そこでうまくやっていこうとしているジブさんなんかはすごい好き。


「ヒップホップとは何か?」や「日本的とはどういうことか?」を考えて作れば、もしかしたら受け手にそういう思想は伝わるかもしれないけども、それは所詮その「考え」の中で作られたものだから「ハラキリ、カブキ、ゲイシャ」にしかならないと思うのです。不良ラップはそこらの輩が自分の気持ちをそのままうたったからこそ、「日本人が現にやってること=日本的なこと」や「いまの日本に住むということ」がどういうことなのかを的確に描写できたのだと思います。

Anonymous said...

MINTは「紅」観てるんだ・・・
彼が女子高生とか若い女の子大好きなのは
韻踏時代から知っていたけど
紅だと「ロリ」ではなく「ペド」になってしまう気がw

Anonymous said...

そう言えば、MJPの最近出たCDにもオタクへの揶揄をした曲がありましたね。曲中で情報を鵜呑みにするなとか言ってるのに、揶揄してるオタク像はどうみてもTVが報道するオタク像まんまという(笑)
それは僕個人の中のMJPの評価が下がっただけなので別にいいのですが、ラッパーは自分達がそういうような揶揄をされることに対してはとても敏感なのに、どうしてそれを人にすることに対しては鈍感なのだろうか、いつも不思議です。まあそれはオタクにも言える事なんですが。彼らはなぜか「DQN」「キモオタ」と言い合ってる。オタクで日本語ラップリスナーの僕としては彼らは根底ではかなり似た性質を持っていると思っているのですが・・・。

>「ヒップホップとは何か?」や「日本的とはどういうことか?」を考えて作れば、

このブログでは前に東浩紀を引用されていたのでちょっとその話をすると、彼は「動物化するポストモダン」でオタクたちの作品の中には擬似日本がよく出てくると言っています。その理由として、アニメ・特撮・ゲームなどは元々アメリカから輸入したサブカルチャーであり、それをいかに「国産化」するかというときに擬似日本が出てきたと言っていたと思います。ここで僕が言いたいのは日本のHIPHOPの中でも「ヒップホップとは何か?」や「日本的とはどういうことか?」を考えて作ったとき、同じような事が起こっていたのではないかということです。ある時期までの日本語ラップは擬似日本ではなく、「擬似バビロン」を作っていたのではないかなとか最近考えています。

まあ「擬似バビロン」についてはどうでもいいんですが(笑)、僕が思うのは不良ラップが「擬似バビロン」を破壊してくれて本当によかったなあということですね。明確にどこら辺とは言えませんが、日本で初めて正しいレペゼンの使われ方をしたと言われる妄走族が「バビロンシティ」を歌ったあたりかなあ、と思います。僕は高校の時は、「擬似バビロン」的なものが嫌で、TBH・シンゴ2・降神ばかり聴いていましたが、今はSCARS周辺とSDP周辺を主に聴いています(笑)

Anonymous said...

ミンちゃんは紫萌えみたいですね。


こういう話をしていると自分のなかでも色々整理できるのでうれしいです。Shing02のこととかいままで全然しっくりこなかったんだよなー。


ここで言われている「擬似バビロン」っていわゆるサンぴん幻想的なものの派生でしょうか?「日本語ラップシーン」ってヤツですかね??だとしたらそこから距離を置いている「TBH・シンゴ2・降神」ばかり聴いていたというのもなんとなく腑に落ちます。


"動物化するポストモダン"は読んだけど、そのくだりとかほとんど覚えていないですねぇ。いいキッカケだから読み直してみるかな。"動物化~"でも、"ゲーム的リアリズム~"でも日本のアニメーションとか漫画はディズニーの影響下にあるって話はなんとなく覚えていますが。


「どうでもいいから金が欲しい」っていう壮絶なぶっちゃけ精神のもとで「別にセルアウトでも、アメリカナイズでも自分のポリシーがありゃいいじゃん」という今の日本語ラップのタフさが今まで気づきあげてきた色々な価値観をぶっ壊している感じがたまらなく好きです。達磨様があれほどやっきになって「破壊する」っていっていた日本語ラップの価値観をまさかドーベルマンインクのBLが「破壊する」ことになるとは…。いまの面白い日本語ラップってSEEDAっていうよりほとんどBLのプロデュースの下にあるからなぁ。


今のBLはアメリカのヒップホップにおけるプリモくらいの重要性があるような気がしています。

Anonymous said...

×気づきあげてきた
○築き上げてきた

Anonymous said...

そうですね、個人的感情が先走ってしまい(笑)ただオタクの定義っていうのがあって、マニアとの違いは、「性的」であるかどうかって説明が多くて。
DQN vs キモオタって対立するものではなくて、それぞれ一人の人間の中ある比率で持ってるものなんですかね??

自己弁護はこのくらいにして(笑)
ちょっと思い出したんですが、ISH-ONEがwenodのネットラジオに出てて、日本のヒップホップはBLUE HERBくらいしか聴かないって言ってて、本格アメリカナイズ派は国内アメリカナイズを否定するっていうのもあるのかな?って思いました。

shing02は自分もあんまり興味持てないアーティストです。「日本にゲットーは無い、から探す劣等感」みたいなラインも嫌いだし。
学問的に言うと、オリエンタリズムってやつですよね。「アメリカ人」shingo02から見た日本みたいな。

BLは化けたのか、もともとああいう人だったのか!?って謎ですね。加藤ミリヤのROSEって曲好きでした。そういえば、ハスリングラップと同時期に、日本のプロデュースチーム、っていうのが沢山出てきましたね。職業作曲家っていうか。さんぴん時代は、グループ内にトラックメーカーがいるっていうシステムでしたよね。
日本のプレミアだと大変うれしいです。

Anonymous said...

多分、「日本語ラップシーン」ととても近いと思います。

「動物化する~」は以外に日本のラップシーンと親和性が高いと思いますが、最近出た、「ケータイ小説的」という本も興味深かったです。その本では、「恋空」などのケータイ小説にはデートDV的な要素が散見されると書かれていたんですが、僕はそれがSEEDAが別れたばかりの彼女のことをビッチと言う問題と裏表をなしているように感じました。HIPHOPとかヤンキーのホモソーシャル的なものに抑圧された少女達がそのような状況の共感のツールとしてケータイ小説を消費している面もあるのかもなあ、と感じました。彼女たちに失礼かもしれませんが。

「どうでもいいから金が欲しい」っていうのは良いですよね。「なんでもいいから金」だったら日本ではラップなんてやらないほういいですし。「金は欲しいけどラップをやる」という姿勢は信頼できます。NORIKIYOは前作で、「俺は俺だ」と言って自分が「NORIKIYO」という存在になるまでを歌っていて、「OUTLET BLUES」では「俺は誰だ?」みたいなことは言わなくなったのですけど、でも「NORIKIYO」になっても何も変わらなかったというようなことを歌っています。まさに「EXIT」は本当にあるのか?と不安になります。まあ、そのような状況こそが共感するポイントでもあるのですが。

Anonymous said...

DQNなひとはキモオタを嫌いで、キモオタなひとはDQNを嫌いだってイメージは実生活上ひしひしと感じられるので、一人の人間に内在する比率的なものってのは良くわからないですねぇ。ただ、DQNな姿勢を持ちつつキモオタ的な精神を持つ人はなんとなく尊敬しています。なんか人間的に勝てない(笑)


Shing02はおっしゃるとおり「オリエンタリズム」の人だと思います。あれからまたちょっと考えたんですけど、アメリカでアイデンティティが培われた日本人がヒップホップをやるってことを考えるとああいう感じにならざるを得ないかなって感じもするんですが、それ以上に彼は「ヒップホップはどういうものなのか?どういう歴史を持っているのか?」ということを理解しすぎている気がする。


それは絶対に悪いことじゃないけど、彼が作った「ヒップホップ」が日本人に理解できるものかっていうとそうじゃないと断言できるし、なによりそれは「日本語ラップ」では決して無い。「日本語ラップ」は彼が訴えようとしているものと別次元のコンプレックスとジレンマを抱えるものだっていうのが私の結論です。


結局、海外の文化は「パクリ」のもとで作られているのですが、日本の文化って「和」っていう「オリジナル」のものを持っていたりして、しかもそれが自分達の生活と隣り合わせにあったりします。だから嫌が応にもそれを精神的な拠り所にしてしまうし、「オリジナル」を身近に見ているせいで「パクリ」に厳しい民族風土を持つのかな、と。全部推測の域を出ないヨタ話ですが。


"ケータイ小説的"に言及しているメディアって結構見るんですよね。未読なので、ヤンキー(笑)のカウンターなのかは全く言及できずスミマセン。。だけど、なんか「日本的なもの」について考えているなかでそういうのも興味わいてきましたよ。


"Outlet Blues"のその指摘はなかなか鋭いですね。好きなのでかなり聴きこんでいるのに気づかなかったな。Thug familyのTOPの新作で"祈"という「自分は犠牲になってもいいから、ストリートのホーミー達を救ってくれ!」と神に祈りを捧げる曲があるのですが、それは「懺悔」という新ジャンルを切り開いたんじゃないかと思っていて、"Outlet Blues"にも「懺悔」的な描写が見られるので、「いまは懺悔ブームだ!」とかっていうのが私の感想でした。


この記事で書いた般若もそうだし、そのNORIKIYOも、SEEDAもそうですが、「日本語ラップ(シーン)に興味ない」っていうようなことを言う人ほどMIX CDでフックアップやったり、日本語ラップが大好きなんだなーとわかりますね。いまは日本語ラップ史上空前のツンデレブームだ!

Anonymous said...

ヤンキーとオタクの親和性、類似性については特にこれといった見解を持ち合わせていませんが、オタとDQNが(ともすれば類似性を持つにも関わらず)相互排除的にいがみあい、相手を批判する際にステロタイプ的想像力に依拠してしまうのは、単純に彼らには他の文化圏、トライブ(島宇宙でもなんでもいいですが)に対する想像力がないというか興味がないからでしょう。ですからその文化やコミュニティに内在的なリテラシーを醸成する前にメディアの表層的なイメージを鵜呑みにしてしまう。ではそもそもなぜいがみ合うのかという問題ですが、基本的に「スクールカースト」的な問題と地続きなんですかね。ヤンキーはオタクを見下し、オタクはヤンキーに対しルサンチマンを溜め込むという。なんだかんだ言って学生時代に身に着けたあるいは身に着けさせられた振る舞い、ポジションというのは後の人生にまで影響を及ぼしてるような気がします。自分を含めて。

SHING02の表現がその内に「オリエンタリズム」的要素を孕んでいるというのは確かだと思いますが、これをサイードのいう「オリエンタリズム」批判や、ポストコロニアル的な批判言説にそのまま当てはめてしまっていいのかは個人的には疑問ですね。というのはやはりSHING02のパーソナリティや表現を読み解くにあたって、バイリンガルだという事実は(他のバイリンラッパーと比べても圧倒的に)重要だと思うからです。こういった表現が的確かは分かりませんが、彼がマクロに「日本的」なものを表現する際は、「オリエンタリズム」的なつまりは欧米人的な想像力が見え隠れしますが、一転ミクロとなると非常にディテールの細かい表現がみられるようになる(この辺りには(未)帰国子女というファクトを逆利用したような狡猾さを感じなくもないですが)。このような緻密な表現は高い文化的、言語的同一性がなければ不可能なことです。そういった点において「ナショナル」というものについて考える時、「日本的」なものを逆照射する存在としてSHING02は興味深い存在だと思っています。

あと日本人が(というより日本人の一部のネットワーカーがといったほうがいいのでしょうが便宜的にこうしておきます)「パクリ」に不寛容な民族性を持つのは何故かということですが(まあそもそも日本人だけが厳しいのかという問題もありますがそれは置いておいて)、それが、海外の文化は「パクリ」を前提にしているが、日本はなまじ身近に「オリジナルな和文化」があるから「パクリ」には敏感、不寛容なんだ、というのはやや疑問です。海外の文化は「パクリ」を前提としているにしてもやはり文化的オリジンとしての自負があり、その「起源」が文化的アイデンティティの根幹に存在しますが、輸入文化により近代化した明治以降の日本にはこの「起源」が存在しない。だからこそ日本人は文化的には本来接続されないはずのない「和文化」を、輸入文化をアイデンティファイする際にも持ち出してきてしまうのでないか。つまり日本人が「パクリ」に不寛容なのは「オリジナル」が身近にあるからではなく、むしろオリジナルを(前近代以前にしか)持たないからではないでしょうか。

なんだか瑣末なことばかり言ってるよう気がしますが。

Anonymous said...

>サイードのいう「オリエンタリズム」批判や、ポストコロニアル的な批判言説
と言えば、黒人天才を思いだします。日本の新しい才能には冷たいのに、少し日本語が出来る黒人が来たら、速攻でインタビューに行き握手するという某ラッパーを見て落ち込みましたよ(笑)まさに植民地的メンタリティーで、お前がやってきた答えは結局こうか、と。

「パクリ」についてだと、「思想地図」に寄稿されていた増田聡「データベース、パクリ、初音ミク」という論文も興味深かったです。その論文では東浩紀の言う「データベース消費」とDJ的なサンプリング文化についての親和性についてと、昨今見られるパクリフォビア(パクリ恐怖症)的なものについて考察されています。そこではパクリフォビアは「ポストモダンに対する近代からの反発」や「すべてがデータベース(パクリ)化していく中で、ついにはこの「私」という存在までデータベース(パクリ)化してしまうのではないかという恐怖心」からくると言われていたように思います。

Anonymous said...

個人的にヒップホップカルチャーに惹かれた要因の一つに、スクールカーストから自由(かのような)イメージからなのもあって、ヤンキー vs オタクみたいな図式にあまり現実感がないんですよね。
ラッパーの多くって「スクール」からはじき出された人たちなんだろうなっていう幻想が強くて。インタビュー読んでるとBOSSにしても、ECDにしても、受験勉強カルチャーからも自由そうだったし、逆に不良カルチャーにも微妙にいずらそうというか。あと教室での居場所の無さ感というか。TWIGYもトコナも転校っていうイベントがあったりだとか。

あと、ヒップホップにおけるオタクって、一般のイメージとはかなりかけ離れてますよね。BESが自分はオタクって言われてもDQNって思われるよりは全然OKとか。いわゆるナード的なオタクっていうか、ある意味自意識のない人たちって日本は少ないですよね。金沢で活動してたいくつかのクルーくらいで。

Anonymous said...

続き

shing02のヒップホップ感って結構一面的っていうか偏ってる気がするんですよね。ラッパーのタイプとして、プレイヤーとか、科学者とか、リリシストとか、イルでマッドなキャラとか、社会派・コンシャス、フリーキーなフロウとか、子供が怪人、妖怪を好きなのと同じ適当な楽しみ方とかあると思ったり。

どうでもいいから金のため+ラップをやりたい、って、ドープに決めたいって感じですかね?そういえば最近ケータイ小説でヒップホップと絡めたやつが出ててビックリしました(笑)!まさにデータベース化っていうようなライムで凄かったです。逆に個性があるというか。関係ないですが、BOSSが言語自体サンプリングじゃん、って言ってて、彼には意外とフォビアはなくて、そこはクール(もしくは鈍感)なんだなって思いましたね。

Anonymous said...

・Shing02(とそこに見るオリエンタリズム?)について
・ヤンキーとオタクの齟齬について


まず、私が書いていた「和」っていうのは明治前のものを指しているなので、名無し①さんの考えと実はまったく同じです。ハラキリ、ニンジャ、ゲイシャでもスシ、テンプラでもなんでもいいですが、いわゆる「日本の文化」としてレペゼンされるものって明治以降のものっていうよりその前から培われたもんかな、と。輸入文化は海外のオリジナルとして見た時に、日本のオリジナルの拠り所して「和」が出てくるのかなと思って書きました。書き方悪くてスミマセン。。


勿論、日本人(というか日本のネットオタ)のみが「パクリに敏感」って断言できるかって言うとそんなことはできませんが、ネット上で漫画家を叩きに叩いて、業界から追放しただけでなく、自殺まで追い込む風潮には私の目からは「パクリに敏感」に見えるっていう程度のもの。


そういう日本のネットオタのパクリ騒動と「日本語ラップのアメリカナイズ批判」を混同させるのもムリはあるのは承知ですけども、そもそも「アメリカから自由な日本語ラップ」って何を指すのかと。「アメリカナイズ」だと批判するひとは「オリジナルな日本語ラップ」を知っているがごとく批判しますが、それってどんなものよ??って常日頃思うのです。


ていうか、自分の「好き嫌い」の表現を安易な「パクリ/オリジナル」なんて言葉でさも理論的な論拠のように見せるなと。まぁこの辺が「パクリ/オリジナル」についてコメントした発端でした。


全然書けていませんが、昼休みが終わるので、まずはこの辺で。。。

Anonymous said...

ぎりぎりの状態でコメント書いたせいで、冒頭部分とかもきちんとメモ帳からコピペされずにコメント欄に投入されていたようです。。ごめんなさい。


ちょっと整理しないと返答しづらくなってきたので、以下3点くらいに分けて書くというようなことを冒頭に書いたつもりでした。


・パクリ/オリジナルについて
・Shing02(とそこに見るオリエンタリズム?)について
・ヤンキーとオタクの齟齬について


で、「パクリ/オリジナルについて」の続きですが、「アメリカのヒップホップのパクリ(=アメリカナイズ)だから良くない」といったところで、そこ(アメリカの影響)から自由な日本語ラップなんてそもそも無いからその批判っておかしくね?というのが今までここで書いてきたことのおさらいですね。


ただ、ラッパーによってはリリックの内容に「ありきたりのことばっか言っていて内容にリアリティがない」っていう批判の仕方はあるかもしれない。ただ、そこは「アメリカナイズ」と切り分けて考えないとおかしなことになってしまう。たとえばジブさんのラップなんかは「アメリカのパクリ」っていうより、「クリシェの塊」という批判のほうが正しい。(それでもそういう風に叩く前に何故そんな表現をしているのか?っていうことを考えてみるべきだとは思いますが。)


そう考えると、いわゆる「アメリカナイズ批判」の論拠って「クリシェか否か」に集約されるんですよ。MUSIC MAGAZINEでアナーキーの新作がアメリカナイズでつまらないというようなことを書かれていたし、同様の批判は湧き上がるのでしょうけど、果たしてそれが「クリシェの塊」なのかどうなのか?ちゃんと聴けている人かどうかって意味で、そのリスナーの「レベル」がわかりますね。


「思想地図」は読んでいないので、コメントに書かれていることを表面的にしか読めませんけど、「自分の存在までデータベース化される恐怖心からパクリに敏感になる」ってのは全く意味わからんですね。というか普通に考えて「パクリを糾弾する人」って「パクリ行為をむかついている」だけでしょう。自分がデータベース化されるかもしれないからパクリを糾弾するってどんな人だ?なんか具体例があったりすんのかな??


続きは明日にでも「Shing02(とそこに見るオリエンタリズム?)について」、コメント書きます。いろいろ参考になりますので、ご意見ある方は自由にどうぞ。

Anonymous said...

で、続いてShing02についてですが、こういうことを言ってしまうと今までの話も台無しになってしまうかもしれないけども、彼が「オリエンタリズム」の人だということ自体にはあんまり興味がないので、そこからポストコロニアル云々な考察をするつもりはまったく無いです。ただ彼の立ち位置が日本語ラップの地図からかなり離れたところにあるという点と、彼のやっている「ヒップホップ」への違和感をここで考えてみたかったのでした。


だから、アメリカと日本のハザマにいて、文化/言語的同一性を持つShing02が作るヒップホップこそが「日本」の形を照らし出しているという話しにはすごく納得しますが、その点よりむしろ「だからこそShig02のヒップホップは日本語ラップの文脈では語れないのではないか」という点に興味を持っています。


あと、彼は「語り手」ではあるけども、「自分のことを語る」というようなことをほとんどしない。彼のリリックは「リアル」ではなく、「物語」。だから、「子供が怪人、妖怪を好きなのと同じ適当な楽しみ方がある」というのはそうなのかもしれませんが、それは彼の作った「物語」の分だけ楽しみ方があるだけであって、Shing02本人を掘り下げていることにはならないと思うのです。


それは彼がアメリカと日本のハザマにいるからこそ、「日本人Shing02」のことを語れず、常に第3者的な視点を持つリリックを作り上げてしまう…云々とも考えられそうですが。。まぁ整理しづらい人ですね。


将来、Shing02が「自分のことを語る」ようなことがあったら、そのときにこそ「日本人のヒップホップ」の形が明確にわかってきそうですね。

Anonymous said...

そうですねー収拾つかなくなりました(笑)

インタビューとかだと少年シンゴ02の話とかあるんですが、結構普通の話なのかもしれませんね。

・微熱さんの、今年は後々重要といわれるだろう年になるだろうという推測から思いついたことや、その他。

・そろそろさんぴん2000みたいなのが来年ありそうな気がする。

・ジブさんは最近「現場」回帰思想を唱えている。

・今後海外と金だけでない交流がありそう。

・極端なワックMCが今後出てこなくなる。

・ファッション誌でしか見かけない新人ラッパーがいる。

Anonymous said...

続いて「ヤンキーとオタクの齟齬について」。


MJPがオタクをDISっていたということですが、実はその曲を聴いていません。一応そこを踏まえてもらいますが、実は私はラッパー(≒ヤンキー、DQN)がオタクを攻撃するっていう図式はその例以外にあんまり知らなかったりします。これも実生活からの実感ですが、DQNってオタクを嫌いっていうか、相手にしていないイメージのが強いっすね。目に入っていないっていうか。見下すって言い方にシックリくるかな。逆にオタク(あとパンピーも)のがDQNを毛嫌いしている。


どちらかというと、私もヒップホップには「ヤンキーvsオタク」の図式は当てはまらないと思います。単純にヒップホップの外にいる人がヒップホップを馬鹿にしていたり、攻撃している感じ。だから「ヤンキーvsオタク」の話もヒップホップの内外で切り分けて考えたほうがすんなり来ます。


音楽にハマって、それを掘り下げている時点で少なからずオタク要素を持っていると思うのですが、更に日本語ラップっていう特殊な歴史を持つ音楽にドップリな人って、より特殊な「オタク要素」を持っているというか。現に日本語ラップの歴史は金持ちのスノッブに作られているって言いますよね。ジブラやツイギーやユウザロックなんか顕著ですけど。


だからヒップホップの外にいるひとがスクールカースト的なトラウマで「ヒップホップのイメージ」を一方的に毛嫌いしているイメージのが強いんですよね。日本語ラップの中は前に「比率」って話も出ていましたけど、DQN要素とオタ要素が複雑に絡み合っている気がする。


ヒップホップ内のDQN要素/オタ要素はもうちょっと整理できそうな気がするな。また考えたら書き込みます。


夜行列車さんのテーマだと↓が気になります。

・ジブさんは最近「現場」回帰思想を唱えている。
・今後海外と金だけでない交流がありそう。
・ファッション誌でしか見かけない新人ラッパーがいる。

Anonymous said...

この前に誰かが書かれていたように「日本人が不良にあこがれる」という話しの中で、特にスノッブでナーディーな人たちがいち早くヒップホップの不良性にあこがれて作り上げたものが日本語ラップだとすると、それこそ日本語ラップの黎明期って「不良な人たちがやっていた」というより「不良にあこがれているナードがやっていた」というニュアンスのほうが強いのかもしれません。
(勿論、スノッブな人たちはヒップホップの不良性だけじゃなくて、音楽的な先鋭性に惹かれている面もあったでしょうが。)


ブルーハーブ・Shig02・降神あたりを信奉するリスナーや、同じ日本語ラップでもヤンキーな方面よりナーディーな方面に目が向いてしまう人への違和感って先に言われている「スクールカースト」の劣等感めいたものを自身の価値基準として置いていて、さらにそれを正当化しているような気持ち悪さなんじゃないかな。聴き手の価値基準としてスクールカーストの「呪縛」があるって話しはなんか信憑性あります。先鋭性という意味では同じくらいのレベルを持つ不良ラップがブルーハーブやShig02や降神みたいに浸透しない理由のひとつはその「呪縛」にあるのかもしれないとも思います。

Anonymous said...

ジブさんは、最近のインタビュー(ファッション誌とか)で、現場(ここのサイト用語でいうところの「特権的なストリート」)では、ZEEBRAや漢、besがいきなりフリスタを始めたり(実際やったようです)、ネットが身近になったり情報がくまなく行き渡った今こそ、そういう突如現場で起こる事件(?)に価値が出るってことらしいです。

海外とのつながりは、下剋上レコーディングもありますが、アナーキーが海外進出するのでは?って(希望も含めて)思ってます。ニューヨークでは日本語で観客ロックしたらしいですよ!

ファッション誌でしか見かけないハードコアラッパーとは、某Y's氏のことです。俺はけなしてるわけではなく、日本のラップのパターンが広まったと思って悪く思ってません。

しかし↓この人誰なんですかね??
ttp://profile.myspace.com/index.cfm?fuseaction=user.viewprofile&friendid=163833715

Anonymous said...

ジブさんは、最近のインタビュー(ファッション誌とか)で、現場(ここのサイト用語でいうところの「特権的なストリート」)では、ZEEBRAや漢、besがいきなりフリスタを始めたり(実際やったようです)、ネットが身近になったり情報がくまなく行き渡った今こそ、そういう突如現場で起こる事件(?)に価値が出るってことらしいです。

海外とのつながりは、下剋上レコーディングもありますが、アナーキーが海外進出するのでは?って(希望も含めて)思ってます。ニューヨークでは日本語で観客ロックしたらしいですよ!

ファッション誌でしか見かけないハードコアラッパーとは、某Y's氏のことです。俺はけなしてるわけではなく、日本のラップのパターンが広まったと思って悪く思ってません。

しかし↓この人誰なんですかね??
ttp://profile.myspace.com/index.cfm?fuseaction=user.viewprofile&friendid=163833715

Anonymous said...

去年あたりに「日本語ラップのターニングポイントは今だ」っていう話しは色々書いていたのですが、それは不良ラップからの作品内容の変容や一般への認知度の高まりだけでなく、「ネットによる情報共有の加速」という面も大きいと考えていました。


このブログでは、ひたすらニコ動(というか、らっぷびと)を持ち上げていましたが、最近ではシーンから少し離れた人たちの情報が入ってきやすかたり(↑のkazって人の情報とかもそうですが。私は初見。)、シーンそのものの動向をキャッチできたりしていて、「発信側のネットの活用」も、ここ1、2年で加速してきたような実感があります。


だから、去年あたりに言っている「ターニングポイント」は、「不良ラップの革新性」ってだけの話しっていうより、ネットでの情報から見て取れる「シーン」がどんどんデカくなっているという意味でも使っていたのですが、ここんとこの動向は自分が思っていたよりもめちゃくちゃ早くて、混沌としていますね。


ニコラップを考えるとき、一般人を巻き込んで聴かせるための「ネタ化」の面を外して考えることはできませんが、そもそもネット上で情報を発信するために「ネタ化」ってかなり重要なもんじゃないのかな、と。ニコラップでの「ネタ化」は勿論アニメやDISなんかの「ネタ」なんだけど、ジブさんが言うような「現場でのハプニングや伝説」(般若とRUMIのバトルも最近あったみたいですが)だったり、ムナリやYing Yangのような「アメリカでのドラマ」(もしかしたらkazなんかもそういう話しが出てくるかもですが)を「ネタ化」するっていう視点はジブさんの言うとおりネット上での情報発信にこそ重要だと思います。


もちろん、「ネタ化」を考えるときには、それが誰に発信されている「ネタ」なのかでも内容もだいぶ変わってくるので切り分けて使っていく必要はあるのですが。ちなみに私は、「ネタ化」を今までで一番有効活用できているのは、らっぷびとよりKダブだと思っています。

Anonymous said...

k dub shineはDMCもやりましたしね。あれ引き受けられるのって確かにいないですよね。サイプレス上野とかは出来るかもしれませんが。
k dub本人はネタって思ってるんですかね?
最近シーンからもの凄い遠い気がしました。disが無効っていうか(笑)

話変わりますが、ミュージックマガジンのレヴューはヒドイですね。アナーキーとリル・ウェインがクロスレヴューされてるんですが、ただの感想文といらない情報満載でした…。

Anonymous said...

最近読んだ東浩紀の「リアルのゆくえ」でもちょこっと書いてありましたが、「ネタ」ってもうある種の批判を前提として作られてるからDISなんかほとんど通用しないんですよね。あと、「ネタ化」っていうのは自分のやっていることの「メタ化」とも通ずるから、K DUBの鬼刃役をやっていることってすごく象徴的だと思います。


流行の先端から遅れているremixと、フリーペーパー並の一般リスナーへの紹介文に過ぎないMusic Magazineにはまったく興味ないですけど、AmebreakのAnarchyレビューも相当ひどいな。リスナーの購買意欲を煽りたいのだけはよく伝わるけど。


そういえば、「ケータイ小説的。」読みました。
Seedaだけで見ると、「あのビッチは去っていったけど、どーでもいいや」という描写はケータイ小説的。に書かれているようなデートDVに見られるというウェットな執着心は見られないドライな表現だと思うので、あまりシックリきませんでした。というか、「女に執着する」ってのはヒップホップ的にダサい印象があります。

Anonymous said...

そういえば、無駄だと思いつつもかなり久々に2chに行ってヒップホップの模倣の話、日本語ラップヘイターと話してたんですが…結局、「近代化」の話と同じなのかな?って思いました。第二次世界大戦に負けたから、アメリカの文化が押し付けられているっていう「妄想」がキモオタのDQN批判につながってるのでは?と思いました。

ヒップホップの評があまりにも酷かったんで、良かったら見てみてください;
前、だれか言ったみたいにbounceがフリーで出たり、音楽誌って終りに向かってるんでしょうね。そういえば昨日新宿のタワレコに行ったら、BESのCDが置いてなくてびっくりしました。売り切れたって感じでもなく。amebreakで取り上げられてないのとか関係あるのか???

「ケータイ小説」は確か、俺じゃなくて、ほかの方が言ってたと思うんですが。俺も興味あって読んでみました。ヒップホップとの共通点は「記号」で成り立ってるってことですよね。携帯小説は「デートDV」「望まれない妊娠」「死」、とかの
テーマが並んで出来てるみたいな感じで。やたら清純派アイドルが出てくるのは、内面の純粋さを表現してるのではっていう分析してる人がいて、なるほどなと。

男女関係としては、ヒップホップと携帯小説は大きな違いがありますよね。携帯小説は近代的恋愛の極みっていうか。ハードコアラップでラブソングみたいなのってないですよ
ね。

「物語」「ドラマ化」っていう視点から見ると、貧しくてろくに教育も受けていない人間が、リリシスト(又は、トラックメイカー)としては特異な能力を発揮してゲットーを抜け出すみたいな「物語」って、現在のUSだとどのくらい有効なんでしょうか?日本のヒップホップが本物だとされない理由の一つに挙がるものなんで、気になってました。


ちょっとまとまりのない文章になりましたが。

Anonymous said...

Music Magazine読みました。
「"クロス"レビューの癖に誰もヒップホップの文脈を持っていねーwww」とか色々ツッコミどころ満載でしたが、大体予想どおりの内容でしたね。


最近よく思うのは「ヒップホップシーンを大きくする。リスナー数を増やす」という大義名分があったとして、それって本当に必要なことなのか?ってことです。大きくなるメリットって何か身近なところであるのかなぁ。同じヒップホップの文脈を持つ人の間でも齟齬があるのに、それを増長させていくだけのことなら「シーンが大きくなる」ことのデメリットのほうがでかいんじゃないかって気がしてます。


「シーンが大きくなる」ことのメリットってその分だけアーティストやその関係者の食い扶持が大きくなるってことが真っ先に挙げられると思うけど、それだけの目的なら「シーンを大きくする」より「自分のリスナーを獲得しにいく」ほうがどう考えても楽だし、ブルーハーブみたいな前例があるだけまだ望みがある。他の分野からリスナーをひっぱってくるという可能性だとらっぷびとみたいなアーティストも出てきているし、それこそスチャダラパーやライムスターの存在だってあるし、そこに参考になる手法もある。


前述のアナーキーのレビューで「ブルーハーブを聴いたほうがいい。」なんて言葉が物書きでメシ食っている人間から出てきますからねぇ。自分から文脈を探ろうともせずに、自分の文脈に入ってこないものを盲目的に排除するような人しかメディアにいないのであれば、アーティストがシーンの外の人間に理解しやすい方法で「リスナーを獲得しにいく」ほうが楽に違いないし、後々の「シーンのため」なんじゃないかと考えています。


で、話は変わって、USの「成り上がり」についてですが、一昔前ならEMINEMがそうだし、最近ならSOULJA BOYがメディアの力で全くの無名の状態からヒットを飛ばしていました。9th WonderはシャレでJay-Zのリミックスアルバムを作っていたらフックアップされたし、USじゃないけどDanger Mouseだって違法スレスレの反則技で一挙に有名になりましたよね。EMINEMのフックアップのされ方はすごく偶然性があるけど、現在だって才能があってメディアを有効活用すればゲットーからでも陽の目を浴びれる可能性はまだまだ十分にあると思います。ただそこにある「物語」がどの程度機能しているのかは知りませんけど。


「記号」について最近興味深いのは、もう既に「私小説的なリアル」な表現も記号化されつつあるんじゃないかって点ですね。ただ、その「記号化」に対する反発みたいなものをSEEDAの"Heaven"や般若の"ドクタートーキョー"が内在していたという風に私は考えているんですけど、まぁその辺は次のレビューにでも書くつもりです。

Anonymous said...

そういえばEMINEMはそれこそ自分の「物語」をネタに映画を作っていましたね。
去年はJay-Zが"American Gangster"の映画に大層自分の「物語」を照らし合わせていたし、あの国でヒップホップ的な成り上がり物語はウケてるのかもしれません。

Anonymous said...

「ケータイ小説的」でのデートDVの話は上にも書きましたが、SEEDAと「裏表」をなしていると感じました。「ウェットな執着心⇔ドライ」と接し方は逆ですが、「ケータイ小説的」でもファスト風土の地元つながり文化は女性を排除している、とあったので、HIPHOP的なホモソーシャルな文化がそこでもあって、「ウェットな執着心⇔ドライ」と接し方は違いますが、女性蔑視の風潮を共有しているのかなと思いました。HIPHOPには昔からある問題ですし、僕が気にしすぎかもしれませんが、ニコニコ等でHIPHOPの動画を見ると、女性蔑視の書き込み等は多く見られるので気になってしまいます…。

「シーンを大きくする」問題っていうのは、「リアルのゆくえ」の公共性の話とも関係してきますよね。僕は今年が日本語ラップの豊作の年だというのは同感ですが、壁にぶつかった年でもあると思います。上にも書いたように「NORIKIYO」になっても何も変わらなかったり、このエントリで言われてるように般若が外に出ようとしても、結局はシーンへの愛憎を歌うのみに終始してしまうのは、シーンが行き詰っている、もっと言えば公共性がないとも言えるのではないでしょうか。僕は公共性は必要なのではないかと思うのですが、どうなのでしょう。リスナーとして出来ることと言えば、批評ということになると思いますが…。本来批評というのはそういう役目もあったのだと思います。音楽誌などを見てもそのような公共性へと開こうとするような批評はあまり見ないように感じます。ただ、そのような中でこのようなサイトをやっていらっしゃる微熱氏や「日本語ラップ史/論」を書こうとしている磯部氏などは(尊敬・・・と書くと嫌がられるかも知れないので、)信用しています。

Anonymous said...

自分語りになってしまって申し訳ないですけど、私は7,8年前にサイトを開いた当初から今に至るまで一度も「公共性を開こう」と意識したことはないです。寧ろ、ヒップホップの文脈を知っていて、そのジャーゴンを理解できる人を読者と想定して、あくまでエンターテイメントの一種として書いてました。おそらく、磯部さんも「公共性を開こう」として本を書こうとしているのではないと思っています…本人に聞いた訳ではないのでなんともいえませんが。


「公共性を開く」文章の条件って
--------------------
  1.シーン外の人が読む機会が多い媒体に載っている
  2.シーン外の人がそのアーティストの背景を理解できるような内容(ディスコグラフィやバイオグラフィ的な文章)
  3.シーン外の人が聴いて共感を持てる文章(主に印象批評になると思います。)
--------------------
だから、基本的にMusic Maganzineに載っているクロスレビューはその条件を満たしているんですよ。「シーンの文脈を知れ」ってライター以上にリスナー全員に強制するのは不可能だし、私個人のエゴにしかならない。


この類の文章は雑誌に限らず、WEB上でもあふれかえっているし、実際に私が書く文章より「一般人」の視点に近い分、訴求力は強いと思います。でも、その「見方」って作品を聴くうえで個人的退屈すぎるし、何よりも刺激が無いのでエンターテイメントの一例としてずっと書き続けているのでした。


あと、先にも書きましたけど、公共性を開く「メリット」ってあんまり見当たらないんですよね。シーンが大きくなったとしてもどうせその内部での齟齬は生じるし。考えられる一番魅力的なメリットは、参加者が増えることで、音楽の幅が出来たり質が向上したりってのもあるんですけど、その面で考えても「今が不満か?」と聞かれればそんなことは無いので。


「ケータイ小説的。」に関しては、その見方は理解できません。というのも、あの本を読む限り、「単なる女性蔑視」(=ヒップホップ的な視点=ドライな視点)と「女性に執着するがあまり束縛が激しくなってしまう」(=デートDV的な視点=ウェットな視点)はどう考えても真逆で、そこには「自分にとってどーでもいい女」と「自分の恋人」くらいの差があるからです。ケータイ小説的で論じられる女性は「恋人となる女」を対象としていますが、ヒップホップであつかれる女性はたいてい「一発やれればそれでいい女」を対象としていると思います。ニコニコ動画での「女性蔑視」もどちらかといえば「自分にとってどーでもいい女」を対象にしているから、そこは単純には繋がらない気がします。

Anonymous said...

やっぱりそう答えられてしまったか(笑)
まあ、そういうのを人に強要や仮託しようとするのはズルかったですね。
結局、現状に不満があるのなら自分でやるしかないのかー。

Anonymous said...

いつも興味深く拝読させていただいている者です。  記事の下に延々と連なっている皆さんのコメントとは、段違いにどうでもいい話なのですが、一つ提言させていただけないでしょうか。


この記事中において、


>しかし、Amebreakのインタビューで見れる「シーンの外に出て行かなければならない」という彼のフラストレーションや覚悟を思えば、この作品の狭量具合にどうしても引っかかってしまうというか、言っていることとやっていることがパラノっているように思えてならない。


とありますが、これはいささか早とちりな意見のような気がします。 

私はアルバム「ドクタートーキョー」を聴き、Amebreakでの般若のインタビューを読んだとき、彼の発言には納得がいったんです。

何故かと申しますと、
彼はこのアルバムを、「シーンの外に出て行く」ための、一種の「区切り」として作ったように思えるからです。

それを示すかのように、「バトル引退」を決意した上でのUMB出場があったりしましたし、このアルバムに関しても、前三作と比べて「日本語ラップシーン」やその現場への意識が高いものに仕上がっていますよね。 

般若は何も、「ドクタートーキョー」でシーンの外に出ていこうと、シーンの外で勝負していこうとしたわけではないのでは?

あくまで憶測の域を出ませんが。

上記の理由から、今年リリースされた5thアルバム「HANNYA」に対する微熱氏の意見がとても気になります。  

長々と失礼いたしました。