Sunday, February 08, 2009

COMA-CHI - RED NAKED






listen here

過去の対談や鼎談――『日本語ラップのリリックにおける「進化」と「限界」について 』『ラップの「上手さ」とは何か?』――はいまの日本語ラップに根付いた価値観を説明するためにもスルーできないものだったと思う。日本語でのラップはもう誰にでも出来る。商業的なラップの形が一般に浸透して、素人の上手いラップを普通に目の当たりにするようになっていく中で、日本語ラップがスキルの追求より「リアルな表現」を獲得しにいったのはとても自然な流れだろう。そして、08年にリリースされた作品を見直しても、メディアの支持を集めた作品は「リアルな表現」をまとったものが大半を占めている。

ただ、08年は単に「リアルな表現」を志向する日本語ラップだけでシーンが形成されていたかというと、そういう訳でも無かった。勃興したハスリングラップやギャングタラップの横には、ジャジーヒップホップや、アンダーグラウンド志向のもの、あるいはウェッサイシーンから生み出された作品群、ナーディで内省的なヒップホップ……。リアル志向/作品主義の軸だけでは語りつくせないほどの作品が作られ、またそれぞれの作品がなにか特別な意味を持っているかのようにクオリティが高かった。

日本語ラップの多様性やそのクオリティと比例するように広がっていくアーティストやリスナーの価値観。それを元々の本筋の文脈に集約しようとしたMicrophone Pager。D.Oが捕まってしまい、"改正開始08"が配信停止になったことで、彼らがやろうとしていた「改正」が文字通り頓挫したように見えてしまうところがなんだか悲劇的でもあるけども、それ以前に"王道楽土"がなぜあそこまで2chやブログで散々叩かれ、酷評を受けていたのかに関心がある。文脈の中心にいたスキルフルなアーティストを新旧フルに揃えて、文脈回帰の必要性をその全員にうたわせたのにリスナーにまったく伝わらなかったのはなぜか。

「上手くラップができる」ことが無価値になって、新世代のアーティスト達は「スキル」ではなく、その「内容」に価値を見出していった。それはつまり、自分の過去の経験だったり、クソな環境に翻弄される自分だったり、自分の素直な感情や気持ちを「リアル」だとして表現することだったのだけども、そういったアーティスト同様にリスナーも「内容重視型」に変貌を遂げたのではないかと考えている。

つまり、リスナーが「共感」しやすい作品こそが、支持を集めるシーンとなったということで、実際に08年ベストとしてメディアの支持を集めたものを見ても、リスナーの「共感」を集めやすい構造を持った作品に偏っていることがわかる。もっと簡単に、「弱い立場」にいるアーティストの作品を中心にリスナーの支持を集めていると言ってしまってもいい。将来への活路を見出せずもがくアーティスト、牢獄の中で未来への希望をつむぐアーティスト、ひたすら自己反省を繰り返すアーティスト、ゲットーにいながら勝ち上がりを夢見るアーティスト。

とすれば、Microphone Pagerの"王道楽土"はそういったリスナーの価値観とは真逆の内容だったから支持されなかったのではないか。「俺達こそが本物」、「ワックな奴らは消えうせろ」といった旧来の自己肯定的表現(俺イズム)はいまのリスナーの反感を生んだとしても、共感を生むものではない。Microphone Pagerは時代の流れに反発して"王道楽土"を作ったには違いないけども、既に彼らの考えが通用するシーンではなくなってしまっていたということだ。

一方、ライムスターやキックザカンクルーやリップスライムなどを代表としたリアル志向ではなく、作品主義的なアーティストは彼らの立ち位置がヒップホップにあることを意識的にうたう。それはリリースを重ねる毎に広がっていく音楽性や曲テーマといった裾野が、ともすれば非ヒップホップ的に見えるところまで行ってしまうことへのエクスキューズに違いないが、ヒップホップの血をわけたB-BOYだからこそ許される表現というものが確かにある。そのマナーにさえのっとればナンセンスでたわいもない遊び心を持って、革新的で色彩豊かなビートまで手を伸ばし、作品の幅を大きく広げることができる。

その特権的な立場――「B-BOYな俺、B-GIRLなワタシ」――をことさら意識的にリードしているサイプレス上野とロベルト吉野やCOMA-CHIが09年初頭にリリースしたアルバムは、共に作品主義的といえば作品主義的な作風には違いない。アルバムの中にある過去への郷愁や、周囲の人間に対する素直な感謝の気持ちや、好きな人への愛のうたに至っては、「B-BOYな俺、B-GIRLなワタシ」というエクスキューズ無しにしては商業的なJ-RAPとの相異を見出すほうが難しいし、エレクトロやR&Bやロックなどの多彩な趣向を凝らしたメロディアスなトラック群は、ハスリングラップやギャングスタラップで鳴っているようなヒリついた薄暗いビートに比べると浮ついているようにすら見える。

しかし、その一面だけ見て、09年初頭にリリースされた彼らの作品を単に「作品主義的」と見るには雑把すぎる。というのも、彼らは前作に比べてより「パーソナル」な面を作品に意識的に打ち出しているからだ。過去への郷愁や、周囲の人間に対する素直な感謝の気持ちや、好きな人への愛のうた……。そのそれぞれが彼らの実体験をベースにしたり、実の肉親に宛てたようなとてもプライヴェートなところにまで踏み込んだ内容になっている。

たとえば、COMA-CHIは"RED NAKED"で「女性である自分」を徹底的に前面に押し出す。この中では、ヒップホップと出会った過去の経験のほかに、自傷症だったという消しがたく暗い過去までがうたわれ、その横ではストレスフルな都会の中で武装して軽やかにサヴァイブするCOMA-CHIの姿が細やかなタッチで描かれている。自分の「最も弱い部分」をさらけ出したうえで、自立して力強く生きている自分を照らして見せ、同じような環境に翻弄され苦しんでいる人たちを応援する。幅広いリスナー、特に意識的にフォーカスをあてている女性から「共感」を生むだろうこの構造こそ、07~08年の「リアル志向」な日本語ラップを経由した表現方法に他ならない。

「B-BOYな俺、B-GIRLなワタシ」はプライヴェートでパーソナルなストーリーを作品に挟み込むことで、「作品主義」とも「リアル志向」とも言えるような懐の広さを持った作品を作り出すようになった。多彩な音楽性やトピックを持ったうえで、より幅広いリスナーから共感を得ることのできる下地をついに手に入れたということだ。

19 comments:

Anonymous said...

おお、この作品、ちょうど気になっていたのでレビュー面白く読ませていただきました。

Coma-Chiってたしかに立ち居地がいいと思うんですよね、B-GRILイズムで旧い文脈にアプローチしたり、コテコテのJ-POP路線に行ったり、グライム風味だったりと、どれかを必ず気に入るリスナーがいるのは間違いないですからね。

個人的に「特に意識的にフォーカスをあてている女性から「共感」を生むだ」点である意味注目してるのがSoulJaだったりするんですよね、あれはまさにシーンに全く触れず、ラップもヘタクソ、さらに帰国子女でアルバムも支離滅裂で、いってしまうとケータイ小説的ファンタジーなラッパーで、コアから嫌われまくって、逆に「スイーツ(笑)」とか揶揄される人々に受けそうな要素が多いので、動向が気になったりしています。

Anonymous said...

王道楽土発売直後の、ネット上での異常なまでのペイジャー叩きには正直驚きました。確かに作品自体の「強度」がやや欠けているようには思われたものの、「文脈回帰」というメッセージは明らかでしたし、やはり微熱さんのおっしゃる通り、もはや彼らの考えが通用するシーンではないということなんでしょうね。
特にTWIGYがあそこまで叩かれたというのは、過去に例がないんじゃないですかね。もっとも、近年のTWIGYのソロ諸作における「自身は一歩引いて、ゲストを光らせる」作風を把握していない人々による批判が多かったようには思われましたが。

Anonymous said...

>Coma-chi

どう聴いても06年リリースには聴こえない懐古趣味的な前作からは大きく路線を変えてきましたね。同時多発的にブームになったIKUZOの件でも積極的にフォローしていたり、思っていたよりフットワークが軽そうで、そこに今後の可能性を感じます。


Souljaに限らず、いまのJ-RAPと日本語ラップの差別化は日本語ラップファンではない人には難しいでしょうし、今後ますます境界線がグレーになっていくと思います。要はシーンに属していないアーティストと属しているアーティストが同じような作品をつくったときにどう受け止めるのかってところに尽きると思うのですが、人口差で負けそうな気がしてならない。


こないだ、たまたま観たTV番組でTOKIOの長瀬がフリースタイル(?)をしていたのだけど、ラップの合間に歌をはさみこんでいたのが印象的でした。もう歌も込みでラップなんだな、と。


>ペイジャー

王道楽土はクオリティが低いアルバムではないのに、なぜあそこまで叩かれてしまったのかってことをずっと考えていたんですよね。雷でさえもうちょっとは好意的に受け止められていたのに…。あれが5年前に出たら、あそこまで叩かれなかったでしょう。


TWIGYのソロの作風を理解していない人がいたというのもそうですが、何故このタイミングで王道楽土みたいな作品を出さなければいけないのかわからないという人が多かったのも、こういうプロパガンダ的な作品をあからさまに毛嫌いする人が多かったのも印象的でした。まぁそういう人たちが多くなってきたから作った作品に違いないのですが…。ここまでアーティストとリスナーの価値観の差がはっきり見て取れる作品もなかなかないと思います。

Anonymous said...

王道楽土はクオリティ云々よりも、あれだけ多くのゲストを呼んだということ(つまりはコンセプト面)が叩かれていた感じでしたね。
「MUROとTWIGYの二人だけで作ったアルバムだったら良かったのに」という意見はけっこう見られた気がします(TWIGYはともかく今のMUROにそれだけの体力があるのかという疑問はありますが)。
「ゲストは若手を呼ぶのは控えて当時の繋がりのメンツのみに留めてほしかった」という意見も散見されたような。

ここから先は推測、というか単なる印象論でしかないのですが、今回ペイジャーのアルバムを手に取ったのは、今現在も熱心に日本語ラップを聴いている(聴き続けている)人ばかりではなく、当時ペイジャーやさんぴん周辺を熱心に聴いていて今は日本語ラップから距離を置いている、という人も多かったのではないでしょうか。
微熱教授さんは「リスナーの価値観とは真逆の内容だったから支持されなかった」「既に彼らの考えが通用するシーンではなくなってしまっていた」と書かれていますが、
僕の考えはむしろ逆で、ペイジャーをリアルタイムで知らない(下手したら過去のペイジャーの音源すらちゃんと聴いていない)リスナー、つまり「旬のラッパーが多数参加しているから」という理由で王道楽土を聴いてみた若いリスナーには、割と好意的に受け止められていた印象があるんです。反発を示したのはオールドファンなのではないかと。

ペイジャーやさんぴんに強い思い入れを持つ人たちが王道楽土を聴いた時に受ける印象は、「文脈回帰」よりも「世代交代」だったのではないか。
ペイジャー自身も世代交代ということは意識していたでしょうし、だからこその文脈回帰を訴えるプロパガンダ的アルバムになったと思うのですが、それがオールドファンには受け入れ難いものだったのではないかと。
数年前からその予兆はあった、というか「実」の部分では世代交代はほぼ終わっていたようにも思えますが、「日本語ラップ史における重要グループのリュニオン作で、オリジナルメンバーを凌ぐほどに生き生きと輝いてみせる若手たち」という、「名」の部分においてもはっきりと目に見える形で世代交代が告げられたことに、「文脈」を知っている人、かつて「文脈」に愛着を持っていた人たちが拒否感を示した、という印象を受けました。
雷のアルバムも全盛期の雷を知っている人にとっては残念な出来でしたが、あの時点では彼らを食ってしまうほどの勢いがある若手はまだそんなにいませんでしたよね。

Anonymous said...

私のコメントに劣らず長いなw


ペイジャーのアルバムへの否定的な反応はオールドファンが多いのではないか?という指摘はとても興味ぶかいです。というのも、1週間ほど前に某氏と対談したのですがそのときに教えてもらったのは「"王道楽土"は巷のネガティブな反応の割りにかなり売れている」という情報でして。


あと、日本語ラップバブル期に雷周辺の面子が曲やアルバムをリリースしたときの反応は、新規リスナーほど支持にまわるという傾向もあったようなので(この時期のリスナーの反応は「blastアワードめった斬り」で分析?してます)、結構信憑性あるかもしれません。


ただ、仮にオールドファンが中心に反発していたとして、「世代交代」が理由で彼らが反発したかというとそうは思いません。なぜなら「MUROとTWIGYの二人だけで作ったアルバムだったら良かったのに」という意見が象徴的なように、MUROやTWIGYの二人が他のMCにラップスキル的に劣っていて、醜態をさらしているわけではないからです。むしろ二人のラップに対するネガティブな意見がないことを見ても、若手と並べてみても遜色ないラップを披露していた点は評価されていたんじゃないか?少なくとも私はMUROとTWIGYが「世代交代」されているようには思いませんでした。


なので、オールドファンがガッカリしたとしたら彼らの懐古趣味に今回の作風が合わなかったらじゃないかと思うのですがどうでしょう?音楽性としても新しさを取り入れて、(彼らからしてみれば)よくわからないラッパー達のわんさか参加している『王道楽土』が昔のローファイで「身内」で固めたようなハードコア主義的な作風からは大きく外れて見えるかもしれないなーとは思います。


もし単なる「懐古趣味の反発」だとしたら、彼らの意見は想像以上に歯牙にかけるもんじゃねーなとも思うんですがw

Anonymous said...

「MUROとTWIGYの二人だけで作ったアルバムだったら良かったのに」という意見は、僕は二人のスキル云々というよりも、そっくりそのまま「たとえ若手を呼ぶことで作品のクオリティが上がろうとも関係ない。俺達はあの頃のペイジャーをもう一度見たいんだ!」というオールドファンの懐古趣味の叫び(=まさに歯牙にもかけられないもの)として捉えていました。ちょっと結論ありきで話を進めすぎて視野狭窄になっていたかもしれません。

反発した大部分がオールドファンだったとしたら、その理由は「彼らの懐古趣味に今回の作風が合わなかったから」の方がしっくりきますね。トラックの評価も芳しくなかったことなども併せて考えると。

Anonymous said...

はじめまして、いつも楽しく拝見させてもらってます

ちょっと前の話題ですがSEEDAとOKIのTERIYAKI BEEFについて書かないのですか?ぜひ微熱氏の意見をお聞きしたいのですが・・・

Anonymous said...

いつも楽しく拝見させていただいてます

Coma-chiとは全然関係ないのですが、ちょっと前に話題になったSeedaとOkiのTERIYAKI BEEFについて書かないのですか?微熱氏の意見をぜひ聞いてみたいのですが・・・

Anonymous said...

先延ばしにしてしまうけど、その辺も対談で軽く触れてますんで少しお待ちを…。


あと個人的には、VERBALが自分のPODCASTで言っているけど、「ビーフがエンターテイメントとして成立しているならアリ」だと言うなら、PODCAST対談が単に曲でアンサーしたものよりどんくらい面白いものなのか?というところに興味あります。


VERBALの理屈をリスナーの立場で考えれば、その内容がつまんなくてビーフの結末として盛り上がらないなら彼は叩かれても仕方ないと思うし、VERBALがそのくらいの覚悟を決めて仕込んだ内容のものだとwktkして待ってます。

Anonymous said...

期待してるような名勝負はねえぞ

と、シーダがブログに書いたように、
バーバルは、フリースタイルバトルを
のらりくらりとかわしたようです。

商売相手がシーダとは違う訳ですし、
彼のファンによるブログへのコメントを見る限り、
無視した方が得策だったと思います。
あぁいった
「シーンにもコミットしている風」の
PODCASTも含め、
バーバルはシーンからの評価に
怯えているとしか思えません。
つまらないラッパーだと思いました。

Anonymous said...

PODCASTに誘って来なかったら来なかったで「アイツはこういう機会を用意したけど来なかったからアイツが悪い」で終わりだろうし、来たら来たでバトルではなくて面と向かって対談しなければならないという汚職政治家並の回避ロジックを考えつくあたり、VERBALさんマジパネェと思いました。しかも、なんかヤバければカットできるし、PODCASTの注目もあがってスポンサーも喜ぶ一石二鳥スタイル。ブレインでもいるんだろうか?


でも、SEEDAのほうにもYOUTUBEにこまめにコメントやムービー出してビーフを演出する裏にはリスナー支持を目論んだ「エンターテイメントがわかる男SEEDA」の刷り込みがある気が。。考えすぎですかそうですか。

Anonymous said...

>VERBALさんマジパネェ

言われれば確かに超シリアスwwww
なんだか、どう転んでも楽しく見れる気がしてきました。
ありがとうございました。

Anonymous said...

考えすぎと言えば、上にJ-RAPと日本語ヒップホップのシーンの堺ってありましたが、↓の記事みたいなリアル階級(?)とかがあるんだろうか?とか考えたりしました。

ttp://black.ap.teacup.com/applet/fukashinogakuin/msgsearch?0str=%82%A0&skey=soulja&inside=1

J-RAPを流行らせたのが最初から芸能界にいたkjだったしな、と思って。
kjは初期のオルタナ-パンクみたいなのやってた時も実はラップはしたかったけれど、所属事務所がOKしなかったからバンドをしかたなくやってたみたいな話があって、ECDはそのインタビューを読んでJ-RAPっていう判断をしたみたいですね。

Anonymous said...

KJ=J-RAPの話はオモロいっすね。好きで音楽やっているくせに所属事務所の言いなりで自分のやりたいことが出来ない=J-RAPっていう考え方はECDらしい。


まぁ音楽に限らず芸能方面は親族の力や事務所の力はそりゃデカいでしょう。それこそ一昔前まではある程度金を持っている人じゃないとオタクにもスノッブにもなれなくて、創作にも格差があったわけだし。でも、そのリアル階級の敷居が取っ払われてニートでも地方のヤンキーでも音楽を作れる時代になったからこそ出てくる革新的な表現のスタイルがあるわけだから、そういうとこにきちんと着目しておかないと時代に取り残されるかもしれんなーとここ数年よく思いますね。

Anonymous said...

いつも楽しく読ませていただいております。
新しい対談が準備中と言うことで、楽しみにしております。
TERIYAKI BEEFは最近の“weezy化”に顕著な、SEEDAのUSシーンへの憧れみたいな物が出ていて面白かったです。(そこそこ売れてるラッパーが無料のDISソングを出すのも、少しコミカルなPVまで作るのも、youtube等を使ったアピールUSシーン的な発想ですし、そういった意味で、SEEDA程にはUSのシーンに詳しくないであろうOKIの単独Disソングが本気すぎて少し空回っていたのが印象的でした。)
さて、今日SEEDAがブログ上で新曲を発表しましたが、何より私は、SEEDAがそこで、9条擁護的な姿勢をみせていたのが印象的でした。今までの日本の“イケイケな”ラッパーさんは義ドラに顕著なように、どちらかと言えば修正主義史観的な思想を持った方が多かったのに対して今回のSEEDAのアプローチ(教科書にも言及していますね)は新鮮に映りました。USではどちらかと言えば左翼的な思想のラッパーが主流のように思えるのですが、日本では逆なんですよね。ECDとかはそうゆう運動にも関わっているみたいですが。

Anonymous said...

自分の身のまわりに起きたこと(プライベートなこと)から、さらに掘り下げて広い社会的な問題(誰にでも通じる一般的なこと)にまで目を向けているSEEDAの視点はとても面白いと思います。

実は対談でも話題に出ているのだけど、社会が抱える問題にまで言及することこそが、不良ラップがシーンの外側に浸透していくひとつの道筋になるかもしれません。

SEEDA自身は右とか左とかは意識していないと思います。というか自分もそういう思想的な部分には全く興味ないです。



TERIYAKI BEEFの話がまた出ましたけど、VERBALのPODCAST対談は思っていた以上にヒドイな。というかVERBALのシーンの見下しっぷりがヒドイ。

「ビーフに答えたところで自分のリスナーはついていけない」とかいっていたけど、M-FLO(VERBAL)のリスナー>日本語ラップリスナーってことか。

まぁ音楽でメシ食っている人だからそこは見過ごすとしても、「日本語ラップに貢献していないヤツがうだうだ言うな」的な発言には久々にクラクラきましたよ。リスナーが日本語ラップを買い支えて貢献しているという考えがこれっぽちもない。翻ってVERBALが日本語ラップに何かを貢献していたかを一生懸命思い返してみてもビックリするくらい何も思いつかない。まぁまだ全4回のうちの1回を聴いただけなので早とちりかもしれませんが。

Anonymous said...

>SEEDA自身は右とか左とかは意識していないと思います。


という部分への補足ですが、私はSEEDAと同年齢なんですが、自分自身そういう思想的/政治的なスタンスを取るということにリアリティを感じたことが一度も無いからそう思ったのです。


そういう思想的なスタンスが自分の生活に直接影響を及ぼすものだという意識がそもそも欠落している、というかどうでもよくて、寧ろ「軍=徴兵=ヤダ」とか「政治が腐っている=生活が苦しい」とかもっと生活に密着したような物言いこそにリアリティを感じます。教科書への言及だって、リアリティの無い(≒説得力の無い)教科書改変への違和感をぶつけたものでしょう。


なので、政治的なテーマを扱う日本語ラップはあんまり好きじゃないのですが、今回のSEEDAの曲には彼の問題意識の持ち方とスタンスになんとなく共感を覚えるところがあって、そこが自分的にはかなり興味ぶかいのでした。

Anonymous said...

VERBALはクール・キースとか、COMPANY FLOWとかが好きなのに、ああいうスタイルでやるって事は、マーケットに合わせてるって事はわかってましたけど、
今回は自分のファンの「HIPHOP民度」が低いと思ってるんだって事を暗に言っちゃってましたね。

SEEDAはどこに行っても、「自分は自分」でローカルの中ででグローバル的な表現をしたいと思ってて、VERBALはグローバル的にJ-RAPを発信、って感じなんですかね?

でも、両者共にHIPHOPのシーンを広めるって名目は同じなんですよね。SEEDAはTERIYAKIみたいなのが広まるくらいならBOSSみたいに「シーンはどんどん小さくなればいい」って思ってるのかと思ってました。

新曲は、わざわざポリティカルなことを言うってよりも、生きてたら思う事を書いた感じでしたね。

Anonymous said...

ラジオ2回目まででわかるビーフに対する2人のスタンスを簡単にまとめると↓のような感じっすね。

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○VERBAL
(自身のマーケット、想定されるリスナー)
ヒップホップを大して聴かない一般人

(ビーフに対するスタンス、考え方)
ビーフはエンターテイメントという意識はある。
しかし日本にはヒップホップが根付いていないので、ビーフなんてやっても意味がない。
ビーフをするなら、ラジオ対談みたいなものできちんとリスナーへ説明して、教育していったほうがシーンの拡大や活性化につながるという考え。


○SEEDA
(自身のマーケット、想定されるリスナー)
ヒップホップや日本語ラップを良く聴いているリスナー

(ビーフに対するスタンス、考え方)
ビーフはエンターテイメントという意識はある。
日本にヒップホップが根付いていないという意識はあるが、だからこそビーフにきちんと向き合う必要がある。
ビーフの中でそれぞれがきちんとしたバトルをやれば自然とシーンに注目が集まり、自分達の行動が理解されるという考え。
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シーンの内部のことを考えれば、「活性化する」のはSEEDAの考え方に違いないと思いますけど、この対談の焦点はシーンの外部への影響を考えたときにどちらが有効か?ということですね。
個人的には、いまのところはあまりどちらも有効とは思えない(シーン外部だけみればビーフは必要ないと思う)っすね。

あと、メディア不在の話がちらっと出てきたけど、たしかにこういう部分の「教育」や「説明」をスルーしてきたメディアの責任は本当に重いと思う。