Wednesday, November 12, 2008

微熱メモ vol.8 - 10年後のシーンを想像してみた

・「"シーン"とは何だろう?」ということを最近よく考える。Zeebraは日本語ラップ黎明期のころに「"シーン"という存在しないものをあたかも存在するように見せかけていた」というようなことを言っていたけども、その発言はすごく興味深い。

・つまりZeebraたち、黎明期のラッパーは周囲の注目を受けるため、要は小さい活動をより大きくて意味のある活動に変えていくために、「宇多川町で新しいムーブメントが起こっているよ」ということを周りの人たちに示して、まだ何も無かった場をあたかも「何か新しいことが起こっている場」にデッチあげていたという。

・じゃあZeebraの言うとおり、初期の"シーン"がただの「幻想の場」だったとして、その"シーン"の意味が過去と現在でまったく同じなのかといったらそれは違う。なぜなら、その何も無かった場所には歴史が積みあがっていて、そこにコミットしている人たちは基本的にその場の歴史や価値観を共有するようになっているからだ。

・"シーン"にコミットしている人たちはそこに横たわる歴史や価値観――「アーティスト同士の繋がり」や「作品や時代の繋がり」、「リリックやラップ、トラックの発展」や、はたまた「スキルの良し悪しの概念(何がワックなのか?)」というような"文脈"を共有している。逆に言うと、そういう"文脈"を知らない人は"シーン"の外の人となるし、"文脈"をわかる人が"シーン"の中にいる人となる。じゃあ、さらにもっと突き詰めれば、その"文脈"がわかる人たちの集合体こそがそのまま"シーン"と言えるんじゃないか。

・仮に"シーン"を「"文脈"をわかる人たちの集合体」として捉えてみると、その"文脈"を作る「もの」の存在がこれまでになく重要な位置をしめてくることがわかる。なぜなら「アーティスト同士の繋がり」や「作品や時代の繋がり」という情報やそれらの歴史を残すもの、あるいは「何がワックで何がそうでないのか?」というような価値観がなくなってしまうと、皆で共有できる"文脈"がなくなってしまうからだ。それはそのまま「"シーン"の消滅」を意味する。

・日本語ラップにおいて、一番わかりやすい"文脈"は雑誌『blast』上にあったものだろう。『blast』がアーティストや作品の情報を提供して、そこに歴史が残る。『blast』が大きく取り上げたものは日本語ラップでも重要な意味を持つし、取り上げもしなかったものは「ワック(≒シーンの外にあるもの)」だというように、明確で簡単に皆が共有できる"文脈"がソコにあったんじゃないかと考えることができる。『blast』から「クラシック」として位置づけられた曲("証言"や"人間発言所"など)をはじめは理解できなくても誰しもが聴きこんで理解しようと努め、『blast』から扱われなかったアーティスト(ドラゴンアッシュや一時期のスチャダラパーなど)やその曲は「シーンの外のもの」として誰もが見なした。日本語ラップ黎明期からの"文脈"を持つ『blast』はそこにコミットしている人たちの価値観をある程度は収瞼できていた。

・実際、いま日本語ラップで注目を受けているSEEDAにしろ、ANARCHYにしろ『blast』が残した"最後の文脈"上に存在するアーティストだし、『blast』の休刊から08年現在までの間で日本語ラップの"文脈"上にいると"シーン"で認識されているアーティストは、SEEDAやANARCHYからレペゼンされたアーティストと、MCバトルで活躍しているラッパー達、元々『blast』にいたアーティストに繋がっていた人たちで、それ以外で注目を受けているアーティストはほとんどいないと言っていいと思う。

・こういう風に考えてみると、SEEDAやANARCHYを最後に潰えた"文脈"が今後どのように残っていくかを予想することが「"シーン"が隆盛するか? それとも消滅してしまうか?」を見出す糸口になるといえる。「未来は暗くない」とか「シーンが無くなるはずはない」とか言いたい気持ちもわからなくはないし、実際に"シーン"が一切消滅してしまうことは無いのだろうけども、そこでそう言い切ってしまうのは単なる思考停止だ。

・"シーン"の内にいたラッパーが外のリスナーを掴むためにポップになっていったり、または外にいるラッパーのスキルが向上していくような動きの中でJ-POPと日本語ラップの境界線はさらに曖昧になるし、いまの日本語ラップの多様性は"シーン"の内側でもアーティスト同士やリスナー同士の壁を生む。そういう流れを踏まえたうえで今後の「"シーン"の形成」に対してネガティブな可能性のみを2点だけ記しておく。

・まず1つはJ-POP的なラップに日本語ラップが取って代わられる可能性。"文脈"を保つものが無くなって、周りの"シーン"との境界線が曖昧になっていく中で、「これがワックだ」というような日本語ラップ的な価値観が薄れる。また、"シーン"が「集合体」である以上、"文脈"を失って集合体の境界線が曖昧になっていく中で、人数的には圧倒的多数になるJ-POP的なリスナーの価値観が日本語ラップ的な価値観に勝り、主流の"文脈"はJ-POP的なラップが担うようになる。(勿論、旧来の"文脈"は残るだろうけども、海外アングラやウェッサイの"文脈"のようにマイナーな傍流として細々と残っていく)

・そして2つ目は"シーン"の内部が細分化されて、小さな"文脈"しか残らなくなる可能性。皆で共有できる"文脈"が無くなって、日本語ラップの形が多様化する中で、個人個人の「好き/嫌い」の壁が"シーン"の内部を分断していく。ジャジーラップだったり、ギャングスタラップだったり、アングララップだったり、日本語ラップのコミュニティが蛸壺化して、もともとが一枚岩のように見えていた日本語ラップが、リスナーやアーティストによって「自分の好きな"シーン"」の形に分断されていく。それらの小さな"シーン"のなかで個々に"文脈"が作られていくようになる。

・長々と書いてきたけども、これらがこれから10年後くらいの"シーン"の形かもしれない。実際に海外の"シーン"で起こっていたことを踏まえると結構な説得力もあると思う。でも、それらの「可能性」だけでなく、ひとつだけ希望を見出してみれば、過去の歴史や海外ヒップホップ、他の音楽ジャンルの例を見ても、常に"文脈"は新しくて力強いムーブメントの後に出来ていることだろう。アーティストのクリエイティブな動きの後に大多数のリスナーはついて行き、自然に"シーン"は形成されていくのだ。そしていままで"シーン"の中でそれは行われ、"シーン"が牽引されてきたという確かな実績が残っている。

Sunday, October 26, 2008

BES - Rebuild






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いまの日本語ラップで表現されている「リアル」とは「過去の経験のリアル」と、「自分を取り巻く環境や生活のリアル」と、「本音や素直な感情のリアル」の3つに大きく別けられる。たとえばBRON-Kは『奇妙頂来相模富士』で「過去のリアル」をロマンチックに表現したし、MSCは「環境のリアル」を『MATADOR』で見事に描き出し、環境に翻弄され葛藤を抱える不良ラップの礎を築いた。しかし、過去の経験を切り取ることには限りがあるし、自分を取り巻く環境は絶えず変化しつづける。誰もがそんなにドラマティックな経験に満ちているわけでもないし、いつまでもストレスフルな生活を続けることも出来はしない。

自分の生い立ち(過去のリアル)とハスリングライフ(環境のリアル)を「私小説的」な表現方法に昇華して編み出したSEEDAはそれ自体が画期的なことだったのだけども、さらにその後、ただ街中を散歩するような何気ない生活のひとコマを『街風』に取り入れ、『HEAVEN』では自分が抱えている想いや葛藤(感情のリアル)をエモーショナルなフロウと共に盛り込んだ。「普通の生活」を描いていれば自分を取り巻く環境が安定しようが落ちてしまおうがそこにある「リアル」は大きく変わることは無いし、「自分の感情」を表現することにネタの限界は無い。『街風』や『HEAVEN』に見れるこの変化はSEEDAが「リアルでいつづける」ために模索したとても有効な処方で、だからこそこの2つの作品は『花と雨』と同様に素晴らしいアイデアに満ちた作品だと言える。

鬼一家の『赤落』が面白いのは鬼が"小名浜""甘い思い出"で「自分の身に降りかかった不幸や災い」を劇的に演出してみせた後に、"スタア募集"や"見えない子供見てない大人"では政治や上の世代への痛烈な批判を繰り広げるすごく社会派的な一面が見れるところだろう。

これはまるで政治だとか資本主義社会のせいで、絶え間なく災難が降りかかっているとでも言っているかのようだけども、単に自分の「不幸や災い」だけを表現するのではなく、その不幸や災いが「何のせいで生まれているのか?」まで言及することで、「自分の敵の姿」を明らかにして作品が持つメッセージ力をより強力にしているのだ。

このように「リアルの種類」を整理して、「リアルの源泉」を追うことでその作品やアーティストの特性と、その先に広がる可能性までを発見することができる。その好例が前述のSEEDAとBESの作品なのだけど、SWANKY SWIPEの『Bunks Marmalade』とBESの『Rebuild』はその最後の曲に着目すると、それぞれの作品が持つ構造の理由とBESの人間味の深さ、そしてまた違った「リアルの形」までを炙りだすことが出来る。

『Bunks Marmalade』の"評決のとき"はBESが世話になっていたオジさんが抗争に巻き込まれ、挙句に裁判で極刑をくらってしまったことへの不条理と、社会が「敵」だと放逐したオジさんをフォローすることの出来ない自分の無力さを嘆いた曲だ。この曲にあるのは、自分の手が届かない、自分が介在することができない社会だとかルールだとか人間関係のいざこざ(総称して"バビロン")がもたらした「不幸や災い」で、その敵はやはり自分の目には見えない「バビロン」なのだ。だから『Bunks Marmalade』でBESはゲロを吐きつづけ、自分では最早どうしようもない生活や環境の不条理(環境のリアル)を徹底的に描いて見せた。

しかし、それから2年ほど経った『Rebuild』でBESの描く「リアル」の形はまた変わってしまう。『Rebuild』の日本語訳はずばり「子供との関係を修復する」というもので、このタイトルの意味と最後の曲"On a Sunday"を聴けば「懺悔」や「後悔」という言葉にべったり色塗られたこの作品がいったい何を表現したいのか、BESは何に懺悔をしているのかがわかる。

"On a Sunday"でBESはドラッグにまみれて、金を稼ぎ出すことも出来ないダメな生活しつづけた結果に自分の子供へ与えてしまった不幸や災いに懺悔する。ここでの「不幸や災い」は自分が導いてしまったものに違いなく、その「敵の姿」は自分自身の内面にあるのだ。

だからこそ、『Rebuild』の内容は『Bunks Marmalade』のような「環境のリアル」を描いたものではなく、より自分の内面にフォーカスした「感情のリアル」に傾いたものになっている。身内に降りかかった「不幸や災い」のもとを辿れば、自分自身に行き着いてしまった居心地の悪さが作品全体を覆う。

「どうしようもない自分」が引き起こしてしまった不幸や災いの居心地の悪さは、バビロンが引き起こしたものの比ではなく、『Bunks Marmalade』でバビロンに向けられていた視線は全て自分の内面に注がれる。

『恵まれた環境 仲間とBaby / 止めるぜ言い訳、誰かのせいに / 誰もが正義また誰もが悪魔 (略) 上だの下だの金額の違い / 大人の階段登るそれだけさ (略) 増える理想現実の違い / でも噛み締める納得 明日なら見える』


BESは不幸や災いをバビロンのせいにするのは全てお門違いだと切り捨てる。本当の「リアル」は「環境」ではなく「自分の内面」にあると。「リアル」というものに優劣があるかどうかはわからないけども、BESが指し示すこの「リアルの形」はいまある不良ラップの中でも抜きん出て新しく、その方向性には強い説得力がある。

Friday, October 03, 2008

Anarchy - Dream & Drama & NORIKIYO - OUTLET BLUES





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"My Words"のときにも書いたけども、Anarchyのラッパーとしてのエネルギーの源は「夢と現実」のギャップに生じるストレスにあると思う。それは人知れず地方都市で活動することのストレスが"Stilling, Still Dreaming"を生んだみたいなもので、そのギャップが大きければ大きいほどAnarchyというラッパーの魅力が大きくなっていくのではないか、という考えは今も変わらない。

"Dream & Drama"でここまで巧みにストーリーテリングを練り上げて、自分の「夢と現実(=リアル)」をきちんと落としこめていることにビックリしたのだけども、反面、その端々に見えてくるのは「描いている夢のディテール」で、聴いているこっちがドキドキしてしまうほど自信満々で広げていた"Rob the World"の得体が知れない風呂敷のデカさに比べれば、あまりにも地に足着いた「夢のリアルさ」になんだか興ざめしてしまった。

「ただ夢を追い求めることにはいずれ限界がある」ということにすら自覚的になっているAnarchyの「夢を持て」という言葉は魅惑的というより、寧ろ「その為の努力や代償」のプレッシャーのほうが重くのしかかってくる。

「NORIKIYOのラップは単調で、BLのトラックは平坦で面白味がない」という評価をたった1年で、BLは何かに開き直ったかのような悪趣味で派手派手しいギミックと、聴き手の想像の斜め上をいくようなアイデアで、NORIKIYOはその変則きわまるビートのうえでも見劣りしないくんずほぐれずのラッピンフロウで跳ね返した。

"EXIT"での「迷路のような人生のなかでビッコを引きながら出口を探して前進する」姿にブルースがあるというならば、「BIKKO」というワードや「出口を探して前進する」ような描写がほとんど出てこない"OUTLET BLUES"にはハンデキャップを抱えながらも歩みを止めない男の哀愁というよりは、「ラッパーとしてやっていく他ない」という開き直り感のほうが強く打ち出され、そこにはブルースというより、その開き直りの先にある「本当にこれでやっていけるのか?」というような漠然とした不安が靄のようにかかっていて、曲調と相まる躁鬱っぷりがどうにも落ち着かない。

しかし、その「ラッパーとしてやっていく」という開き直りのもとで、ラップスキルが磨き上げられ、プロダクションが飛躍的に向上したというならば、「リリックの面白味」が「作品の面白味」に変わっていく、「リアル志向」が「作品主義」へ移行していく過程を、NORIKIYOの素の想いそのままに見て取ることのできる貴重な作品として大変興味深く聴きこむことができる。

Tuesday, September 16, 2008

Young Jeezy - The Recession






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「ストリートには自分を嵌めようとする奴らがいて、一方ブッシュは執拗に国民を苦しめつづける。アメリカは不景気で無職で溢れ返りこの世は地獄。だが、俺には生き抜く力がある」 たったこれだけのことを75分にも渡ってジージーは叫び続ける。

"不景気"と銘打たれたこのアルバムは、まるで全米がその名の意味を再確認しているかのように堅実に売れ、結果的に08年度ラップアルバムセールス2位を獲得。でもそれは、「リングトーンはどうでもいい。ラジオプレイもどうでもいい。女向けの音楽なんか糞食らえ。内容さえ良ければ人は買う」というジージーの愚直な理想主義の産物だというよりも、あらがいようもなく下り坂を転げ落ちていっているアメリカ全国民が一点の曇りもなくアメリカ全土を照らし出すかのようなジージーの「俺イズム」に何かしら見出すものがあったからだろう。

まるで天から降り注ぐような神々しさを持つジージーの「俺イズム」を彩るのは、高らかに勝利を謳うホーン、敵味方関係なく威嚇する32分ハットと何層にも重なる声のレイヤー。そのカタストロフィックな音の洪水をジージーは自由自在に操ってみせ、ただ自分の力だけを誇示する。小難しい理屈や説教や言葉遊びは地獄では役に立たないし、自己の探求や精神の救済はメシの種にもなりゃしない。不況下を生き残るためには先ず第一に「力」だと言い切ってしまうこの説得力はどうだ?

ジージーのファンだと公言するマイケル・フェルプスに向かって「フェルプスは競泳界のジージーだ」と臆面無く言ってのけてしまう図々しさも、ラッパーなら当たり前のいつものブラフだと笑って切り捨ててしまっても別に構わない。だけど、「俺がこの不景気をなんとかしなければいけない」と勝手に本気で責任を背負い込んでいるこの男がフェルプスと同じくらいアメリカ国民に「希望の光」をともしている事実を否定することもできない。

Saturday, September 13, 2008